471 馬車なのに
「いやに、冷えるな」
「この辺りは乾燥してるせいか、夜は冷えるらしいでさあ。昔の『勇者』様の話だと、この地域みてえに雲も風も少ねえ地域の夜は一気に寒くなるらしいですがなんでですかねえ」
放射冷却現象って奴か冷える訳だ、まあ『黒蜜』から借りた別宅には、結構大きな風呂場が有るって話だから、それを楽しみにしておこう。
「おっと、旦那、来やしたぜ」
俺の隣に座ってたテトビが片手に持った干し肉をナイフでチマチマと削って食べながら、世間話をするような口調で話しかけて来る。今俺たちが居るのは『黒蜜』の別宅からほど近い場所にある都市の比較的裕福な家が立ち並ぶ一帯だから、治安はいいんだろうけど、確かに訊いてた通り一人で歩いてるな。
「アレがか、ずいぶんと不用心なんだな」
時間つぶし代わりに食べ始め、もう三個目になったオレンジをそのまま食べ続けながら、テトビのしめした方向へ顔を向けないように注意して、視線だけを向けて若い女の後ろ姿をもう一度確認する。
「へい、あの女がこの街の薬屋になったマドマでさあ、ついでに言いやすと、旦那がライワ家車列護衛してた時に、『百狼割り』の旦那んとこの若けえ連中を骨抜きの薬漬けにして、中毒者襲撃の時の内通者にしたてたのも、どうやらあの女らしいでさあ」
「あの女が、アレをか」
あの一件のせいで、一時的にとは言え『百狼割り』の腕を預かる事になったんだよな。
「という事は、あの女は下っ端の薬屋じゃなく、『森の長老』だったか、その組織の構成員って事か」
確かヤスエイの麻薬を利用して暗殺とか情報収集なんかをする集団だったはずだよな。言われてみれば考えるまでも無かったな、先日の襲撃だって薬漬けになって恐怖心が無くなった連中の自爆同然の戦い方だったからな。
「そういう訳でさ、さて、旦那これからどうするんですかい」
干し肉の最後のひとかけを安酒で流し込みながら訊いて来たテトビの言葉には応えず、背中の板壁を拳で軽く叩いて合図を出し、物陰に止めてあった馬車を発進させる。
背中から返事のノックが響くのを聴きながら、二頭の馬の速度を調節する。人の小走りよりもやや遅め、自動車の徐行より少し早め程度の速さで、前を歩くマドマの真横を馬車が通る様に。
「しかしまあ、なんでまたこんなありきたりの馬車を使うんで、多少時間さえいただけりゃ、頑丈な護送馬車とか快速車、それこそ軍用の兵員輸送車だって、用意出来やしたのに」
俺と一緒に御者台に座ってるテトビが不思議そうに聴いてくる。
今俺達が乗ってるのは茶色のやや大きめな箱馬車で、何本か街道が交わっていて交易が盛んらしく、裕福な商人や貴族の出張所兼別宅が多いこの街じゃ一般的な馬車らしい。交渉事や商用なんかで移動するのにこういう五、六人が乗れて、雨風が防げて寒さも凌げる箱馬車は商人たちに人気だって話だけど。
「ありきたりだからいいんだろ、特に特徴が無くて街中に幾らでも同じようなのが有る馬車なら、コトが済んだ後で通りに出て他の馬車の中に紛れてしまえば、この車を特定するのは難しくなるだろ、そうなればたとえ追撃されたとしても逃げやすいだろうし、犯人が俺達というのも気付かれにくいだろ」
今回は確実に逃げ切る事も重要だからね。
「なるほど、確かにそれならこの馬車はうってつけでしょうね。『黒蜜』の姐さんの本拠地とも言えるこの街にゃ、楽しめる店が山ほど、それこそどんな趣味の御方でも楽しめるように多種多様にありやして、そのせいかあまり大きな声じゃ言えねえような変わった趣味の御方なんぞは、他人やご家族に知られねえように、こう言った馬車で店に行くらしいですからね、いざって時は、歓楽街の方に行きゃ紛れ込みやすいかもしれやせん」
