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八 干渉

 月ヶ瀬はしばらく窓際の細長い仮設ベッドの上の同僚へ目をやっていたが、やがて体温計を口に入れてまっすぐ上の天井へ視線を移した。

 高原が長々と伸びをして起床したのは、看護師が体温計を回収しに来たときだった。

「三十七度八分・・・。まだ少し熱がありますね。氷枕使われますか?」

「いえ、大丈夫です。」

「ご気分が悪くなったらナースコールのボタンを押してくださいね。・・・あ、付き添いのかた、今晩もご宿泊でしたらあとでナースステーションへご連絡ください。」

 高原が笑顔で了解の返事をした。

「個室っていうのは便利だよな。付添人も泊まり放題だ。あ、悪いけどベッドと布団の貸し賃はお前の入院費につけとくよ。」

「なんで君がここにいるの?」

 もう一度大きく伸びをして、高原は立ち上がり後ろの窓のカーテンを開けた。白い朝の光が部屋を明るくする。

「業務命令だからさ。」

「は?」

「夕べ、ここへ波多野さんが見舞いに来られたんだけど、そのときご指示があった。お前は怪我が治るまでだがとりあえず一週間休むこと。ただし体力が回復したらその途中でも事務所の波多野さんのところへ今回の顛末を報告に行くこと。それを除いて、怪我の療養中は自宅から出ないこと。」

「無理だよ。」

「家政婦さんには連絡してあるから、不自由ないはずだ。家政婦さんにできないような用があったら、俺がやるし。」

「?」

「とりあえず一週間だけど、俺はお前を監視することになった。昼間は家政婦さん、夜は俺が近くで見張る。」

「・・・・?」

 月ヶ瀬はベッドのマットレスを操作して上体を少し起こし、まじまじと高原の顔を見た。

「これはお前へのペナルティであると同時に、俺への罰でもあるんだ。しかたないよ。」

「・・・・・」

「自宅療養期間中、退屈だったらいつでも怜とか茂とか、それから来週からは崇も、話し相手に来られるよ。でもいらないよな。まあ、すでに夕べ怜も茂もここへ見舞いに来たけど。」

「・・・・・君は、うちに滞在するの?毎晩?」

「そうだよ。」

「警護の仕事もしないで?」

「昼間の時間帯だけになるように波多野さんが調整してくださってる。」

「・・・・・」

「というか、退院は明日になるそうだから、今夜はここに滞在するけどね。」

「・・・・・」

 月ヶ瀬は不満をあらわにした表情を変えなかったが、それ以上は何も言わなかった。

 しばらくして、再び天井の方へ目をやりながら、月ヶ瀬が口を開いた。

「君に連絡したの?阪元は。」

「ああ。」

「手間をかけさせて、申し訳なかった。」

 高原はしばらくの間、月ヶ瀬が自分に詫びたということを理解できないかのように、同僚の横顔を見ていた。

 沈黙が流れた。

「詫びるなら、俺じゃなく波多野さんにちゃんと謝るんだな。」

「・・・・・」

「どれだけご心配されたか、わかるはずだ。」

「・・・・・・」

「もう少ししたら、電話しておけよ。」

「わかったよ。」

 高原は簡易ベッドの上へ再び腰かけた。

「どうして腕に重傷を負って阪元探偵社の人間に病院に連れて来られることになったんだ?」

「・・・・・」

「手足に、縛られた跡もあるな。刺したのは阪元か?」

「そうだよ。それよりもっと大事なことを、聞かないの?」

「・・・・森川清二氏が夕べビジネスホテルで殺害されたことに関して、もう警察から俺も、そして波多野さんも事情を聞かれたよ。なにしろ直前まで自宅で接触してたわけだから。」

