七 反省
英一が運転する車がマンションの前に到着したとき、高原の携帯電話が鳴った。
発信者名を見て高原が表情を緊張させて応答した。
「はい、高原・・・。はい。・・・波多野さん、なぜ、それが・・・・」
前の助手席から茂が、隣の席からは葛城が、それぞれ身を乗り出して高原の言葉に耳を澄ましている。
「・・・すみません。・・・・いいえ、会っていませんが・・・ええっ!」
しばらく相手の話を聞くうち、高原の声の調子が次第に事の緊急性を示し始めた。
「・・・はい、こちらに連絡があったらすぐにお電話します。」
電話を終えた高原が、強張った顔で正面を向いたまま、言った。
「波多野さんは、俺が今日どこで何をしたか、全部言い当てておられた。そして・・・月ヶ瀬と、会っていないかと聞かれた。」
「どういうこと?晶生」
「何が起こるかほぼ正確に予想したのは、月ヶ瀬だ。・・・で、波多野さんは月ヶ瀬に、もしもたまたま俺を見かけて・・・偶然俺の危機に遭遇したら、警察へ通報してくれるように、 そして波多野さんへすぐに連絡してくれるように、命令ではなく希望を伝えたんだそうだ。」
「・・・・・」
「しかし事態は予想通りになったのに、月ヶ瀬から波多野さんに連絡がない。もちろん、俺も会っていない。」
「・・・・月ヶ瀬に電話してみる。」
葛城は携帯電話を取り出して、発信した。
「・・・・・」
「コールしてるか?」
「してない。」
「それは・・・おかしいよ。」
「・・・・・・」
「波多野さんが何度かけてもやはり同じだって・・・・・そして、俺たち同様、携帯の電源を切ったり圏外にしたりすることは、ありえないって、おっしゃっていた。」
阪元は月ヶ瀬の髪から右手を離し、その手を左に振った後、思い切り振り戻して手の甲で月ヶ瀬の左頬を叩いた。
「君にボディガードの資格はないね。」
「・・・・・」
そのまま、包帯から血がべっとりと滲んでいる左腕を掴み、強く捻り上げる。
「うっ!」
「命を何程とも思っていない」
「人殺しが・・・・命の大切さを語ってるなんて・・・おかしいね・・・・」
苦しそうな呼吸の下から声を絞り出し、月ヶ瀬が両目を細めて阪元を見返す。
「アサーシン達はいつでも自殺する。けれど、彼らは死にたくて死ぬんじゃない。」
「・・・・・」
「わかる?」
月ヶ瀬が激痛に呼吸を荒げてうつむき、肩で息をした。
「・・・・」
「君達の会社の考え方は、基本的におかしいけど、それでもひとつだけは、まともなとこがあったんだよ。」
「・・・・・」
「吉田明日香と大森政子に共通点があったとしたら、二人とも命を粗末にすることだけはしなかったってことだよ。」
「僕に・・・・説教しないでよ・・・・」
「奪うべきとき迷わず奪うこと。捨てるべきとき迷わず捨てること。・・・このこととね、粗末にするってことは、まったく違うことなんだよ。わかる?」
「・・・・道徳の時間・・・?」
「もう一度聞くよ。殺してほしい?解放してほしい?」
月ヶ瀬は息を整え、憔悴した目でもう一度阪元の緑色の目を見て、そして諦めたように言った。
「解放しろ。」
阪元は満足そうな笑みを浮かべた。
「自宅?」
「自宅。」
「わかったよ。」
「・・・・・」
月ヶ瀬の向かいのシートに戻って足を組み、阪元は付け加えた。
「でもね、やっぱり病院にするよ。腕、ちょっと幅広に刺しすぎたみたいだから・・・・。ごめんね。」
「・・・・・」
阪元の指摘どおり、月ヶ瀬の顔色はひどく悪くなっており、腕の包帯はほぼ血で余すところなく染まっていた。
三十分後には、阪元は、浅香が月ヶ瀬の体を支えながら大森パトロール社契約病院の救急外来へと入って行ったのを見送り、待合室で携帯電話を取り出し発信していた。
相手はワンコールで出た。
