第48話
午後のお茶の時間――。
テーブルに並んだ高級菓子をつまみながら、イリスとメアリアはまったりとした時を過ごしていた。
「平和ですわね、お姉様」
メアリアの言葉にイリスは溜息を吐いて、持っていたカップをテーブルに置く。
「平和……と言ってよいのかしら」
「あら、だって陛下は留守で、お姉様はこの部屋から出ることを禁止されているから王太后様のところに行かなくても良いのでしょう? あれこれ言われることもなく伸び伸び自由に過ごせるこの状況を、平和と言わなくて何と言いますの?」
「そもそもこの部屋から出られない時点で、『自由』ではないと思うわ」
大きな土産を約束してヴェリオルが旅立ってから数日。
どこに何をしに行ったのか考えると、とても平和だなどとは言えない状況だ。
「まあ、お姉様ったら」
メアリアはころころと笑ながらカップを置き、「それにしても……」とイリスを上目遣いで見た。
「寵妃の為に国王が自ら戦地に赴くなんて、きっと国民は驚いているでしょうね」
「……やめて頂戴」
領地が欲しいと確かに言いはしたが、侵略してくれとは言っていない。
「国王を狂わせた悪女……なんて噂になっているかもしれませんわ」
「私が狂わせたのではなくて、陛下ははじめから立派に狂っていたわ」
自分に執着するなど正気とは思えない、と、イリスは眉を寄せる。
「そんな顔ばかりしないでお姉様。陛下が帰ってきたら、この後宮から出られるのですから――王妃として」
「だから、やめて頂戴!」
イリスがバンバンッとテーブルを叩き、カップが震えた。
「王妃になんてなりたくないわ!」
冗談じゃない。何故こんなことになってしまったのか。王妃などなりたい者がなれば良いのに、何故嫌がっている自分に押し付けようとするのだ。もしや究極の嫌がらせなのか。
何とか上手く陛下を騙し、金銀財宝を抱えてここから脱出する方法はないのかしら?
イリスは俯いて、カップの中に少しだけ残っているお茶を見つめる。
そういえば、以前図書室から借りて読んだ物語に、『仮死状態になる薬』というものが書かれていた。現実にそれがあれば、いったん仮死し、その後こっそり逃げ出すことも可能ではないか?
「逃げられませんわよ」
掛けられた言葉に、現実逃避していたイリスがハッとして顔を上げると、可愛らしく首を傾げるメアリアと目が合った。
「ああいう粘着質で思い込みの激しい男は、どこまでもしつこく追いかけてくると思いますわよ。そろそろ覚悟を決めたらいかがかしら」
「…………」
「良いではありませんか、それだけ愛されているのですから、もう王妃になってやっても」
愛されているから?
だからといって、どうして自分が王妃になってやらなくてはいけないのか。
「私、愛なんて要らないわ」
そんなものは迷惑なだけだ。
「何故? 『愛する者と結婚する』。一番大切な事ですわよ」
イリスはメアリアを見つめ、大きく首を横に振った。
「違うわ。一番大切なのは、安全な環境でそこそこの金持ちと結婚する事よ。そこに愛なんて必要ないわ」
メアリアが眉を寄せる。
「金が有っても愛がなければ虚しいだけです。私の両親のように」
「メアリアさんはお金に困った事がないから分からないのよ。愛が有ってもお金がないと辛い思いをするだけよ、私の両親のように」
メアリアは「まあ!」と声をあげて、扇でイリスを指した。
「お姉様こそ、愛の無い虚しさを知らないからそんなことが言えるのですわ」
「それは生活に余裕があるからこその幻想よ」
「なんですって!?」
睨み合うイリスとメアリア。
暫く互いの目をじっと見た後、静かに息を吸ってイリスが口を開いた。
「小さなパンと具のほとんど無いスープという食事をしたことがあるかしら?」
「両親は愛人の元へ。いくらご馳走が並んでいても、独りでは美味しくありませんわ」
「借金取りがドアを叩く音に怯えたことなど無いでしょう?」
「いくらお金を使っても満たされない……。そんな経験したことがあって?」
「…………」
「…………」
一位と二位、それでも同じ貴族だというのに、育った環境に隔たりが有りすぎた。
フェルディーナがポットを持ってきて、無言になった二人の間に割り込むようにしてカップに新しいお茶をゆっくりと注ぐ。
そして二人のカップが満たされると、フェルディーナは軽く頭を下げて、静かにテーブルから離れた。
ゆらゆらと立ち上る湯気。イリスとメアリアは同時にカップを持ち上げてお茶を一口飲む。
口内に広がる花の香り――。
フゥ……と息を吐いてカップを置き、メアリアが再び口を開いた。
「陛下と結婚すれば、愛も金も権力も手に入りますのよ」
「危険も付いてくるではないの、嫌よ」
「愛に危険は付き物ですわ」
「だから愛なんて要らないと言っているでしょう?」
「いいえ、必要です」
「要らないわ」
頑なに拒否するイリスに、メアリアが首を傾げて訊く。
「ねえ、お姉様。基本的な問題ですけど、陛下のことは好きではありませんの?」
「え……?」
イリスは軽く目を見開き、小さく首を振った。
「いいえ、全然」
「本当に? 少しも?」
「……ええ」
メアリアが片眉を上げる。
「あれでも少しは良いところがありますわよ、顔とか」
「顔……は、そうね。でも私、見た目にはあまり興味が無いの」
「あら、そうですの?」
「そうよ」
「…………」
人差し指を顎に当て、メアリアは一瞬中空を見つめ、すぐにイリスに視線を戻した。
「では、陛下の存在は迷惑?」
「そうね。いろいろ貰えるのは嬉しいけど、根こそぎ戴いたら家に帰りたいわ」
それが叶えば、貰った物を換金して借金を返済し、父であるモルトは監視付きで隠居させ、自分は家柄目当ての成金に嫁いで幸せな生活を送れるのだ。
なんて理想的な展開。そしてヴェリオルも釣り合いの取れた相手を王妃として迎えれば良い。
「そもそもこんなブサイクが王妃なんて、ありえないわ」
呟いて天井を仰ぐイリス。
シミ一つ無い天井は美しいが、それでも実家の雨漏りのする汚い天井の方が好きだ。
愛など必要ない。欲しいのは悠々自適な毎日――。
「ねえ、お姉様……」
妙に猫なで声で呼ばれ、イリスは顔を戻した。
「なあに? メアリアさん」
メアリアが扇を広げて身を乗り出す。
「とても素晴らしい考えがありますの!」
目の前の青い瞳は、宝石のようにキラキラと輝いている。
「え……?」
首を傾げるイリスに、メアリアはニッコリと笑った。