四 焦燥
山添崇は私物の大型バイクから降りると、マンションの前に停め、オートロックの入口のインターホンを押した。
身長は茂より少し高いが高原ほどではない。そしてそれほど明るくはない茶色の髪が実際より淡い色に見えるほど、よく日焼けした顔は、青年というより「少年のような」という形容がふさわしい愛らしい童顔である。
何度目かで応答があった。
「山添だよ。開けてくれ、晶生」
ドアが開錠された。
階段を上がり部屋のドアの前に来ると、呼び鈴を鳴らすより先に高原が中からドアを開けて同僚を出迎えた。
「怜が心配してたよ。お前が昨日も今日も事務所に全然顔を出さないから。」
「そうか。」
高原と山添はリビングのソファーに向かい合って座った。山添が、持ってきた缶入り飲料をふたつテーブルに置いた。
「今話題の健康ドリンクだ。試してみよう」
「はははは」
少しの間を置いて、高原が小さなため息をついた。
山添はその黒目勝ちの両目で、高原のメガネの奥の知的な両目を、少し厳しい表情で見た。
「・・・・波多野さんに聞いたよ。」
「・・・そうか。」
「警護業務は完了だ。切り替えろ。」
「・・・・・・」
「なんか以前俺もお前に似たようなことを言われた気がするけどな。」
「・・・そうだったな。」
「立場逆転だ。」
「ああ。」
低いソファーの背にもたれ、山添は足を伸ばした。
「元クライアント・・・・・森川氏は、まだ行方不明なんだな。」
「ああ、そうだ。」
「晶生」
「ん?」
「俺は、お前が何を考えているか、わかりたくもないのにわかる気がするんだよ。」
「・・・・・」
「お前は絶対切り替えられない。」
「・・・・」
「今回のことをずっと考え続ける。」
「・・・・」
山添も黙った。
西日が最後の抵抗をするような斜光を窓から室内へ届けている。
「怜にいつかお前が言ったこと、覚えているな?」
「ああ。・・・”業務の範囲を逸脱するな。そのことで、自分の身を危険に曝すことは、しないでほしい。”そう言った。」
「そうだ。そしてその後、怜もお前もそして俺も、反省したはずだよな。」
「そうだな。」
天を仰ぎ、山添は深いため息をついた。
「・・・・・どうすれば・・・・お前を説得できるんだ?」
「・・・・・・」
「やっとわかった。あの時のお前の気持ちが。」
「・・・・・・・」
「ほんとに、悪かったよ。」
「・・・・・・・」
高原は僅かな笑みを浮かべて、同僚の絶望的な表情の顔へ優しい視線を返した。
「・・・・」
「崇、ありがとう。心配かけてすまない。」
「その通りだ。」
「俺もあのときのお前の気持ちがやっとわかった気がするよ。」
「わからなくていいよ」
「崇が気になったのは刺客。俺はクライアント。その違いはあるけど、警護員としての仕事はもう終わったのに、むしろこれからが本番みたいな感じさえする。」
「頼む、晶生。」
山添の声に懇願の色が満ちた。
「・・・・大丈夫だよ。お前みたいに自殺行為はしない。」
「つまり、それ以外のことはするってことか」
「それほど危険なことはしない。・・・崇、お前こそ、今晩から一週間の出張警護だろう?」
「そうだよ。」
「緊張感が続く難易度の高い案件なんだから、余計なことを考えないで自分の仕事に集中してくれ。」
「・・・もうそれ、そっくりそのままお前に返したいよ・・・。」
山添はおもむろに立ち上がり、低いテーブルを一瞬で飛び越えて右足で高原の足を払い、ソファーの手前の床へ同僚の体を組み伏せた。
「・・・・!」
「力ずくで止める。お前が河合さんにやったように、気絶させて縛り上げて風呂場に閉じ込める。」
「・・・・・・」
「それも無理なんだよな・・・・。」
「ああ。」
次の瞬間には高原は身を返し逆に山添を床へ押さえつけていた。