「こんばんは。高原さん?番号非通知でごめんね。阪元と申します。」
電話に出た高原が沈黙しているのに構わず、言葉を続ける。
「たぶん、お仲間をお探しなんじゃないかと思って。」
「・・・・・・」
「ずいぶん長い時間お借りしてしまった。でもちゃんとお返ししましたから。」
「月ヶ瀬はどこだ?あいつに何をした!」
「ちゃんと治療してもらいますから、そんなに怒らないで。そもそも、私たちの仕事を邪魔しようとした月ヶ瀬くんが悪いんですよ。」
「・・・・月ヶ瀬のいる場所を言え」
「やっぱり秘密にしておこうかな。」
「・・・・・・」
「どのみち、あなたに連絡が行くでしょう。付添人はあなたの名前と連絡先を書いておきますから。」
「どこの病院だ」
阪元は楽しそうに低く笑った。
「すごく心配そうですね。仲間を思う気持ちは、うちの会社のエージェント達とかわらない。」
「・・・・・・」
「うちのエージェントも、負傷をしました。仲間達は自分が怪我したときの数倍は苦しんでいる。」
「・・・・・・」
「そういうときは、あなた達も我々も、あまり変わらない、同じ人間なのになと思ったりもしますね。」
「・・・・・・」
「ご存じだとは思いますが、私は月ヶ瀬くんをとても気に入っています。どんなことをしても、手に入れたいくらい。」
「勝手なことを言うな」
「もちろんまだまだ諦めてないですよ。何と引き換えなら彼は首を縦に振ってくれるのかなと、いつも考えてます。たとえば・・・」
「・・・・・」
「・・・たとえば、あなたの命とか、かな。」
「・・・・・」
「もちろん、たとえ月ヶ瀬くんであろうと、我々の業務を妨害したら、いつでも殺傷します。それから、お願いですが。」
「・・・・・・」
「月ヶ瀬くんがそちらの仕事で無駄死にしないように、よろしくお願いしますよ。もしも殺すなら、それはやはり我々の手でやりたいですし。」
「・・・ふざけるな・・・・・」
「会社のお近くの、契約病院です。命に別状はないですが、最低一日は入院でしょうね。」
電話が切れた。
高原が月ヶ瀬の病室にたどり着いたとき、既に月ヶ瀬はベッドの上で眠りに落ちていた。
「本当に、お疲れ様だったね。ありがとう。」
阪元は二人のチームリーダーに労いの言葉をかけた後、改めて言った。
「でも、こんな時刻まで事務所にいないで、一旦帰宅して休みなさいと言ったと思うけど。」
「はい。申し訳ありません。」
「もうすぐ夜が明けるよ。」
上司がその緑色の目を細めて窓の外のほの暗い空に目をやったのを見て、庄田直紀と吉田恭子は、同じ方向を少しだけ見ながら恐縮した。
「板見は?」
「酒井と和泉が付き添っています。容体は安定していますが、まだ意識は戻っておりません。」
「そうか。・・・・祐耶は大人しく帰宅した?」
「いえ、その・・・・。」
吉田が口籠ったのを見て、阪元はため息をついた。
「まだいるの。」
「はい。わたくしがいる間はいたいと言って、仮眠室に。」
「しょうがないね。」
「・・・きつく言わなかったわたくしが悪かったと思います。ひとりにするのが少し、怖かったのだと思います。」
「だめだよ、部下をそんなに甘やかしちゃ。」
「はい」
「まあ、祐耶が今どんな精神状態か、よくわかるけど。」
「自宅前での襲撃の失敗は、不可抗力だったと思っております。」
「あの優しく美しい警護員さんの捨て身の妨害は、ちょっと予想外だった。それに、どのみち酒井が襲撃するわけだから、無理をする必要もない。森川に板見が刺されていたことからも、遡って考えても撤収が最善だった。」
「はい」
「まあ、多少微妙ではあるけど、そういえなくもないね。」
「・・・・・」
少し白々とし始めた夜空をちらりともう一度見て、それから酒井は色のぬけるように白いシニア・エージェントの顔を見た。