「そうだろうね。」

「お前、そのときどこで何をしていた?」

「アリバイを訊く刑事さんみたいだね。」

「憎まれ口を叩く元気が出てきたなら結構なことだ。」

 月ヶ瀬は両目を閉じ、ため息をついた。

「阪元さんのことだから、結構説明してたでしょ。」

「お前を気に入ってるとか、無駄死にさせるなとか、言ってたな。」

「・・・・」

「それから、奴らの仕事をお前が邪魔しようとした・・・ってね。」

「そうだけど、ほとんど何もできないうちに、見つかっちゃったよ。」

「殺害現場の・・・ビジネスホテルまで行ったのか?森川さんを尾行して?もしかしたら・・・・」

「そう、君が奴らの一度目の襲撃を防いだ、森川の自宅から、だよ。ちなみに、家の裏口から出て塀を乗り越えて隣家から脱出したよ、森川は。」

「自宅から森川さんが逃亡すると思ったのか」

「思ったよ。そういう人だよ。」

「・・・・・」

「愛人が手引きしてた。ありがちな話でしょ。」

「・・・・・」

「そして森川がホテルで、ひとりきりになる前に警告してあげる予定だったんだけどね。阪元さんって、気配を消すのが恐ろしくうまいね。全然わからなかった。」

「どうしてそんなことを・・・・」

 ひんやりとした美しさの、切れ長の両目で、月ヶ瀬は同僚のほうを意外そうな表情で見た。

「君にそれを訊かれるとは思わなかったけど。」

「・・・・・警察に通報して、奴らの逮捕を図ることもできたはずだ。」

「そうだね。タイミングを逸したのは、僕のミスだよ。」

「ちがうな。」

 メガネの奥の、高原の知的な両目に、更に厳しい鋭さが加わっていた。

「・・・・・」

「お前は最初から警察に頼る気などなかった。そうじゃないか?」

「・・・・・」

「どうしてそんなことをした?」

 月ヶ瀬はベッドに上体を預けたまま正面斜め上を見つめた。

「・・・・犯罪を防ぎたかったのは本当だよ。だけどひとりでやろうとしたのは・・・今回のことで、あいつらがどんな風になっているか、知りたいと思ったんだよ。話をしてみたかった。」

「・・・・・・」

「そうしたら、ほぼおんなじことを考えてたみたい。阪元さんも。」

「・・・・・」

「でもまさか車であんなに長い時間つれまわされるとは思わなかったけど。」

「お前を怪我させたのは抵抗を封じるためか。」

「そうだね。だって他にはあと一人、運転手しかいなかったもの。」

「・・・・・・」

「それと、軽い拷問のため。」

「・・・・・・」

「話につきあうのをやめようとすると、色々責め立てられた。ドSだね、あの社長さん。」

「お前、本当に・・・・」

「なに?」

「本当に、二度とそんな危ないことをするなよ・・・・・」

 さっきよりさらに意外そうな表情で、月ヶ瀬は同僚の知的かつ好感度の高い青年を改めて見た。

「心配してるの?」

「当たり前だ」

「相変わらず酔狂な人だね。高原。でもそういうことは、僕に関してはかなり無駄なことだ。そう、森川の部下達が、森川となにか分かりあおうとするのと同じくらい、不毛で無駄なこと。」

