「冥界の使者」
ここは国内某所にある研究所。
国の存亡に関わる重要な研究をしているが、その存在はごく一部の限られた者しか知らない。
その研究所の廊下で立ち話をする研究員が二人。どちらも優秀な頭脳の持ち主で、研究所に配属されてからまだ二年の若手研究員だ。
「ここが改善されれば何とかなると思うのだが」
「これか。そうだなあ、これは――」
資料を片手に意見の交換をしていた二人が会話をやめる。
ズズズ……ペタン、ズズズ……ペタン。
聞こえたのは足音。このように独特な、足を引き摺るような歩き方をする人物は一人しかいない。
振り向いた二人は、こちらに向かって歩いてくる人物に慌てて頭を下げる。
痩せた身体、長い髪、丸い背中――。
まるで歩く屍のようなその男は、だがしかし、目だけは異常に輝いていた。
そして男は一人ではない。長年この研究所で働いている五人の研究員を従えていた。
二人の額に汗が噴出す。
ズズズ……ペタン、ズズズ……ペタン。
男はゆっくりと前を通り過ぎていき、二人はホッと息を吐いた。
「あぁ、驚いた。滅多に研究室から出られないのに」
「本当に珍しいな。笑顔だったような気がするが、何か良いことでもあったのだろうか――ジン様」
そう、男の名はジン・アードン。国王の寵妃の兄にして、彼自身も国王と親交があるらしい。
そして――この研究所の影の支配者。
研究所に来てから僅かの間に、天才的能力と権力で頂点にのぼりつめた恐るべき男。
研究員達は尊敬と畏怖を込めてジンをこう呼ぶ。
『冥界の使者』――と。
◇◇◇◇
ここは天国なのだろうか……。
馬車に押し込まれて連れてこられた施設、その一室でジンは驚いた。
目の前には、貧乏故に欲しくても手に入らなかった研究に必要な数々の品が並べられている。
「今日からここが君の部屋だ。ここにあるものは好きに使って良いし、必要なものがあれば用意する。その代わり我々の研究にも少し協力してくれ」
そう言ったのは、ジンを研究所に連れてきた髭の男。男はこの研究所の所長らしい。
ジンは室内を見回す。これらを自由に使って良いとは――本当に?
「いいのですか?」
少年のように瞳を輝かせてジンは振り向く。
夢のような話だ……。
思わず指を組み、神に感謝の祈りを捧げた。
なんという幸運なのだろう。
この日から、ジンの研究所生活は始まった。
朝起きたらジンに付けられた使用人が朝食を運んできてくれる。それを食べ、後はひたすら研究。
所長に指示された仕事をさっと済ませばその後は何をやっても良い。
しかも自分の研究に所長も研究員も興味を持ってくれ、褒めてくれるのだ。
今までは眉を顰められることはあっても、誰も褒めてなどくれなかった。
ジンは幸せだった。空飛ぶ馬車を完成させたら、妹と両親を遠い地へ逃がしてやれるかもしれないと夢見ていた。
そんなある日――。
「湯浴みをしてこちらに着替えてください」
使用人の言葉にジンは首を傾げた。渡された衣装は普段父親が着ているよりも立派なものだった。
「早くしてください」
使用人に急かされて、ジンは湯浴みをして着替える。すると今度は自室を出て、研究所内にある一室に連れて行かれた。
使用人がノックをしてドアを開けると、そこには所長と見知らぬ者が数人。
その中でも椅子に座って足を組み、頬杖をついている偉そうな人物にジンの目は釘付けとなった。
所長がジンを手招きする。
「ジンこちらに来てご挨拶をしなさい」
所長の横に移動しながらジンは首を傾げた。
「こちらの……キンキラキンはどなたですか?」
豪奢な衣装に身を包んだ、キラキラと輝く黄金の髪の男。その顔は驚くほど端正で、女性なら誰しもが憧れを抱くだろうとジンは思った。
「こ、こらジン」
所長が青くなって慌てる。
男は片眉を上げて、何かマズいことを言ったのかとキョトンとするジンを、値踏みするように上から下まで見て口を開いた。
「なるほど。その言動、間違いなく兄妹だな」
「兄妹?」
聞き返すジンの腕を所長が引っ張る。
「ジン、陛下に失礼な」
「え!?」
ジンは目を見開いた。陛下、つまりこの男はエルラグドの国王なのか。
このお方がイリスを気に入っている陛下、おそらくは変態な趣味をお持ちの……。
そこでハッとして、ジンは国王であるヴェリオルに詰め寄った。
「イリスは!? 怪我は!? 元気なのですか!?」
ジンを取り押さえようとした周りの者を手で制し、ヴェリオルは答える。
「イリスはとても元気だ。怪我も治った」
元気……。
ホッと胸を撫で下ろし、ジンは床に膝を付く。
「陛下、お願いでございます。イリスを返してください」
「何?」
ヴェリオルが眉を顰めた。
「イリスは倒れてきた本棚で怪我をしたと聞いております。畏れながらそんな危険な場所にイリスを置いておくことは出来ません。どうか、お願いいたします」
「…………」