「無理なんだよな。」
「ごめん、無理だ。」
「晶生、警護員のできることは少ない。いつもそう言っているのはお前だし、それは正しいことじゃないのか?」
「・・・・・」
「それがイヤなら、警護員の仕事そのものをあきらめたほうがいいよ、晶生。やめたほうがいいよ。」
「・・・・・」
「クライアントの人生全部に責任持つ気か?一生傍についていられるとでも思ってるのか?」
「自分にできることがどんなに少ないか、わかってるよ・・・崇。でも、このまま、あきらめることができない。いっそ、こんな仕事やめるべきかもしれない。正直、立ち直れないよ。」
「・・・・・・」
「なにも、わからないよ。」
「晶生、余計なことを考えるな。クライアントは、どんなクライアントでも守る。そして結果は結果だ。我々の力が及ばないこともある。不運が重なることもある。ただそれだけじゃないか。考えるな。」
「そうだよ・・・・だけど、少なくとも、今、なにをするか、自分で考え、最低限のことをしなければいけない。理由はわからないけど、そういうものだ。」
「・・・・・・」
「誰かの役にたちたい。守りたい。どうしようもなくそう思う。」
「・・・・・・」
「なにかが間違っているんだ。」
「なにがだよ。」
「わからないよ。でもなにか、おかしい。自分のしたことが原因で、苦しんでいる人がいる。だから、考えて、なにか成長しないといけないんだ。どんなにどんなに情けなくても。」
「責められても?」
「責められても。」
夕日が落ちるように去り、夜の始まりの街の中心で、古い高層ビルの事務室は陰鬱な静けさに満ちていた。
事務室内はひとつのチームだけが残り、しかし帰り支度を始めようとしていた。
カンファレンスルームの扉からは細い光が漏れ、別のチームのエージェントがその扉を開け、中へと入っていく。
室内では、舟形のテーブルに向かい入口側に背を向けて座り、一人の殺人専門エージェントがじっと座り端末に視線を落としていた。
「祐耶。いつまでダラダラ仕事してる。本番が近いんやから、体調管理を疎かにするな。」
深山は返事をしない。
酒井は後ろ手にドアを閉め、深山のひとつ隣の席へ横向きに座り、足を組む。
「もう残っている作業なんかないはずやけど?」
「・・・・・」
どこにも焦点が合っていなかった深山の両目が、ふっと伏せられた。
酒井はテーブルに頬杖をつく。
「無理なら、替わるで。」
「なにがだよ」
「どうした?祐耶。」
「どうもしない・・・・・。なにも、問題なんか、ないもの。」
「そうやな。」
金茶色の長髪が微かに揺れた。
「僕、そんなにおかしい?」
「まあな。」
「凌介のほうからそんなふうに言ってくるなんて、普通じゃないもの。」
「そうかもしれんな。」
「大丈夫だよ」
「じゃあ、なにか食べろ。」
「・・・・・」
「各方面の情報を総合すると、少なくともまるまる二日間、飲まず食わずやろ。お前。」
「・・・・・」
「和泉が帰り際にパントリーになにかつくって置いてったみたいやから。」
「・・・うん。あとでいただくよ・・・・。ありがとう。」
「来はるで。高原さん。」
「・・・そうだね。きっと。」
「きついな。」
「・・・・・」
「恭子さんはお前の希望を聞いて、襲撃を許してくれはったけど、恭子さんかてほんまは分かってはるで。あの方は、人間の行動を予測することにかけては世界一やからな。・・・・・大森パトロール社へ警告はしない。あえてあいつらを呼ぶことはない。しかしそれは、あいつらが来ないということやない。」
「うん。」
「そして高原さんやったら、少なくとも俺やお前の予想することくらいは、きっちり予想してきはる。」
「ああ。そうだよね。」