「・・・庄田」
「はい」
「今回、途中からの参加にも関わらず、極めて効率的にやってくれた。結果を出せたのも君のチームのサポートがあったからだ。ありがとう。」
「恐れ入ります」
「あと、浅香を勝手に借りてごめんね。」
「・・・・いえ・・・・」
「じゃあ、ふたりとも、もう帰って休みなさい。お客様には明日、ご挨拶に伺う予定だったね。」
「はい。わたくしと・・・・庄田とでうかがう予定です。」
「そうなんだね。確かに、そのほうがよさそうだ。よろしくね。」
吉田と庄田は一礼し、社長室の出口へと向かう。
吉田に続いてドアから外へ出かかり、しかし庄田はふっと立ち止まった。
振り返り、しかし庄田が言葉を出す前に、阪元が言った。
「心配した?庄田」
庄田の表情は、ほぼ怒り心頭といってよいものだった。
「当たり前です、社長。浅香がついていたとはいえ、お立場をお考えください。」
「大丈夫、腕には自信があるからね。」
「そういう問題ではありません」
阪元は教師に叱られている生徒のように少しうつむいて見せ、穏やかな微笑を浮かべて改めて目の前の元アサーシンの顔を見る。
「・・・・ごめんね。」
庄田は、上司が別のことを考えていることに気がつき、表情を微かに曇らせた。
「・・・・浅香から一通り聞きました。物理的には社長の勝ちでしたが、論理的にはある意味月ヶ瀬の勝ちですか。」
「そうはっきり言わないでよ。」
「では、もう二度とこのようなことをなさらないと、お約束ください。」
「それは・・・約束できないけど、さ。」
「社長。」
怒りで、白い頬に微かな赤みがさしている部下の顔を、微笑を絶やさずに阪元が見つめる。
「責めないで、庄田。私も、今回、会社のことを多少は憂いている。トップは大変なんだよ。ストレス発散には、好きなことをして気分転換することも大事でしょ。」
「・・・・・・」
「その代わり、君達は、何も心配せずに、これからもきちんとミッションを遂行してほしい。」
「・・・わかりました。」
「頼むね。うちの筆頭の、シニアエージェントである君は、いつも大切なメンバーだ。」
「わかりましたが・・・・」
「?」
「社長が、我々社員にとってどういう存在かも、なるべく常にお考えください。」
緑色の両目を数回瞬き、阪元は苦笑した。
「君はずいぶん、変わったね。庄田。」
庄田は少し微笑んだように見えたが、すぐに一礼し、社長室を後にした。
事務室内へ出ると、金茶色の波打つ長髪をした現役のアサーシンが、眠そうにふらふらとこちらへ近づいてくるのが見えた。
深山は庄田の前で立ち止まり、頭を下げた。
「庄田さん・・・今回の案件でも、色々お世話になりましてありがとうございました。僕が二度も・・・不適切なことを・・・・。」
涼しげな切れ長の目で、庄田はじっと深山を見た。
奥の事務机では、吉田が帰り支度をしながら、こちらを少し気にしている様子がわかる。
「ビジネスホテルでの襲撃環境を整えてくださったおかげです・・・殺害が完了できたのは・・・・。そして凌介と板見くんがちゃんとやってくれた。僕は、アサーシンとして・・・・」
表情を変えず、庄田は深山の哀しそうな表情の茶色の目を見返す。
そして、その上品な唇を開いて、ようやく言葉を返した。
「・・・アサーシンとして、どうだというんです?」
「・・・・・」
「失格、だとでも?」
深山の目に、すがるような色がよぎった。
「・・・自宅前の襲撃の失敗・・・、あれが不可抗力だったのかどうか、何度思い出して考えても、わからないんです。逆に言うなら・・・やむを得なかったんだと、確信を持って言うことができないんです。僕は、心のどこかで、葛城の妨害を・・・・」