頭を下げすぎて床に額がついてしまったジンをじっと見つめ、ヴェリオルは髪を掻き上げて命じる。
「まずは座れ」
「陛下っ」
「座れ。二度言わすな」
強い視線を向けられ、ジンが仕方なく立ち上がった。
そして座ったのを確認し、ヴェリオルは話し始める。
「イリスを家に帰すことは出来ない」
「何故ですか!」
声を荒げるジン。
「何故なら――」
ヴェリオルが口角を上げる。
「イリスが余に心底惚れているからだ」
「……は?」
予想外の言葉にジンはポカンと口を開け訊いた。
「イリスが?」
ヴェリオルが頷く。
「ああ。余から離れたくないと言っている。ずっと傍に置いてほしいと泣きながら懇願するのだ」
泣きながら……。
信じられないと言うようにジンは首を小さく振った。
「あのイリスが?」
「勿論イリスが、だ」
「…………」
「…………」
ジンとヴェリオルが見つめ合う。
本当なのだろうか。だが確かに女性が憧れるこの容姿、イリスが惚れてもおかしくはないのかもしれない。だが……。
「えー……、しかしイリスはあの通りブサイクで、ご迷惑では……」
「イリスはブサイクだが愛嬌がある」
「愛嬌……はありますが」
困惑するジンに、ヴェリオルは「実は……」と眉を寄せた。
「イリスが怪我をしたのは事故ではないのだ」
「え!?」
驚くジンにヴェリオルが真実を語る。
「あれは余の失脚を狙う蛆虫共の仕業なのだ」
「なんと……」
そんな。事故ではなかったのか。
「イリスを巻き込んでしまった、そして守れなかったことは残念に思う。だから余はイリスに言ったのだ」
ヴェリオルは大きく息を吐いた。
「『家に帰してやろう。もう余のことは忘れるが良い』、と」
目を伏せ、首をゆっくりと振ってヴェリオルは続ける。
「だが、イリスは嫌だと言った。『危険でも傍に居たい』。縋り付くか弱き存在を振り払うなど、余には出来なかった」
「イリス……」
まさか、そんなことになっていたとは。
強い子だと思っていたイリス、恋愛になど興味なさそうだと思っていたのに、いつの間に命がけの恋をするほど成長していたのかとジンの目頭が熱くなる。
ヴェリオルの話は続いた。
「しかし、これ以上イリスを傷つけるわけにはいかない。どうするべきか……悩む余にイリスは言った」
頬杖をやめ、ヴェリオルが真っ直ぐジンの目を見る。
「――『お兄様の力を借りましょう』と」
「イリス……が?」
ジンの瞳が戸惑い揺れた。
「そうだ。イリスはそなたのことを天才的頭脳の持ち主だと言っていた。そなたなら余の力になってくれる、と」
「イリス……」
あのイリスが、自分の研究を絵空事と笑い飛ばしていたイリスが頼ってくれた。
感動でジンの胸はいっぱいになった。
「余はイリスを傷つけた者達が許せない。イリスも蛆虫共を一掃してほしいと言っていた。可哀想に、いまだにイリスは毎晩余が強く抱きしめてやらないと恐怖で眠れないのだ。イリスの安眠のため、またこの国の平和のためにそなたに働いてもらいたい」
ヴェリオルが拳を握る。
「強大な敵を排除出来るようなものがほしい。イリスが――未来の王妃が安心して過ごせるように」
未来の……?
ジンは驚愕のあまり呼吸を止めた。そして――。
「王妃ぃ!?」
声が裏返った。
「ああ。余はイリス以外の妃はいらないと思っている。イリスは二位貴族でたいした後ろ盾もないが、そなたが素晴らしい成果を出せば誰も文句など言わなくなるだろう。つまりイリスの幸せはそなたの双肩に掛かっているのだ」
「…………!」
ブサイクだが可愛い妹の未来が自分しだいで決まる。ジンの頭はあまりの衝撃にクラクラとした。
「やってくれるな」
ヴェリオルの問いかけに、ジンは数回深呼吸をして大きく頷く。勿論だ。イリスのためになるのなら。
「イリスを害する敵を根絶やしにするのだ。二度と歯向かう気など起こさぬよう徹底的に」
「イリスを……幸せにする!」
「そうだ。すぐに仕事に取り掛かれ。必要なものがあればいくらでも言え。研究員達も好きに使って良い。余が許す」
強い決意を宿した瞳でジンはヴェリオルを見た。
「はい」
こうしてジンの研究内容はかわった。
イリスのため、ジンは寝る間も惜しんで働いた。
◇◇◇◇
所長を含めた研究員五人を従えたジンは、研究所内の一室の前で止まる。
ノックをしてドアを開けると、そこにはお忍びで視察中の国王陛下の姿があった。
「研究は進んでいるか?」
ヴェリオルの問いかけにジンが頷く。
「はい。もういつでも――」
「そうか。イリスはそなたが頑張っていると聞いて、涙を流して喜んでいたぞ」
「イリス……」
ジンは胸に手を当ててその光景を思い浮かべた。
「イリスの幸せはすぐそこだ」
「はい」
可愛い妹よ、もう少しでお前の望む未来が手に入る。
口角を上げて笑うヴェリオルに、うっとりとした表情でジンは返事をした。