第58話
今日一日、どう過ごしたか覚えが無い。
夜着姿のイリスはベッドに腰掛けて、じっと床を見つめていた。
やたら王太后に褒められた気がするが、それが何をして何を言ったからだったのかも記憶にない。
イリスが顔を上げる。目の前にフェルディーナとケティが立っていた。
「ねえ、女官長……」
「大丈夫です。今宵は試すだけです」
イリスの不安をかき消すように、フェルディーナはきっぱりと言う。
しかし、その『試すだけ』が危険なのではないか。
「やっぱり無――」
トントントン。
聞こえたノックの音にイリスの身体がビクリと震える。
「落ち着いてください。いつもの通りに」
「イリス様、頑張ってください!」
無責任な言葉を残し、侍女達は隣の部屋へと消える。そして入れ替わるように、ヴェリオルが部屋に入ってきた。
「ん? 寝るところだったのか?」
微笑むヴェリオルに、イリスは曖昧な笑みを浮かべた。
「今日の妃教育はとてもよく出来たそうだな。母上が褒めていたぞ、もういつでも王妃になって大丈夫だと」
イリスの傍まで来たヴェリオルが、左手に持っていた箱をポンとイリスの膝に投げる。
「これは……?」
「開けてみろ」
イリスが箱を開けると、中からは細かい細工が施された髪飾りが出てきた。
「約束しただろう? お前が好きそうな宝飾品を手に入れたからやると」
「ああ……そういえば」
侵略先で略奪した品を貰う約束をしていたことを、イリスは思い出した。
ヴェリオルがイリスの手から髪飾りを取り、頭にあてがう。
「思ったとおり、よく似合う」
「……そうですか。ありがとうございます」
節目がちに礼を言うイリスに、ヴェリオルは首を傾げた。
「嬉しくないのか?」
「いえ、嬉しいです」
「…………」
「…………」
髪飾りをサイドテーブルに置き、ヴェリオルがベッドに上がる。
「もう寝るか」
イリスが視線を上げ、ヴェリオルを見つめた。
「今日は……何もなさらないのですか?」
ヴェリオルが片眉を上げる。
「してほしいのか?」
「いえ……」
そういうわけではありませんが……と小さく呟くイリスを、ヴェリオルは横たえて抱きしめた。
「今日は他国の使者が訪れたので疲れた。たまにはゆっくりと寝かせてくれ」
「……いつも私が陛下を疲れさせているみたいな言い方はやめてください」
「違うのか?」
「違います」
ヴェリオルはクスクスと笑って目を閉じる。そして――。
「え?」
聞こえる小さな寝息。本当に疲れていたのか、もう眠ってしまったようだ。
「陛下……」
声を掛けても起きる気配は無い。
「……………」
イリスはじっとヴェリオルを見つめた。
黄金に輝く髪、長い睫毛、小さな顔――。女ならば誰もが憧れる容姿。
溜息が漏れる。自分は――どうすればいいのか。
ただひたすらヴェリオルの顔を眺め続け……ふと気がつけばもう夜中になっていた。
ヴェリオルはぐっすりと眠っている。今ならば――。
暗殺出来る。
しかしそれで良いのか。
ヴェリオルの腕からそっと抜け出し、左手を枕の下へと伸ばす。
指先に硬い感触。ヴェリオルの顔をじっと見つめながら短剣を取り出す。
柄を握り締め、唾液を飲み込む。
起きない。今なら。一突きで。自由になれる。でも――!
