第五章:戦う理由
「はぁっ!!」
気合いの声と共に突き出された一撃が、空を引き裂く。打った物すべてを砕かんとばかりに気迫が込められていたが、それはただむなしく、何もない空間を薙ぐばかりであった。
だが、それも一振りでは終わらない。瞬時に体勢を立て直し、避けられた事で生じる隙を埋める様に、流れるような動きで次々と剣先が宙に舞う。まるで、一人きりで演武でも行っているかのように、流麗な剣の舞。
その剣の嵐を悠然と掻い潜っているのは、ガートルード家に逗留する事になったアレスであった。
グラード・ガートルードによる手荒な試験と歓迎の後、すでに3日が過ぎていた。雇われた"狩人"はそのほとんどがガートルードの屋敷に逗留しており、東側のある一角が彼らに与えられた本部施設の様な場所となっていた。アレスが入った時点で選抜された"狩人"の数は、9人にまでなっており、他にも腕が立つが、"獣"相手には力不足という者達は、数人で一組となり見廻りなどに精を出している。
「ふっ――はっ!!」
目の前で一心不乱に剣を繰り出してくる少年も、屋敷に残留している一人であった。未だ幼さの残る容貌に、適当に揃えられた黒髪と薄い碧眼が印象的であるが、真に刮目すべきはその武芸であった。背丈は並ながらも、よく修練を積んでおり、その連撃は苛烈の一言に尽きた。
(だが、まだまだ若いんだよなぁ)
確かに素質はあるし、努力もしている。荒削りながらも激しい剣先は並の兵士を圧倒するであろう。
しかし、若さからくる負けん気の強さがアレスを辟易させていた。
最初にグラードに会った際、同伴していた一人がガディスというこの少年だった。どういう理屈かは分からないが、彼ともう一人は自己の気配をほぼ遮断するという、奇妙な能力を持っていた。もっとも、完全とは言えず、幾つかの弱点も存在する。まさにその点を突くことでアレスは勝負を拾ったと言える。
しかし、不意討ちで圧倒的立場にいたにも関わらずに遅れを取った事を、この少年は猛烈な恥、そして修行不足と取ったらしい。
「アレスさん、相変わらず逃げの一手かい!?」
そして暇さえあれば、アレスを引っ張り出して今のように修練の相手としていた。もっとも、アレスは真面目に指導などをする気はないので、ひたすら攻撃を避け続けるだけだ。それでも、アレスの動きに対応して攻撃の軌跡を微妙に変化させてくるあたり、決して油断はできないのだが。
稀に、肝を冷やしそうになるほど際どい瞬間もあるが、二人の間に横たわる実力差は埋まることはない。幾度か繰り返す内に、先に焦れてくるのはガディスの方であった。
「そっちが来ないなら――!!」
気合いも新たに、踏み込んでくるガディスがその剣を振りかぶる。訓練用に刃を潰してあるとはいえ、元は兵士が使っていた実践用の拵えだ。まして、彼ほどの腕で振られてまともに喰らった場合、骨の数本は覚悟せねばなるまい。
しかし、そんな脅威を前にしても、アレスはどこまでも冷静であった。
(右上……いや、そう見せかけて左からか)
その驚異的な動体視力と反射神経が、ガディスの剣先に反応して即座に肉体を動かす。
右肩に振りかぶって放たれた一撃は、アレスの眼前で空振りすると、そのまま上半身ごと左側に体勢が流れる。そう見て取った瞬間、前の一撃を上回る速度をもって、横薙ぎの旋風が巻き起こる。単純に腕力で振るっただけではここまでの速度はでない。限界まで捻りを加えた上半身の反発力をも上乗せした、まさに乾坤一擲の一撃だった。
しかし、全力で放たれた一撃も、アレスの目はしっかりと捉えている。後方に跳んで空を斬らせると、今度こそ上体が流れたガディスに向かい間合いを詰める。
あわてて体勢を立て直そうと足掻くが、時すでに遅し。伸びきった腕が、即座に掴まれて、引き寄せられる。
「わ、わわっ――」
思わず抵抗して腕を引こうとするが、そこでアレスの顔が、意地悪げに笑った。
「よっ」
ガディスの掛け声に比べれば、どうしようもなく気の抜けた、呟くような一言。それと同時に、緩やかにアレスの体が舞う。
はたから見れば、文字通り舞でも踊っているかの様な僅かなやりとり。アレスが踏み込んだと思った瞬間、今度は玩具のようにガディスの体が宙を舞うのが見える。