「思いっきり鉢合わせするで。きっと。」
「わかってるよ。でも、僕は、逃げないよ。高原も本気で来た。僕も本気で行く。」
「なら、メシ食って帰って早く寝ろ。」
「もうやめて。凌介。」
「・・・・」
「それ以上、そういうことを言うのはやめてよ。みじめになる。」
「・・・・」
「僕があのときターゲットを殺していれば、よかった。それだけのことなんだよ。」
「・・・・・」
「ゼロコンマ一秒。その間に、僕が森川の喉を切り裂く、それだけでよかった。それをしなかった。僕のしたこの判断が、取り返しのつかない結果を招いた。わかっている。凌介、僕のことを気遣うのはやめて。」
酒井が立ち上がった。
深山が酒井のほうを見るのと、酒井が深山の襟首をつかんだのは同時だった。
「・・・・っ!」
がたん!と大きな音をたてて、深山が座っていた椅子が床へ倒れ、転がった。
深山は酒井に襟首をつかまれ無理やり立ち上がらせられた格好で、目を見開いて至近距離の同僚の顔を見た。
「うぬぼれるな」
「・・・・・」
「会社のルールの中でやったことは、どこまでも会社のことや。お前の判断なんかやない。勘違いするな。」
部屋の外まで音が響き、驚いてカンファレンスルームへ飛び込もうとした板見は、後ろから手を掴まれて止められた。
振り返ると、庄田のチームのエージェントが板見の手を掴んだまま、そのやや長い髪を額にかからせ、苦しそうに微笑していた。
「浅香さん・・・。」
「大丈夫です。祐耶と酒井さんは、どうしてもお話しないといけないことがあるだけでしょう。心配しないで。」
「・・・はい。」
程なくカンファレンスルームの扉が開き、酒井が出てきた。
その横顔は黒髪に隠れ表情はうかがえなかった。
すれ違いざまに、酒井が低い声で言った。
「板見、悪いけど和泉がつくって置いていった夜食、祐耶のところへ持って行ってやってくれ。」
「はい。」
そのまま酒井は事務室を出て行った。
板見の目に、少し開いたままのドアの隙間から、カンファレンスルームの中でテーブルに向かってじっと立ったままの深山の後姿が映った。
波多野が大森パトロール社の事務室へ入ると、艶やかな黒髪を肩下まで伸ばした、ひんやりとした美貌の警護員がいつものように無愛想な表情でこちらを振り返った。
「まだいたのか、透。」
「データを漏洩したりしてませんから大丈夫です。」
「その悪い冗談はいい加減にやめろ。」
月ヶ瀬透警護員が夜まで作業していることは他の警護員同様、特に珍しいことではないが、大森パトロール社ができたときからいる四人の警護員のうち、月ヶ瀬以外の三人・・・高原、葛城、山添がいずれも精神的にめいっぱいでゆとりがなさそうな今、事務室で淡々と作業している月ヶ瀬の姿は少し波多野を安堵させるものがあった。
「大変ですね・・・・。森川清二の案件。」
「大変なんてもんじゃないよ。崇が志願してくれたんで様子を見に行ってもらったが、晶生のあの大馬鹿野郎、思ったとおり・・・無駄に責任を感じている。」
「性格というのは一生治りませんからね。」
「絶望的なことを言うな、透。」
「一通り資料を読ませていただきました。だいたい分かります。高原の考えていることは。」
「そうか。」
「葛城も。そして・・・阪元探偵社も。」
「・・・そうか。」
「ああいう人間たちには、僕は一生関わりたくないですけどね。」
「そうだろうな。」
波多野は大きなため息をついた。
月ヶ瀬は冷ややかに上司の顔を一瞥し、再び端末へ目を落とす。
「同僚のプライベートの行動を監視してくれ、というような命令は、俺にはできない。」
「そうですね。」
「ただ参考に、お前が想像したことを教えてくれ。」
「はい。」
波多野に続いて、月ヶ瀬は応接室へ入った。