イリスは深い溜息を吐いて、短剣を枕元に置いた。
全身の力が抜け、汗が噴出す。
「出来るわけがないじゃない……」
ただ帰りたいだけ。ヴェリオルの存在は、迷惑で時々気色が悪いだけで、憎いわけではない。それで暗殺など、どうしてもイリスには出来ない。
暗殺され掛かったとなど夢にも思っていないだろうヴェリオルは、無防備に眠る。
イリスはヴェリオルの額に掛かっている髪をそっとかき上げた。それでも起きる気配は無い。
「…………」
ふと思う。
例えばこれで、陛下が王ではなければどうだったかしら……。
顔と身体は最高。眠る姿もいい男。ヴェリオルがただのお金持ちで、争いに巻き込まれる事もなく、実家に援助してくれて、贅沢三昧をさせてもらえれば。
そう、思い込みが激しく変態的なところはあるが、ブサイクな自分を愛してはくれているから……。
そこまで考えて、イリスはクスリと笑う。馬鹿馬鹿しい。だが――。
「それならば、好きになったかもしれないわね」
さあもう、寝てしまおう。
朝になればメアリアを始め皆に責められるだろうが、暗殺できないものは仕方が無い。ここから逃げ出す方法については、暗殺でも革命でもない別のやり方を早急に考えなくてはならないが、とりあえず今夜はすべてを投げ出してしまおう。
短剣を手に取る。それを枕の下へ……。
「イリス」
突然、横から聞こえた声にイリスは驚愕した。
まさか……と視線を向けると、ヴェリオルがパッと目を開けた。
「――――!」
イリスは咄嗟にヴェリオルに抱き付き、短剣を枕の下に押し込める。
バレてはいないだろうか?
心臓が大きく鳴る。
「イリス」
「は、はい!? 何でしょうか?」
声が上ずった。落ち着きなさいと自分に命じる。
ヴェリオルがイリスの身体に腕を回し――。
「そうか。やっと俺の気持ちに応える気になったか」
思いもよらない言葉に、イリスが固まる。
「……え?」
ヴェリオルは蕩けるような笑顔をイリスに向けた。
「俺を好きだと言ったな?」
好き……?
「いえ、言っておりません」
「いいや、ついさっき、確かに言った」
「…………」
それはもしかして、馬鹿な想像をしたときに呟いた言葉のことか。しかしイリスは、決して『好き』と言ってはいない。
「言っていません」
イリス首を横に振る。
「言った」
「言っていません」
「ならば何故こんなに甘えている?」
イリスの身体がビクリとなる。
「いえ、これは……」
暗殺しようとしていたのを誤魔化す為とは言えない。
「ん? 何だ?」
「え、ええと、ですからこれは――」
言い訳を考えながらイリスはヴェリオルの目を見つめ……。
「――ヒッ!」
小さく悲鳴を上げた。
「どうした? イリス」
優しい口調と表情。しかし――。
目が……、笑っていないわ……。
まさか気付いているのか。イリスの身体が小さく震える。
「イリス……」
表情を強張らせて返事をしないイリス。ヴェリオルがクスリと笑う。
「最近、面白いことをしているようだな」
面白い……、それはつまり……。
ヴェリオルの手がイリスの頬を撫でた。
「お前が王妃になることを伝えたら、両親も兄も喜んでいたぞ」
頬から髪へ、ヴェリオルの手は移動する。
「お前が望むなら両親には一生の贅沢を、兄には研究の援助をしよう。それに――」
髪を撫で上げた手が頭上に行き、枕をポンポンと叩いた。
「お前の可愛い悪戯にも目を瞑ろう」
ヴェリオルの口角が上がる。
イリスは目の前が真っ暗になった。
気付かれている、確実に。暗殺も革命も――。
「愛しているイリス。お前も俺を愛しているな?」
「…………」
「愛しているな?」
イリスの視線が彷徨う。
ヴェリオルはイリスの顎を指で持ち上げ、無理矢理視線を合わせた。
「愛しているな?」
逆らえば命は無い。ヴェリオルの目は、そう告げている。
「陛、下……」
喘ぐような声に、ヴェリオルは笑みを深くする。
恐怖の――限界。
イリスは涙を浮かべてぎこちなく頷いた。
「王妃になるな?」
もう一度頷く。
「愛している、イリス!」
力強い抱擁と熱いキス。
逃げることは不可能なのだと、イリスは悟った。