いっそ、緩やかに見えるほどの自然さで放り投げ出されたガディスは、その見た目とは裏腹に、容赦なく背から地に叩きつけられた。
「――!?」
あまりの痛みに、声も無く悶えるガディス。地に倒れ伏した姿を見れば、勝負がついた事は誰の目にも明らかであった。
「あーあ、今日もダメだったわねぇ。御愁傷様」
そんなガディスに、容赦なく追い討ちが入る。
からかうような口調ではあったが、嘲笑う様な印象はない。どちらかといえば呆れたような調子で声をかけたのは、二人のやりとりをずっと見物していた少女――ガディスの姉、シルファであった。
姉弟だけあって、シルファのほうも弟と同様、黒髪に碧眼という出で立ちであった。ただし、容貌に関して言えば、シルファのそれは武芸を修めている者とは思えぬほど繊細な顔立ちであり、後ろでひとくくりにした艶やかな長髪を下ろしドレスでも着込めば、どこかの貴族の令嬢でも十分通用するであろう。
「それにしても……毎回毎回、全く同じ結末じゃない。成長してるのかしら」
黙っていればまさに深窓の令嬢と言えたが、少女でありながら武の腕前は一流であり、その顔立ちも、凛々しいと表現した方がしっくりくる。何より、そのさばさばした口調が彼女の気性を如実に表していた。
「……うるさい、ほっといてくれ。馬鹿姉」
「言うわね。ヘタレ弟」
ようやく声を出せるようになったガディスが、開口一番に憎まれ口を開く。無言のまま手にしていた槍の石突を弟へ向けると、いまだに地に倒れたままの弟の身体をつついて回る。
口は開けども、未だ体からダメージは抜けていないらしい。ガディスの方は、シルファにされるがままである。少女の方も別にこれ以上痛め付けようというわけではなく、ただの悪戯程度に遊んでいるだけであろう。
「あ、やめんか――ぐぇ……こ、この野郎……」
「野郎って誰の事よ、ほれほれ」
「痛ぇって言ってるだろうが!いい加減にしろ!」
数日を共に過ごしただけであったが、この二人は口喧嘩は多いものの、別にお互いを嫌っている訳では無い。むしろ、子供のようなじゃれあいは、お互いに信頼している証だろうとアレスは思っていた。
もっとも、なまじ腕が立つが故に、お互いにぎりぎりな力加減をわきまえている事が、拍車をかけているとも言えた。
「あ、アレスさん。どちらへ?」
踵を返して屋敷の中へ戻ろうとした所で、後ろからシルファの声がかかる。別に、特に気配を隠していた訳ではなかったが、完全にこちらに背を向けていたにもかかわらず気付くあたり、なかなか油断できない。
「屋敷に戻る。この後、会議があるだろう」
「あ、そういえば言ってましたね」
時刻的には今しばらく猶予がありそうだが、必要以上にこの場にいる事もない。三人がいるのは数ある中庭の一つであったが、特に趣向を凝らしている訳ではなく、暇も潰せそうにないのだ。今の今まで弄ばれていた男以外は。
「そろそろ、本格的に動き始めるらしいですよ。探索が得意な人がいると、やっぱり色々と便利ですねぇ」
「まあ、あれは才能だからなぁ」
特に何かが見える訳ではないが、少し目を細め、遠くを見据えるように屋敷を眺める。少し立ち止まっていたアレスに、先に扉を開けて待っていたシルファが不思議そうに訊ねた。
「どうかしましたか」
「いや、何でもないよ。そう、彼はあのままでいいのかと思ってね」
「ああ、ガーディの事ですか?いいんです。しばらく日光浴をしたいそうですから」
「そうか」
少しも躊躇なく答えるシルファに、こちらも微塵の迷いなく頷く。別に猛獣が徘徊している訳ではないのだから、気にする必要もない。ましてや、目の前で話している少女の身内の事だ。それ以上介入する気も生じずに、アレスも少女に続いて扉をくぐった。
数日過ごした屋敷ではあったが、いまだに構造を把握しきれていなかった。武門の家柄たる"南門の守護神"ガートルードの気質を表すように、その屋敷は戦う事を前提にしたかのような構造をしていた。一見しただけでは全体がまるで見えない、いりくんだ構造は、さしずめ迷宮か要塞という言葉がぴったりと合う。