「・・・・・・」

「まあ、なにをしようと君の自由だけど。でもいずれにせよ・・・」

「?」

「いずれにせよ、今回、僕のせいで迷惑をかけたから。君には、話す。阪元が色々言ってたことを、少し。聞く?」

「聞くよ。」

「僕に、彼らの犯罪計画が予想できたか確認した。テストみたいに。」

「・・・・」

「悪い人間の心理を想像するのがうまいって、褒められた。一流のアサーシンになれるってね。」

「・・・・・」

「そして言ってた。”犯罪から守った人間が犯罪を犯してしまったら、やっぱり、失望した?”って。」

「そうか。」

「必然だって。大森パトロール社は何にも考えずに誰でも彼でも守る。その当然の報いだってさ。皆を守ろうとする者は、つまり、誰一人守れない者だって。」

 高原は黙り込んだ。

 月ヶ瀬は目を伏せながら、続ける。

「自己満足の、偽善者。善人ぶった人殺し、だって。間接的な。でも、それだけに一番たちの悪い。」

 ため息が聞こえ、高原のほうを見ると、月ヶ瀬が予想したより遥かに、その顔色は蒼白になっていた。

 しばらく沈黙が病室を支配した。

 ようやく、高原が口を開いた。

「・・・酷い言われようだな。」

「そうだね。」

「ただそれは、それだけ阪元側が、追い詰められている証拠なのかもな。」

「ああ、そうだね。」

「お互い様ってことだ。」

「ああ。」

 高原はめまいを取り去ろうとするかのように、頭を軽く左右に振った。

「でも、本当に、腹が立つな。」

「そうだよね。」

「腹が立つってことは、当たってるってことなんだろうな。」

「当然だろうね。」

 看護師が点滴の交換に訪れ、立ち去るまで二人はしばらく小休止した。

 朝日が次第にその明るさを増し、高原はカーテンを半分下ろした。

 月ヶ瀬が静かに微笑し、高原のほうを改めて見た。

「僕個人のことも、言われた。」

「・・・・?」

「凶悪犯の息子のくせに、正義漢ぶるなってね。」

「・・・・・」

「これも酷いけど、たしかに、当たってる。」

「・・・・・」

 高原が身を乗り出した。その表情は、少し前までとは違う種類の怒りに満ちていた。

 屋外から、救急車のサイレン音が響いてきた。

「阪元との話はこれだけだよ。ところでまさかとは思うけど、今回の一連の・・・そう、森川をめぐる一件で、なにかダメージとか受けてないよね?君は。」

「・・・・・」

「この先、今まで通り、クライアントを守る。それだけのことについて、何か悩んだりしてないかって聞いてる。」

「・・・・それは・・・・」

「もしもそうだとするなら、高原、君はすごく傲慢な人間だということだね。」

「・・・・・・」

「警護員にできることがどれだけ限られているか。そんなことを、本当の意味で理解せずに、今まで仕事してきたってことだから。」

「・・・・・・」

「そして、クライアントというものに、過大な期待をしてきたってことだから。」

「・・・なるほどな。」

「僕と違って、君はとってもいい人だよ。愛情深い、善人だ。でもね、つまりはその愛情が、見返りを求めない、無償の愛じゃなかったってことだよ。お粗末な話。」

「そうだな。」

「わかる?」

「わかるよ。」

「君は頭がいいからね。でも、頭でわかっても、なかなか体ではわからないだろうね。ご愁傷様としかいえない。」

「お前の言うとおりだと思う。」

 月ヶ瀬は正面を向いて、くすくす笑った。

「自分の命を粗末にするような人間に言われたくない、とは言わないんだね?高原。」

「自粛したんだよ。」

「ふうん。」

 月ヶ瀬はゆっくりと両目を閉じた。しばらくして高原も簡易ベッドに横になったのが、気配でわかった。



 私鉄駅から少し離れた、あまり大きくない病院の小さな病室に、午前中の光が差し込んでいる。

 ベッドの上で、板見は額に置かれた手の冷たさに驚くように、重い瞼を半分ほど開いた。

