一章 三人の落ちこぼれ共①
春先の暖かい日差しが差し込む、早朝のバスの中。
車内には学生やスーツ姿のサラリーマンが大半を占めており、眠た気に瞼を擦るもの、何かに思いふける者など様々であった。
石動高校の一年生、神鳥悠は前から二番目、左の一人席に座っていた。
バスの構造上、前輪の後ろに設けられた座席は足場が窮屈で、膝を曲げて盛り上がった前輪に足を乗せるしかないのだ。
好んで座る人は少ない。だが、この窮屈感が彼には心地よかった。自分が座れるだけの最低限の空間で、パズルのピースのようにピタリとはまっているように感じられる。
乗客たちは、発車までしばしの余韻を過ごしていた。
ただし、一人の少女がやってくるまでは。
その少女は、慌ただしく車内に駆け込んできた。
肩まで伸びているのは絹糸のように細い髪、色は烏の濡羽のよう。息を切らしながら、定期入れを取り出したところで――しばし、硬直する。
「あれ……?」
あどけない顔立ちに、焦りの色が混じる。鞄の中を引っかきまわしながら、しきりに疑問の声をあげていた。
「ちゃんと入れたのにぃ……うん、寝る前に確認したんだってばぁ」
時折交る、誰かと話しているようか声は、焦っているためなのか。乗客も少女の異変に気づいたのか、徐々に視線が集まって行く。
周りの乗客の重圧が、バスの中を陰鬱とさせる。
それに気づいたのか、少女の手の動きは荒々しくなっていく。悠はこの空気がとても嫌いであった。
誰も助けようとはせず、ただ少女が定期を見つけ出すか諦めるのを願っている。手を差し伸べることはせず、陪観という名の外野に立ち、困っていても関わろうとしない。むしろ、無言の圧力をかけて目の前から追い払おうとする。
その考えが、気に入らなかった。
幸か不幸か、身にまとった制服は悠と同じ学校のものである。
悠はサイフの中身を確認すると、狭い空間から芋虫のように座席から這い出る。念のため、席を取られないように体操服を残して、運転席横の精算機へと向かう。
「あのー……この娘、知り合いなんで」
精算機に二百円を放り込むと、軽快な音と共に『入金完了』と液晶に表示される。乗客たちはやれやれといった様子で、みな自分の世界へと戻っていく。
悠もそそくさと座席に戻ろうとした矢先、右腕がピンと張る。
「え?」
見ると、先ほどの少女が俯いたまま右の手首を掴んでいた。
少女の掌は羽毛のように柔らかく暖かい。けれども、力はしっかりと込められている。
「なんで……」
搾り出すかのようにか細い声で、少女は訴える。
「なんで助けちゃったのぉ……!!」
目には大粒の涙を浮かべ、唇はわなわなと震えている。
てっきりお礼の言葉を言われると思っていた悠は、戸惑いを隠せなかった。
何故助けたのか……それは困っていたからでないのか。頭の中で返答の組み立てをしていると、不意に少女の鞄から何かが飛び出した。
とても小さいそれは、涙目の少女の脳天を足蹴にし、跳躍する。
体長は三十センチ程だろうか、狩衣を身に纏い、はみ出た手足はふさふさの毛並みで獣のものだ。烏帽子を被ったその姿は、まさにミニチュアの狐宮司である。
「ふ、フーちゃん……」
「この――バカもんがぁ!!」
フーちゃんと呼ばれた小さな狐は、犬歯をむき出しにして吼える。
「満足に人間を助けられないどころか、人間に助けられるとは何たる体か、ひかり!」
ひかりと呼ばれた少女の目の前に降りてくると、ズビシィと扇を突きつける。
「で、でもボクは助けてなんて言ってないよ!」
「お前は誰かに助けてくれと言われんと、救いの手を伸ばさんとでもいうのか!?」
「う……」
確信を突かれたのか、ぐうの音も出ない様子だ。
「そういうところが神としての自覚が足らんというのだ!」
と、フーちゃんは袂から小さな本を取り出した。シンプルなデザインでイラストなどは見受けられない。
それを真上に放り投げると、小気味よい音と煙の演出によって、手帳のようなものに姿を変えた。
白色を基調とした、ボタンで閉じるタイプだ。
そして、どこから取り出したのか身の丈大の木槌を振りかぶる。
「規定により、スタンプボッシュート!」
その声を引き金に、パチンとボタンが外れ手帳が開かれる。
一見、手帳と見えてとれたそれは、分厚いスタンプ帳であった。
勢いよくスタンプの押された紙へ木槌を振り下ろす。
すると、みるみるうちにスタンプの跡が剥がれ、フーちゃんの袂に引き寄せられていく。
ひかりは小さな嗚咽を漏らしながらも、その光景を見守ることしかできなかった。
同様に、悠もまた一人と一匹のやり取りに呆然とし、立ち尽くしていた。
十六年間という短い人生であるが、物事の分別くらいはできる青年として成長してきた。だが、目の前で起きた出来事に理解が追いつかなかった。