出来れば、そんな風にならずに済むのが一番なんだが。
「そろそろだから少し静かにしてくれ」
小さな声でテトビに注意しながら、再度背中の板壁をノックし合図を送る。
既に目標であるマドマには馬車のほんの少し前と言える距離まで接近できている。ここまでは周りから見ても何もおかしな事は無いはずだ、道を歩行者と馬車がただ同じ方向に進んでいるだけだからな。
ここで、馬車の進行方向を微調整し、マドマのすぐ横を車体が通る様に進める。
「ちょっと、危ないじゃないこんなギリギリを通って、下手くそな御者ね、え……むぐっ……ん、んん……」
一つ間違えば馬蹄や車輪に巻き込まれかねない位置を進んでいた俺達を睨み付けて来るマドマを確認しながら、その真横で馬車を停め、同時に背後の板壁を強く叩いて最後の合図を送る。
「え、えい、ご、ごめんなさい」
「はっ」
俺の合図と同時に馬車の戸が大きく開かれて、車内から袋を持った二本の手が伸ばされると同時に、上から下へと振り下ろされ、黒い布袋をマドマの頭にすっぽりと被せる。
布袋を使い一瞬で相手の視界を封じる事が出来たミーシアは、そのままの流れて口紐を手早く締めてから、右腕でしっかりとマドマの胸を抱きしめ、左手を口の有るであろう場所に押し付け言葉を封じる。
同時に姿勢を低くして飛び出していたトーウが手早くマドマのシャツをめくり上げて、毒爪をその下腹部へと突き刺して『麻痺毒』を流し込んで動きを封じ、そのまま相手の両足を抱え込む。
「よし、出すぞ」
ものの数秒で、動けなくなったマドマをミーシアとトーウが二人がかりで車内に引き込み、馬車の戸が閉められる音を聞くと同時に、俺は手綱を握る手を振り、馬車を走らせる。
何が起こったのかを周りが理解する前に出来るだけ早くこの場を離れられるように、かと言ってこの先で周りの注目を集めたり不審がられたりしない程度の速度で馬車を動かす。
車内から板壁が一定のリズムで五回叩かれる、この合図はサミューがマドマを縛り上げ終わったって内容だから、これで逃げられる恐れはないか。
「しかしまあ、幾ら油断した相手、それも一人っきりとは言え、こうも簡単に短時間で人一人攫っちまうたあ、大した手際でさあ」
「まあ、以前に何度か聞いたことのあるやり口を、多少改良して真似しただけだがな」
うーん、馬車だけど、これも一応『ハイ〇ース』って呼んでもいいのかな。やっと、目撃者たちが事態を把握しだしたのか、大分離れた後方で複数の叫び声が聞こえるけど、通りに出た俺達の前後には似た様な馬車が数台あるから、すぐにはばれないだろう。
それに、騒ぎになっただけじゃまだ、焦る必要はない、誰かが衛兵の詰め所に駆け込むなり、巡回中の衛兵が騒ぎに気付いて駆け付けるまではまだ時間が有るだろうし、衛兵が気付いたとしても、そこから対応始めて俺達の捜索をするなり検問で道を封鎖するなり、なんかの対策が始まるまではさらに時間がかかるはずだ。
「その前に、この街の外に出る。日没後でも、まだ門は空いてるんだろ」
「へい、この位の時分でしたら平時なら間違いなく空いてやすね。なにせこの街は夜も稼ぎ時ですから、客の流れを止めたりはしやせんって」
「ならいい」
この世界には、110番が出来る様な公衆電話も携帯電話もないし、命令を遠方に伝えられる無線機なんかも無い、太鼓や鐘みたいな音で伝達する事も有るだろうけど、基本は伝令が情報伝達をするはず。だからこそ事件発生から対応開始までにかかるタイムラグを最大限利用して、一気に逃げる。
もしも、すぐに衛兵が気付いたとしても、徒歩じゃ馬車に追い付くのは難しいだろうし、騎馬を用意するには多少時間が有るだろう。