 明るい茶色のショートカットの髪をした女性が、健康的な小麦色の肌をかつてないほど蒼白にして、両目を不安に大きくして見下ろしていた。

「板見くん、目が覚めた?・・・気分はどう?」

 両目を一度閉じ、再び開いて何度か瞬いて、先輩エージェントの淡い色の目を見た。

「和泉さん」

「びっくりしたよ・・・」

「手、冷たくて気持ちいいです」

「あ」

 少し熱っぽい赤みを帯びた頬に、板見が少し笑みをよぎらせた。

「俺なんかのために、動揺してくださってるんですね・・・和泉さん。嬉しいです」

「じゃあこのままもう少し冷やしてあげるね」

 和泉は手を返して甲のほうを板見の額に当てた。

「緊張すると手が冷たくなるからな、人間。」

 和泉の後から声がした。和泉がそのままの姿勢で振り返る。

「酒井さん、こっちに来てあげてください。せっかく板見くんが目を覚ましたんですから」

「まあそう慌てるな」

 椅子にふんぞり返って座り足を組み、酒井は柔和な表情で和泉の顔を見返した。

 板見が再び和泉を見上げて言った。

「手、あったかくなってきちゃいましたよ」

「板見くんが目を覚ましたから安心したのよ。じゃあ、ちょっと待っててね」

 ナースコールを押してから、和泉は酒井のほうへ行き、おもむろにその両手をつかんで無理やり立ち上がらせた。

「なにすんねん、和泉」

「いいから立ってください、はやく」

 次の瞬間、和泉が驚いて叫び、板見の視界に一瞬現れていた酒井の姿が再び見えなくなった。

「酒井さん!」

「凌介!」

 病室入口のほうからもう一人の声がして、声の主が金茶色の髪をなびかせながら走ってきた。

 酒井は床に片方の膝をつき、頭を下げてじっとしている。

 和泉が酒井の顔を覗き込み、声をかける。

「大丈夫ですか・・・?」

「もうだめや」

「酒井さん」

「俺にかまわず行け、和泉」

「意味がわからないです、酒井さん」

「顔色わるいよ、凌介」

 そこへナースコールを受けた看護師が入ってきた。

「どうなさいました・・・?ご気分が悪くなられたのは、お見舞いのかたですね?」

 和泉が振り返り看護師に説明する。

「椅子から立ち上がったとたんにこうなって・・・」

「立ちくらみかもしれませんね。ゆっくり、椅子にすわらせてあげてください。」

 深山と和泉が看護師の言うとおりにし、看護師は酒井の顔色をみた。

「ずいぶん長い時間座っておられたんですか?」

 和泉が答える。

「はい・・・軽く数時間は」

「なるほど・・。水分をとって、少し休んで、それから、立ち上がるときはゆっくりと。」

「はい。あ、それから、患者のほうに、氷枕を頂いてもいいですか?」

「かしこまりました。」

 板見は目を見開いて酒井のほうを見ている。

 金茶色の髪を揺らしながら、深山が板見のほうへ来て、ふっと微笑んでその顔を見下ろした。

「目を覚ましたばっかりのところわるいけど、注意しとく。」

「はい。」

「怪我をしたら、すぐに言わなきゃだめだよ。」

「・・・すみません。」

「どうして黙ってたのかはだいたい想像つくけど。」

「・・・・はい」

 深山はちらりと後ろの酒井を振り返り、そして表情からすっかり笑顔を消した顔で、再び板見を見た。

「・・・倒れるような状態で仕事の現場に臨むなんて、エージェントとして論外だからね。」

「はい。」

 深山の表情が再び優しくなった。

「・・・・先輩たちが、情けないから、後輩の君はたいへんだと思うけど。」

「・・・・・」

「ごめんね。」

「・・・・・」

 板見が何か言おうとしたとき、はっと気がついたように和泉が携帯電話を取り出した。

「吉田さんに連絡しなきゃ。板見くんの意識が戻ったら教えてほしいって言われてたんだった。・・・・もしもし、和泉です。はい、さきほど・・・・・あ、少し熱がありますけど、話もできますし、私も安心しました。・・・・・ええ、酒井さんは、はい、むしろ今は酒井さんのほうが・・・・」

