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遠い世界

ごく普通の高校生、坂上遥のいる世界とは少し違う世界。アイドルである彼女も坂上遥と同じ事を考えていた。

 その日、広井♯青空♯(ソラ)は新曲の収録を終えると、スタッフの人たちに挨拶して会場を後にした。

 収録で一緒になったスタッフの人たちからこの後、食事の誘いが来ていたのだが、このあとも仕事があるので断ってしまった。仕方ないかあ、と諦めたように照れ笑いされたが、スタッフの人達のその残念そうな心の内が見てとれてしまい、こちらとしてもなんだが気まずかった。もう少し暇だったらその誘いも受けられるのに。

 スタジオを出てから、コーナーを右に折れる。エントランスはスタジオを出て真っ直ぐなのだが、収録が終わるとお世話になったプロデューサーの楽屋にお礼に行くことが恒例になっている。

 この楽屋というものは部屋の外には中に割り振られた人の名前が書かれた紙がついているだけで、外見では違いが分からないのだが、中に入るとソラの部屋とは作りが違って、上下関係を表しているのだなあ、としみじみと感じる。外見は至って普通のドアの向こうが、今回の収録で曲のアドバイスやらソラが歌う歌の作曲を担当してもらったプロデューサーでもあり、」著名な音楽家でもある松山努さん(事あるごとにソラの曲を作ってくれて下の名前で呼び合うくらいの関係だ)の楽屋だ。

「ツトムさん、ソラです。失礼します」コンコン、とノックをしてから中に入った。

 中には20代後半くらいであろうツトムさんと、ソラのマネージャーさんである野崎さん(野崎さんとはそこまで親しくない)がいた。野崎さんは恐らく今後のソラの曲や今回での反省点を聞いているのだろう。

「おお、ソラちゃん。さっきはお疲れ」「ソラさん。お疲れ様です」

「ツトムさんも野崎さんもお疲れ様でした」

「はい。これ」そう言ってツトムさんは楽屋に備えてあるから冷蔵庫から適度に冷えたペットボトルのお茶を取り出してくれた。

「いつもありがとうございます」別段変わったことでもないので、いつも通りにお礼を言って、お茶の入ったペットボトルを受け取る。

 仕事という仕事は歌うことしかしなかったソラに対して、ソラのために何日もかけて作詞作曲をし、アドバイスまでするツトムさんや、スケジュールの整理や営業場所までの車の手配など細かい仕事を一身に担っている野崎さんは大変な苦労をしているだろうといつも思っていて、二人にはなんだか申し訳ない負い目を感じている。

 この業界に入る前まではアイドル一人を輝かせるためにこんなにも人が裏で仕事をしているとは思ってもいなかった。ソラと関わり合いが深いツトムさんや野崎さん以外の人ももちろんソラを支えてくれている訳で、だからスタッフの人たちと食事をして感謝の気持ちも伝えたいのだが、なかなか機会がない。そのことを先日、ツトムさんに打ち明けたら、この業界には珍しい人だね、と驚かれた。

「ソラちゃん、今度のソロCDも売れるといいね」

 ペットボトルの蓋を開けた所で、ツトムさんは今日収録した曲のことについて話した。

 曲の制作、アドバイスは全てツトムさんが担当してくれているので、売れないということはツトムさんの評価にも影響が出るということで、その分ソラには負担が大きくて、実のところすでに胃が痛い。

「売れるといいんですが」

 自信なさ気なソラのセリフにツトムさんは、大きな声で、「大丈夫」と胸を叩いた。

「ソラちゃんなら売れる。可愛いし、スタイルいいし、歌も上手いし」

 可愛いという部分は少し心外だった(昔から自分の容姿には自信がない)が、やっぱり自分のことを褒められるのは嬉しくて、思わず笑顔になった。笑顔はソラの大きな武器だ。

「ありがとうございます」

「そうそう。その笑顔」

 ツトムさんと会話してると何となく楽しい。デビュー以前から男性と付き合ったことはないが、男性と付き合うならこんな感じなのかな、と想像してみた。もちろん職業柄で誰かと付き合うことはできないのだが、思い描くのは自由で、その空想の世界を広げたくなる。

 しかし、野崎さんが済まなさそうな顔をしながら、

「ソラさん、松山さん。すいませんが、ソラはこれから仕事があるので……」

「あっ」言われるまで忘れていた。仕事があるからスタッフの人との食事を断ったのに。なんとなく一言で意気消沈してしまった。ツトムさんも決まりが悪そうな表情で明後日の方向を見ている。

「そういうことなので、松山さんすいません」

 マネージャーとして当然の義務だが、二人の和気あいあいとした雰囲気を崩してしまった野崎さんは、ソラやツトムさん以上に気まずそうにもう一度謝った。

「分かりました。じゃあ、ソラちゃん、仕事頑張ってね」

「ありがとうございます。ツトムさんまた今度お願いします」

ツトムさんは笑顔で首を縦に振った。それがまた今後も相手してくれるという意味なのかな、と思って嬉しくなった。

「じゃあソラさん行きましょう」

 野崎さんはツトムさんの楽屋の机に置いてあった書類やらペンやらをかき集めて(文字通りかき集めて。野崎さんは散らかすことが得意なのだ)、一礼すると出ていった。出ていく時にソラに早く準備して、という合図を忘れない。ソラはツトムさんの楽屋に入って、何も言われないと何時間も出てこないのを野崎さんは知っているからだ。

