第57話
朝、メアリアは、イリスの部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、その異様な雰囲気に眉を寄せた。
「お姉様、どうされましたの……?」
イリスが夜着のままベッドに座り、ケティに手を握ってもらっている。
その傍らにはフェルディーナも立っており、メアリアに向かって軽く頭を下げた。
メアリアが部屋に入り、ベッドの傍まで行く。その後ろに続き、ユインも部屋の中へと入ってきた。
「お姉様?」
イリスの虚ろな目の前で、メアリアは宝石付きの扇をヒラヒラと振ってみせる。
「あら、反応しないなんて重症ね」
首を傾げ、メアリアはフェルディーナに視線を移した。
「離さないと陛下に言われたそうです」
「離さない? それがどうして……」
これほどまでのダメージをイリスに与えたのかと益々首を傾げるメアリア。
その時、イリスが重い口を開いた。
「美しく、妖しい光を湛える瞳……」
メアリアが「は?」と言って、口をポカンと開けた。
イリスがゆっくりと顔を上げ、メアリアを見つめる。
「赤い唇は笑みを浮かべ、しかし笑ってはいない。そう、陛下のお顔は――狂気に歪んでいたわ」
イリスは大きく息を吸い、苦しそうに心の中を吐き出した。
「何故こんなにも私に執着するの? 身も凍るような恐怖を体験したわ。一晩中震えと涙が止まらなかったのよ」
目を閉じて首を振るイリスの背中を、ケティが慰めるように撫でる。
メアリアはそんなイリスをじっと見て、扇を顎に当てた。
「そうですか。お姉様、大変でしたわね。でも……まあそれは、仕方が無いのかもしれません」
イリスが目を開ける。
「仕方が無い……?」
メアリアが頷く。
「恋は人を狂わすものです。陛下は今まできっと、まともな恋愛をしてこなかったのですわ。だからこれほどのめり込んでしまうのでしょう。お姉様――」
メアリアが真っ直ぐにイリスを見つめた。
「このままでは監禁されますわよ」
イリスの目が大きく見開く。
「監……禁……? まさか……」
「いいえ、十分ありえます。そうよね、フェルディーナ」
チラリと視線を向けられ、フェルディーナが頷いた。
「そうですね。側室の一人に執着するなど、以前の陛下ならばありえません。既に狂っていると言っても良いかもしれません」
狂っている……。
絶句するイリスの肩に、メアリアがそっと手を置いた。
「ねえ、お姉様。覚悟を決めましょう。これほどまでになっているなんて、予想外ですわ。私の見立てですと、陛下の正気は持ってあと数日といったところですわよ」
「数日!?」
イリスが大きな声を上げてメアリアの手首を掴む。
「ちょ、ちょっと待って! それでは革命なんて間に合わないじゃないの!」
メアリアが軽く目を見開く。
「あら、お姉様ったら嫌だと言いつつ革命を起こす気満々でしたのね。準備を急ぎましょう。さっそく――」
「それもちょっと待って!」
言葉を制され、メアリアのこめかみがピクリと動いた。
「何なのです!? はっきりしない!」
「いえ、だって……」
イリスの視線が彷徨う。
メアリアは溜息を吐いてイリスの手を振り払った。
「分かりましたお姉様。こうしましょう。もう暗殺で決定です」
イリスが「ヒッ!」と短い悲鳴を上げる。
「な、何を言っているの? そんなこと出来ないわ!」
「出来ますわよ。大丈夫」
「大丈夫なわけがないでしょう!?」
髪を振り乱して叫ぶイリスの身体を、ケティが抱きしめた。
「イリス様、落ち着いてくださいませ」
「ケティ!」
暴れるイリスと宥めるケティ。
「…………」
そんな二人を見つめながら、メアリアがある疑問を口にした。
「ねえ、お姉様」
「何よ!」
「お姉様は本当に、陛下のことを何とも思っていないのですか?」
イリスの動きが止まる。
「え? そうよ」
「――と言いながら、実は好意があるのでは?」
「…………」
イリスは呆れた表情でメアリアを見上げた。今更また何を言っているのだ。
「そんなわけ――」
「いいえ! 絶対そうです! だから計画に反対するのでしょう!?」
メアリアは扇でビシッとイリスを指して断言した。
「嫌い嫌いも好きの内。いつの間にか芽生えた恋心。憎しみから生まれた愛とは、まさに乙女の王道ですわ!」
「だから違うと言っているでしょう!」
苛々と身体を揺らすイリスの頭をケティが抱き寄せる。
「可哀想にイリス様! やはりここは私が一思いにグサッと――」
「やめてちょうだい!」
イリスが叫び、肩で息をする。そして数回深呼吸をして、メアリアにきっぱり言った。
「私は陛下を好きではないわ」
メアリアが疑いの眼差しでイリスを見る。
「本当に?」
「本当よ」
イリスが頷く。
「でしたら暗殺いたしましょう」
「だから……!」
また話がそこに戻ってしまった。イリスが頭を掻き毟る。
「お姉様だって、いくらブサイクでも、あんな怪我を負って平気なわけがないでしょう?」