 酒井が手を伸ばして和泉の携帯電話を奪い取り、有無を言わさずに通話終了ボタンを押した。

「なにするんですか!酒井さん」

「お前今なにか余計なこと言おうとしたやろ」

「吉田さんがお尋ねになったんですよ。酒井さんのこと」

「とにかく恭子さんの悩みを増やすな。板見のことだけでもどんだけ心配してはることか」

「まあ、そうですね」

「すみません・・・」

 細い声で板見が詫び、和泉と酒井は同時に板見のほうを見た。

「反省してるか?板見」

「はい」

「ならええわ。もう祐耶にも注意されたことやし。じゃあ、俺は行くから。しっかりケガ治せ。」

「・・・・はい。」

 酒井は踵を返して部屋から出て行った。

 すぐに深山が後を追った。廊下で追いつく。

「凌介。大丈夫?」

「なんや、俺のこと心配してくれてんのかもしかして?」

「そりゃそうだよ。お前がふらふらになるなんて、あの事件を除いたら初めてだもの。」

 二人は並んで廊下を歩く。酒井は両手をポケットに入れ、少しうつむき加減で笑った。

「俺が実は乙女のように繊細やということが分かったか?」

「ちょっと嫉妬した」

「はあ?」

「僕が入院したとき、凌介が心労のあまり立ちくらみしたなんて話は全く聞かなかったもの。」

「確かに、そういうことはまったくなかったな」

「悔しい」

「あほかお前。俺たちエージェントは日々これ命がけの仕事なんやから、いちいちショック受けてたら身が持たん。」

「でも、後輩は別なんだね」

「そりゃそうや。お前も、大人になったらわかる」

「もう大人だけど」

「精神的には十分コドモや」

「コドモだけど家まで送ってあげるよ、車で」

「そりゃおおきに」

 深山の車の助手席に乗り込むと、酒井はさっさとシートを倒して横になった。

「おやすみ、凌介」

「おやすみ」

 車は静かに発進した。

「あのね、凌介」

「寝てる人間に話しかけるな」

「お前も含め、結局三人の人から、同じことを言われた。」

「?」

「色々悩むのは百年早いって」

 酒井は思わず笑った。

「そうか。」

「そうだよ。」

 しばらく沈黙が続く。

 咳払いをして、再び口を開いた深山が、別の話をした。

「・・・・・あのね」

「なんや」

「板見くんのこと、吉田さんに相談してみるのがいいと思うんだ」

「・・・・」

「凌介も僕も、先輩としてかなりダメダメだから」

「・・・・」

「吉田さんもそのことを分かっておられるんだよね、きっと。だからさっきも・・・」

 深山の言葉を遮るように酒井の携帯電話が着信を知らせた。

 発信者名を見てしばらく酒井は躊躇したが、やがて受信ボタンを押す。

「はい、酒井です。・・・はい、病院から自宅へ戻るところですが・・・いえ、大丈夫です、なんか和泉が大げさなこと言ったみたいで・・・・はい・・・」

 深山は運転しながら耳を欹てている。

「・・・はい、祐耶も一緒ですよ。えっ?」

 しばらく酒井は抵抗していたが、相手に押し切られるように承諾し、電話を終え、ため息をついた。

「吉田さんからだね?」

「そうや。お客様との面談は無事に終わったそうや。」

「うん。」

「で、お前と俺に会いに、これから俺ん家へ来られるって。」

「ええっ!」

 二人が酒井の部屋のある高層マンションへ到着すると、本当に入口で吉田が待っていた。



 看護師が去り、氷枕の上で頭を少し動かしながら、板見が目を閉じた。

「熱であんまり苦しいようだったら言ってね。熱冷ましを頂くから。」

「ありがとうございます。」

「もう少し眠ったほうがいいよ。私はしばらくここにいるから。」

「はい・・・・。あの、和泉さん」

「何?」

「酒井さん、大丈夫でしょうか。」

「大丈夫じゃないかもね・・・・」

「・・・・・」

「あの酒井さんを床に沈めたのは、後にも先にも板見くんだけかも」

「・・・・・」

「ごめん、冗談よ。そんな顔しないで。」

 板見が、大きな目を和泉へ向けた。その表情はさらに硬くなっていた。

「和泉さん、俺は、悔しいんです。」

「・・・どうして・・・・?」

「自分はいつまでもただの後輩で、先輩たちに、全然頼りにされてないからです。」