 ソラもこれから仕事なので、しょうがないが少しだけ悲しくなる。

 今度話せるのはいつだろう、と寂しく思いながら出入り口の扉を開けると、ツトムさんが、

「今度食べに行かないかい? もちろんお世話になってるスタッフも連れて」

 食事に誘ってくれたのももちろんだが、昔ソラが相談したことを覚えててくれたんだ、と分かって色々な意味で嬉しくなった。

「はいっ! 喜んで!」

「じゃあ、また」

 最後はツトムさんの笑顔で見送られた。その笑顔を忘れないようにしようと、ソラも笑顔で返す。

 ツトムさんの楽屋の扉が、がたんと閉まる。

「実のこというと、もう次の仕事まで時間がないの」

 廊下にでたところで、野崎さんはソラにそう告げた。野崎さんは対応が淡白で、悪言い方をすると人間味が薄いのだが、これはやる気がないわけではなく、単なる普通だ。

 この野崎さんというマネージャーさんはちょっと変わった人で、営業はともかく、普段は服装に特に指定はないのだが、黒のスーツ(夏場は尋常じゃなく暑い)を年中着ているし、今時ドラマにもでてこないひっつめ髪だし――。

 スーツはもちろん何着もあるのだろうが正直全部同じに見えてどれも一緒に思える。番組で出演した時に仲良くなった同世代の友人からは、ソラのマネージャーさんは実は黒のスーツ収集家で家中にその手の服が飾ってあるんだ、とすばらしくどうでもいい妄言に付き合わされたことすらある(その時はさすがに苦笑した)。

「すいません。時間食っちゃって」

 ソラはツトムさんの楽屋で時間を使ってしまったことを素直に謝った。本当ならお疲れさまでした、と挨拶して、後は一言二言で終わらなきゃいけなかったところをソラの事情で引き延ばしてしまったのだ。これで次の仕事に遅れたら上からお叱りの伝言を受けるかもしれない。

 しかし、ソラの心配を消すように、野崎さんは、「とりあえずまだぎりぎり間に合うと思うからいいんですけどね」

「すいません」

「いいです。それよりソラさん。それと来週の週末にソロライブが○×で会場であるから、絶対に風邪引かないように」

 歌手でもあるから風邪をひくのはご法度だが、風邪はひいたことは幸いにもないが、エアコンのつけすぎで喉をやられたことがあり、その時はマネージャーさんからも、上司からもきつく叱られた。不幸中の幸いでダンスの振り付けだけがその日の仕事だったため大事には至らなかったが、上司にはこれがライヴ当日だったらどうするんだ、と何度も口うるさく言われた。

「気を付けます」

「じゃあこの後はABCテレビのインタビューね。時間推してるから私の車で送るわ。ソラさんは玄関で待機。車持ってくる」

 ソラさんは、の部分から野崎さんは走り出していたので、車持ってくる、の辺りは背中が玄関の自動扉に吸い込まれていくところだった。

 野崎さんの後ろ姿はいかにもというキャリアウーマンという感じで、駐車場に消えていくその姿を眺めていると、少し昔のことを思い出す。

 昔、憧れていたスーツというものは、社会人という強調が感じられて何となく羨ましかった。でも今の自分は――まだ法的には未成年であるが――社会人ではあるものの、スーツを着ない社会人で、その代わりに普通の人は着ないようなきらびやかな衣装を見にまとっている。それが自分のワークウェアなのだ。ただ時々スーツが羨ましく思う時もある。

 玄関でしばらく待っていると野崎さんの黒の4WDが颯爽と現れ、ソラの前に止まると自動で後ろドアが開く。早く乗って、という合図だ。

 ソラが乗り込むと、ドアを閉めようとするそれより前にドアが閉まり出して、ソラの仕事を奪った。毎回のことだが、野崎さんは仕事が早すぎる。

 塵一つ落ちていない車内は、単純に乗る人がいないのか、それとも掃除機をよくかけるのか分からないが、何となく綺麗で気持ちがいい。綺麗過ぎて椅子にごろ寝しにくいのが欠点だが。

 ぶおん、とマフラーが震えてから車は動きだした。

 これから首都高速を抜け、ビルとビルが行き詰まった都会の街中を一直線に駆け抜けていく。反対車線にはたくさんの車が通って行くのだろう。

 外の天気は梅雨の季節には珍しく快晴だった。青色の空がどこまでも澄んでいて、思わずあの時を思い出して眺めてしまうほど綺麗だった。自分とは関わりのない世界にいる人でも、この空の下で生きていて、同じ空を見上げている。もしかしたらどこか細い糸で自分と繋がっているのかもしれないと何となく思った。


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