「それはそうだけど、だからといって暗殺したいくらい憎くはないわ」
「そもそもの原因はすべて陛下にあるのですわよ」
「メアリアは極端よ!」
「私はお姉様のことを思って言っているのですよ」
イリスは首を横に振った。
「私のことを思ってくれるのなら、安全に金目の物を根こそぎ戴いて家に帰る方法を考えてちょうだい!」
「お姉様ったら、まだそんな夢のようなことを言って!」
イリスとメアリアが同時に溜息を吐く。これではいつまで経っても話は平行線のままだろう。
そこに――フェルディーナが一歩前へ出て、静かにイリスに告げた。
「イリス様、残念ながら、時間は限られているようです。どちらになさいますか? 暗殺と革命」
「女官長!」
ユインも一歩踏み出す。
「イリス様、ご決断を」
「ユイン!」
「イリス様ぁ……」
視線が集中し、イリスは戸惑った。そんな眼差しで見つめられても――。
イリスがごくりと唾を飲み込む。
「も、もう少し様子見で……、痛っ!」
メアリアの扇がイリスの顔面を直撃した。
「何ですの、それは!」
イリスがメアリアの扇を奪い、ベッドの上に投げる。
「どちらも無理と最初から言っているでしょう!?」
「……お姉様」
メアリアは額に手を当て、溜息を吐いた。
「もう分かりました。暗殺は私がやります。隙を見てお姉様はここから脱出ください」
イリスが「え!?」と目を見開く。
しかしそこで、フェルディーナが首を横に振った。
「いいえ。それは侍女である私の方が適役でしょう。メアリア様はイリス様を連れてお逃げください」
ケティが立ち上がる。
「お待ちくださいフェルディーナ様! イリス様の為です! ここは私が――」
「いいえ、これは騎士である自分がやるべきです」
ユインも話に割って入ってきた。
「やめてって言っているでしょう!」
イリスが立ち上がって怒鳴り、メアリア達が顔を顰めた。
「本当に我が儘ですわ。あれも嫌これも嫌……。だったらどうすれば良いのですか」
「それは……」
「ほら、何も思い浮かばないではないですか」
「…………」
唇を噛みしめるイリス。訪れる沈黙。
時間は無い。暗殺も革命も、王妃になるのも監禁されるのも嫌だが、どうすればいいのかイリスには分からない。
気まずい空気の中、フェルディーナが「フゥ……」と息を吐いてイリスの正面に立った。
「では、今日は本当に暗殺するわけではなく、出来そうかどうか少しだけ試すというのはいかがでしょうか」
試す……?
「ええ!?」
とんでもない提案に驚くイリス。
メアリアがパンッと手を叩いた。
「そうね、それがいいわ。試しにちょっと暗殺してみればいいのよ」
「暗殺って、試しにやって良いものではないでしょう!?」
それで失敗すれば、イリスは、家族やケティはどうなるのか。
首を振るイリスの目の前で、フェルディーナがドレスの裾を捲る。
「よろしければ、こちらをお使い下さい」
イリスが目を見開く。
「それは……!」
フェルディーナの太ももに巻かれた剣帯。そこには当然のように短剣があり、それをフェルディーナはイリスの手に押し付けた。
「女官長……、この短剣は何? どうしてこんな物を持っているの?」
「護身用です。もし暗殺出来そうなら、そのまま本番でもかまいません。確実に心臓に刺してください」
「本番って……」
イリスが呆然と剣を見つめる。
「頑張って! お姉様!」
聞こえるメアリアの明るい声。イリスはハッとした。
「頑張れるわけがないでしょう!?」
「大丈夫ですわ。今宵は練習ですのよ、気軽にいきましょう。バレそうになったら甘えて誤魔化せばいいのです。陛下はお姉様を盲目的に愛していますから、コロッと騙されますわよ」
「メアリア!」
なんてことを言うのだ。
イリスの手から短剣が落ちる。それをフェルディーナが拾って枕の下に隠した。
「さあ、とりあえずの方針は決まりましたので、そろそろ朝食にいたしましょう」
「あら、まだ食べていなかったのですか? 早くしないと王太后様のところへ行く時間になってしまいますわよ。それにまだ、夜着のままではないですか」
「ケティさん、ドレスを用意してください。ユインさんもあまり長時間持ち場を離れると怪しまれます。廊下に戻ってください」
ケティとユインが返事をする。そしてイリス以外が慌しく動き始めた。
「ちょっと待って! いろいろとおかしいわ! ケティ!」
ドレスを取りに行こうとしていたケティが振り向く。
「大丈夫でございます、イリス様。いざというときには私を呼んでください。二人がかりならきっと暗殺出来ます」
ユインも頷いた。
「自分も協力します」
フェルディーナが微笑む。
「肩の力を抜いて、イリス様ならきっと上手くいきます」
メアリアがイリスをギュッと抱きしめた。
「安心して、私達はお姉様の味方ですわよ」
「…………」
暗殺を強要する味方……。
メアリアから漂う甘い花の香りにクラクラとする。
自分がおかしいのか周りがおかしいのか、イリスの頭は混乱した。