第47話
「そろそろ、か」
ヴェリオルの声で目を覚ましたイリスは、大きなあくびをして目を擦った。
「あぁ、起こしたか。まだ早い、寝ていろ」
言われた通り室内はまだ薄暗く、時計を見ると『五の時』を示していた。
「陛下、もうお帰りですか?」
何も身に付けていないというのに、恥らう姿を微塵も見せずにイリスが身体を起こす。
そんなイリスにヴェリオルが苦笑しながら夜着を羽織らせた。
「ああ、寂しいか?」
「いえ、全然。早くお帰りください。もう来なくて結構です、迷惑です、鬱陶しくてしつこいです」
「……イリス、言いすぎだ」
朝から容赦なく厳しい言葉を浴びせられ、ヴェリオルは溜息を吐く。
「ところで……」
イリスが夜着の袖に腕を通しながら首を傾げた。
「『そろそろ』とは何のことですか?」
「…………」
胸のボタンを留めながら、ヴェリオルは顔を顰める。
「イリス、首のところのボタンが上手く留められない」
まるで子供のような口調。甘える年頃などとっくの昔に過ぎ去っている筈だが。
「……それぐらいご自分でなさってください」
突き放す言葉にごねるような声。
「イリス」
「…………」
眉を寄せてイリスはベッドから降り、手を伸ばしてヴェリオルの首元、一番上のボタンを留める。
ついでに袖口のボタンも留めてやり、満足気に見下ろしてくるヴェリオルを軽く睨み付けた。
「そう睨むな。お前が笑顔で送り出してくれれば、今日も一日頑張れる」
「笑顔一回は金塊一山と引き換えになります」
「……高いな。まあ良い、笑え。もうすぐもっと良いものをやるから」
「良いもの?」
訝しげなイリスに、ヴェリオルはクスクスと笑いながら口付ける。
「ああ、良いものだ」
「…………」
それはむしろ『悪いもの』ではないのだろうか。
ヴェリオルの目が、一瞬残酷に光っていたのを確かに見た。
何をしても良いが、とにかく巻き込まないでほしいとイリスは願う。
「イリス、笑ってくれ」
「…………」
まだ言うのか。しつこい男に嫌々ながらも引きつった笑顔を向ける。
「ではイリス、また今夜来るからな」
「え? 来るのですか?」
あからさまに嫌な素振りを見せるイリスにもう一度口付け、ヴェリオルは部屋を出て行った。
「…………」
また今夜来るのか。いい加減飽きてくれれば良いものを、と思いながらイリスはあくびをしてもう一度ベッドに潜り込む。
目を瞑り眠る瞬間、そういえば『そろそろ』とは何か聞き忘れたことを思い出したがそのまま眠ってしまい、次に起きた時にはすっかり忘れてしまっていた。
久し振りの庭園散歩――。
今日は王太后からの呼び出しも無く、良い天気なので暫く足を踏み入れてなかった庭園に皆で出た。
イリスの周りはケティとフェルディーナは勿論、『ランドルフの衝撃』から一晩で奇跡の復活を遂げたメアリアとその侍女達、それにユインが護衛をしている。
ケティとたった二人でひっそりと暮らしていたあの頃とは随分と違ってしまったわね……。
望んでいない変化はあまりにも激しく、イリスは遠い目をして溜息を吐いた。
「綺麗ね。最近花をゆっくり見る暇もなかったわ」
「そうでございますね」
ケティが頷く。
「たまにはここでのんびりお茶でも飲んでみたいわね」
子供の頃のように、地面に布を敷いてお茶とお菓子を食べてみたい。
そんな小さな願望は、フェルディーナとメアリアの冷静な一言で打ち砕かれる。
「いけません。狙われやすい屋外での飲食は避けるべきです」
「お姉様は本当に危機管理がまったくなっていませんわ」
イリスは眉を寄せて呟いた。
「……分かっているわ」
そう、そんなことはイリスだって分かっているのだ。
チクチクと感じる視線、それは庭園に居る側室達からのもの。
さりげなく視線を向けると、イリスから見て右手にいる側室は属国の第二王女であるオリビア。
彼女は嫌味を言ってくるが、それだけ。どちらかと言えば子分体質。おそらく大きなことをしでかす度胸はない。