「渡りに船だと、思ってしまったかもしれない?」
「はい。」
庄田は一瞬、微笑した。
「・・・深山さん、あなたは少し、自信過剰なのではありませんか?」
「・・・・・」
「襲撃現場では、おびただしい数の要素が、成功を左右します。失敗につながる要素を、少しでも少なくするのが、プロです。しかしそれをゼロにすることは、経験豊富な一流のアサーシンでも、なかなかできることではありません。」
「・・・・・・」
「特に感情のコントロールは最後までついて回る課題です。ターゲットへの憐憫や同情はもちろん、軽蔑や憎悪も、障害になりえます。ボディガードに対するものも、同様です。あなたは今回、高原を排除する最大の努力をした。しかし失敗した。その原因が自分の心理にあったかもしれないと感じる。そうですね。」
「はい。」
「それなら、反省したことは次回に活かしなさい。」
「・・・・・・」
庄田の表情は次第に厳しいものになっていく。
「今の段階で、自分が完璧なつもりでしたか?あれこれ悩むなど百年早いですよ。あなたのような未熟なアサーシンは。」
「・・・・・・・」
「次は殺しなさい。それだけです。」
「・・・・・・はい。・・・・ありがとうございました。」
深く一礼し、深山は踵を返して自分のチームのリーダーのところへ戻っていった。
吉田は今の会話が聞こえていたかどうか不明だったが、腕組みをして母親のような表情で部下を見た。
「で、これからやっぱり病院へ行くの?深山。」
「はい。和泉さんも凌介も寝ないで付き添ってると思いますし、それに板見くんのケガは僕の・・・・」
「既に他の人からも言われているかもしれないけれど、何でも自分の責任だと感じるのは、身の程知らずなことよ。」
「・・・・・」
「たとえば、今回、そもそもお客様がターゲットに殺されてしまったこと、そのものについて、我々担当チームの責任だと思う?」
「それは・・・・」
「そういう問題ではない。そうでしょう?・・正確に言うならば、我々レベルの問題ではない。今、社長が先行して、代表して、悩んでくださっている。あなたや私は、今回のミッションを遂行した過程で気がついた細々とした課題や問題点を、反省して成長の糧にすることをまずやって、そういうことが全部終わったら初めて別のことを考えればいい。」
「はい。」
「車の運転、くれぐれも気をつけなさい。睡眠不足なんだから。」
「はい。行ってきます。」
深山が事務所を出ていってしまうと、吉田も荷物を持って席を立ち、そして自席で帰り支度をしている庄田のところまで来て立ち止まった。
「優しいわね、庄田。」
吉田のほうを振り返らずに、庄田は微かに苦笑した。
「そうですか?」
「酒井がよく言っているから。・・・・親でも殺すのがアサーシン。迷いが生じる相手なら・・・刺し違えてでも殺せ。これが正しいフルバージョンのアドバイスのはず。」
「・・・・・・・」
「そこを端折った。」
「・・・・・・吉田さんも、他人のことはいえないような気も、しますけれどね。」
夜明けとともに、看護師が自分の右腕で血圧や酸素濃度を測っている感触に、月ヶ瀬はゆっくりと目を開いた。記憶はすぐに蘇った。意識がはっきりしてくると同時に、左腕の激痛も始まる。看護師が優しく声をかけてくる。
「起こしてしまいましたね、ごめんなさい。ご気分は?」
「大丈夫です・・・・・」
痛みに額に汗をにじませている患者に、看護師が鎮痛剤の要否を訊ねたが、月ヶ瀬は断った。
「熱を測ってくださいね。口に入れてかまいませんから。」
看護師が体温計を渡していった。
月ヶ瀬はその段階でようやく病室の窓際の簡易ベッドの存在に気がついた。
毛布を胸までかけて、背の高い同僚が足をはみ出させながら熟睡していた。