彼ら"狩人"に与えられたのは、敷地の東側に伸びている一棟であった。元は来客用に使用されていたらしく、本宅に比べるとシンプルな間取りであり、使い易さは比較にならない。招いた客人が迷わぬためか、所々に周囲の地図が用意されているのもそれを助けていた。
アレスにしても、本部周辺ならばすでに見て回り、数日の内にその構造を把握してある。何かあったとしても、その周囲においてなら迅速に対応できる自信がある。しかし、把握してある範囲から一度抜ければ、下手をすれば一瞬で場所を見失ってしまう可能性もあった。むしろ、内部に凝った仕掛けを持たない分、その周囲に力を入れている傾向がある。
(まったく……めんどくさい場所だ)
故に"獣"対策の人員の中でも、本部から離れる者は稀だった。連絡は、常時控えている屋敷の警備の者達が受け持っていたし、必要な物も大抵は備えているので、皆目の前の仕事にさえ集中していればよかった。
もっとも、アレスの前を歩く少女とその弟は、その限りではない。
かなり初期の頃から参加していた2人は、若さゆえの好奇心が勝ったか、暇さえあれば屋敷内の探索を行っていたらしい。幾度か衝突もあったらしいが、その辺りの詳しい事情は知らない。重要なのは"狩人"の中で最も屋敷内に精通しているのは、少女達であるという事だ。
よって、目的地が同じならばその2人と共に向かうのが、最も確実な手段と言える。
例に漏れずにアレスもその恩恵に預かっていた。その反応速度に比べ、方向感覚や距離感などを掴むのは人並みにすぎないアレスにとって、この二人の案内は必須と言える。可能な限り道筋を覚えているとはいえ、しょっちゅう屋敷内を連れ回されている身としては帰り道がはっきりと分からないのは不安極まりない。
(迷子って年でもないしなぁ)
胸中で情けない事を呟きつつ、少女の歩く道をしっかりと記憶する。少女の歩みはのんびりとした物で、とりとめない話をしながら、その間に考え事をする余裕も十分にあった。
「ところで……」
歩みを止めないままで器用にこちらを向くと、シルファは小首を傾げながら言った。
「アレスさんって、どうして"狩人"になろうって思ったんですか?」
「……こっちからしてみれば、君らみたいな若い子が"狩人"として生きている方が、よっぽど疑問なんだが」
「えーと、それは乙女の秘密というやつです」
「じゃあ、こっちは大人の事情という事で」
二人の間に流れる沈黙は、それほど長くは続かなかった。少し批難がましく頬を膨らませるシルファに、口の端に笑みを浮かべて答える。
「まあ、たいした理由でもないけどな」
「それでも、聞いてみたいです」
後ろを向きながらもペースを変えずに器用に歩き続けるシルファの声は、先ほどまで世間話をしていた時となんら変わった様には見えない。しかし、その瞳はまっすぐにアレスの方を見つめており、やけに真剣みを帯びた光を放っている。
広大な平原を思わせる、透き通るような碧眼が見据える先で、アレスはどうでもよさ気に肩をすくめた。
「じゃあ、お互いに手札をさらす事が条件だ。話したくない事があれば、その部分は深く突っ込まない事。どうだ?」
「いいですよ。じゃあ、先手はアレスさんに譲ります」
「この場合、先手と言うよりは、下手といった方が正しい気がするが」
少女の物言いに、苦笑しながら憎まれ口を叩く。
(しかし……)
自分が"狩人"になった、理由。
まず思い出すのは、赤く染まった戦場。剣も、槍も、鎧も、盾も……そこではすべてが意味をなくしていた。地を流れるのは、地獄を連想させるような赤黒く染まった川であり、そこかしこに散らばるのは、染料でもかぶせたかのように鮮やかな色彩に染まった者達。
そして、聞こえた――否、感じた。あまりにも激しい咆哮は、声という範疇を超えて、物理的な圧力となって肌を叩くほどであった。
「昔、守ろうと思った人がいてね――」
ふみとどまったのか……それとも立ちすくんでいたのかは分からない。ただひとつ、はっきりしていたのは、その場にいれば、遅かれ早かれ死を迎えることになるという事。