 和泉は薄茶色の目を大きく見開いて、ごく若い後輩の几帳面そうな顔を見つめた。



「お待たせ。」

 部屋から出てきた深山が廊下で待っていた吉田と酒井に声をかけた。

「じゃ、お邪魔するわね」

「どうぞ」

 吉田と酒井を部屋に導き入れながら深山が不満そうに酒井を見る。

「あのさ、凌介」

「なんや」

「ここ、お前の部屋だよね。」

「それ以外の何なんや」

「どうして僕が緊急大掃除しなくちゃいけなかったの?」

「吉田さんをお入れするのに、床にホコリなんかあったら失礼やろ」

「そうじゃなくてどうして僕がするんだよってば」

「家事といえば祐耶やからな」

「兄さんとおんなじこと言ってる」

 室内には余計なものはほとんどなく視界はすっきりとしているが、窓が開けられ空中にはまだ掃き掃除で舞い上がったチリが微かに浮遊していた。

 台所で深山が入れたコーヒー三つを酒井がソファーのテーブルへ運ぶ。

 吉田は微笑しながらコーヒーカップを手に取った。

「深山は勝手知ったるという感じね。よく遊びに来るの?」

「そんなことないですけど・・・まあ、ときどきは。」

「二人は、ほぼ同時に阪元探偵社に入ったんだったわね」

「はい」

「でも、うちの会社がチーム制になったのはそんなに前からのことじゃないから・・・」

「そうですね」

「それ以前は、案件ごとに単発のチームがつくられて、終わったら解散、だったものね。だから、今のチームに来るまで、たぶん二人とも、経験がなかったでしょう?・・・後輩を持ってそれを継続して指導する、ようなことは。」

「・・はい。」

「職種別の縦のつながりはあったでしょうけれどね。たとえば、アサーシン同志とか。」

「はい」

 吉田は足を組み、コーヒーを一口飲んだ。酒井と深山もそれぞれカップを手にした。

「長大な悩みは私やあなた達には分不相応だけど、日々の具体的な悩みは、ちゃんと向き合わなくてはいけない。・・・・で、後輩と一緒に仕事をしていて、自分に自信がなくなることが、よくあるというのは・・・・意外にやっかいな問題だわね。何の確信もなしに仕事をしている自分に、一体どんな後輩指導ができるのか、って。」

「・・・・」

「気がついたら自分のことで精いっぱいで、後輩をほったらかしにしてしまうことさえある。」

「・・・・そうですね」

「そういうことが、よくある。」

 鼈甲色の縁の眼鏡の奥で、静かに微笑んだまま吉田はふたりの部下を順に見た。

「・・わたしはね。」

「吉田さんが?」

 言いながら深山が「それは絶対違う」という表情をする。

「よくあるわよ。だから、もしかして今回、お前たちも同じようなことを感じているのだとしたら、同じ思いを分かち合えるんじゃないかと思った。それだけ。」

「僕は、板見くんが、もう僕を先輩として頼りにしてくれてないって思います・・・。お客様が殺されたときも、そして自宅前の襲撃でも、僕は本当に情けない姿を、板見くんに見せてしまいました・・・・。そして板見くんは、怪我をしたことさえ、教えてくれなかった・・・。」

 吉田はじっと深山の顔を見ている。

 そのまま深山はうつむいて黙り込んだ。

「たぶんだけど」

 しばらくして吉田が口を開く。

「・・・たぶんだけどね、先輩の、情けないところって、後輩にとっては意外に気にならないんじゃないかと思う。」

「・・・・」

「100%情けないようだともちろん困るけど。」

「・・・・・」

「しっかりしたところもあって、そうじゃないところもあって。むしろそういうとき、後輩は自分がしっかりしなくてはと思う。先輩のために、って。」

「・・・・・」

「それは悪いことじゃない。そして先輩のためにしっかりしなきゃって思うということは、先輩をやっぱり先輩として慕っているってこと。」

「・・・・・・」

「もしも問題があるとするなら・・・、それは、それが過剰になってしまうときだと思う。」

 吉田はちらりと酒井のほうを見た。酒井はコーヒーカップを持ったまま、しかし飲むわけでもなく、口とテーブルのちょうど中間あたりにキープしたまま身じろぎもせずじっとしていた。



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