命が惜しかった。若く、まだ幼いとまで言える身は、心は、未来を望んだ。ただひたすらに、何を措いたとしても、生きたい、と。
「だが、俺はその誓いを果たせなかった。結局、最後は自分の身が可愛かったんだな」
今でも目に浮かぶのは、見上げる程に巨大な影。彼の者が進むところは常に死が振りまかれており、立ち向かうのは狂気の性としか思えなかった。自らの未熟な腕では、決して超えられぬであろう、壁。それを前にした時の事は、決して心の中で消えることはないであろう。
「そして……俺は全てを失った」
「アレスさんは、復讐のために"狩人"に?」
「確かにそれもある。だが、それ以上にあの時逃げてしまった自分が許せないな」
故に、今の自分は死人と同じ。自ら価値を貶め、死すべき時を見失った、がらんどうの刃。
「だから、今も奴らを相手に剣を振るってる。後は、哀れに死ぬ場所を選ぶだけって、ところだ」
「死ぬために、闘うというんですか」
ふと気がつくと、シルファは立ち止まっていた。先程までの陽気さは潜み、かわりに恐いくらい真剣な目付きでこちらを見つめている。
「そうだよ。"獣"を殺して、殺して、いつか殺される」
肩をすくめながら、気楽に答える。
……だから、"狩人"になったのだ。自分の罪から目を背けるために。少しでも、誓いを取り戻すために。過去へと戻れぬ身なれど、彼はかつての己しか、見ていない。
「さて、こっちの話はおしまいだ。こんどはそっちの番だよ」
「待って下さい、あなたは――」
「これ以上は話す気はない。ルール違反だよ」
「む」
その顔には不満がありありと見て取れるが、約束を違えるつもりはないのだろう。不承不承といった風に、シルファはこちらから目を背けると、再び歩き始めた。
その後、何か小声で呟いたようだが、アレスの耳では聞きとれなかった。
「私達は」
そして、唐突に話始める。
「私達は、孤児でした。昔……"獣"に襲われて、村中の人が殺されました。私達は、たまたま山で仕事を言われていて、運良く生き延びる事ができました」
シルファの話し方は淡々としており、そこに込められた感情を窺う事ができない。
「そんな時に、私達の師匠でもある人に出逢い、拾われました。二人きりでは生きていく事も難しく、彼に保護されていなければ、死んでいたでしょう」
「恩人って訳だ」
「そうです。彼も別に慈善事業をしていた訳ではなく、こちらを労働力として考えている節がありました」
「ふん。君らの技術はそいつの受け売りか」
「はい。私達の持つ技術の大半は、彼に手ほどきを受けました。望んだのは、私達です。村の人の仇をうつために」
仇という言葉に反応するように、アレスの眉が一瞬跳ねる。シルファが気付いたかは分からない。まるで、濁流の様に言葉をつむぐシルファの表情を窺う事が出来ぬように。
「私は――いえ、私も皆を救えなかったのが、悔しかった。だから力を求めました。そして、少しでも"獣"の欲望に襲われる人を減らしたい。そう思いました」
力強く語る言葉は、そのまま自己の自信を表す事となる。語る口は虚偽を混ぜる気配もなく、本心からの言葉である事だと容易にとれる。
(ふん、なるほどね)
何故、それほどの力を――少女の語りたかったであろう言葉が、聞こえてくる様であった。自分達を容易にあしらうほどの力の持ち主が、信念も理想も持たぬ、ただの殺戮狂に近いという事が彼女の心に影を落としている。
会話は終わりとばかりに、口を閉じて歩くペースを上げる少女に置いていかれぬよう、アレスも歩幅を広くとる。話を続けている内に、いつの間にか見覚えがある風景が視界に入ってきた。ほどなく、二人の足がある扉の前で止まる。
「アレスさん」
前を向き、こちらを見ることなくシルファは語りかける。
「アレスさんが守りたかった人って、誰だったんですか?家族、それとも恋人?」
「主君だ」
一瞬の間もおかずに応えたアレスに、驚いた様にシルファが振り向いた。しばし間を置き、無言のままドアノブに手をかける。そこに力を入れる前に、口の端から零れ落ちるように、言葉が呟かれた。
「果たして、その人は今のあなたを見てどう思うでしょうね」
そう小さく呟くと、無言のまま会議室の扉を開くのであった。