左手、建物の近くにいる侍女を三人連れた側室はサラ。
エルラグドより小さいが、それでも歴史ある国の姫でおとなしい。彼女もおそらく問題ない。問題なのは……。
イリスは目を眇める。
中央付近にいる側室、同盟国の第一王女カバレ。
先程から憎しみの籠もった視線を向けてきている。
彼女とその侍女は嫌みだけではなく手も出してくる。まだ後宮に入ったばかりの頃に、実際イリスは突飛ばされたことがあるのだ。
おそらくは……彼女が。
毒も図書室での出来事も、犯人はカバレではないか。
彼女ならそれくらいやりかねない。一番怪しい存在。
「そろそろ、でしょうか」
聞こえた声にイリスはハッとする。
振り向くと、フェルディーナがじっとカバレを見ていた。
「あら、向こうの準備は整ったのかしら?」
メアリアが扇で口元を隠して小さく首を傾げる。
「許可は出ていませんが、もう非常事態ということで良いのではないのでしょうか」
「そうね、待ちくたびれたわ。きっと今も何か隠し持っているでしょうし。ユイン――」
メアリアの視線を受けて、ユインは緊張した面持ちで頷いた。
「……非常事態、了解です」
ピリピリとした空気。フェルディーナ、メアリア、ユインがカバレを見つめる。
「……え?」
非常事態とは……。
イリスがケティに視線を移す。
「ケティ」
「そろそろでございますです!」
拳を握りしめて頷くケティ。その瞳には強い決意のようなものが漲っていた。
「…………」
だから何がそろそろだというのだろうか。
口を開きかけたイリスの腕をフェルディーナが引く。
「そろそろ、お部屋に戻りましょうか」
「女官長――」
分かるように説明をと言おうとしたイリスの耳元で、フェルディーナが囁いた。
「お静かに。イリス様は堂々としていてください」
有無を言わせぬ口調にイリスは黙る。
何だというのか。まるで何かが起こるような緊張感。
棟の入り口へとイリス一行は歩いていく。
そしてその途中、すれ違いざまにサラが挨拶をしてきた。
「ごきげんよう、イリスさん」
サラらしい控えめな笑顔。
イリスも挨拶を返す。
「ごきげんよう、サ――!?」
突然、だった。
目の前で繰り広げられる光景に声が出ない。
フェルディーナがサラの侍女を突飛ばし、メアリアが扇を投げながらイリスを引っ張り抱きしめる。
ケティが向かってくる侍女の攻撃を躱して首を掴んで投げ飛ばし、ユインがサラの腹部に当身を食らわせて地面に押さえ付けた。
「……え?」
全てが一瞬の出来事。
響く悲鳴。庭園を巡回中だった他の騎士が走って来る。
フェルディーナが呻くサラの顔を踏み付けた。
「な、何をなさいますか!」
髪を振り乱し、叫んだのはサラの侍女。駆けつけた騎士により拘束されていた。
フェルディーナはそんな侍女を鼻で笑う。
「そういうあなた方こそ、何をしようとしていたのですか?」
侍女の視線が彷徨った。
「なんの事……」
口角を上げ、フェルディーナは侍女を見据える。
「よろしいです、調べれば分かりますから。例えば……その胸飾りなどを」
さっと侍女の顔色が変わる。
メアリアがイリスから手を離しながら笑った。
「あら、当たったようですわね」
ギリギリと歯ぎしりする侍女からフェルディーナは視線をユインに向け、サラの顔から足を退ける。
「ユインさん、サラ様を陛下のところに連れて行って差し上げてください」
「まあまあ、良かったですわねサラさん。愛しの陛下とやっとご対面ですわ。さ、お姉様は部屋に戻りますわよ」
メアリアとフェルディーナに両脇を掴まれ、後ろからケティに押されてイリスは無理矢理歩かされた。
「い、いったい何が……」
イリスはまだ何が起こったのか分からないでいた。
何故ケティ達が突然攻撃を仕掛けたのか、サラとその侍女が何故拘束されたのか。
部屋に戻り、椅子に座らされたイリスは、そこで漸くフェルディーナから説明を受けた。
「おそらくサラ様と侍女が身に着けていた胸飾りの針には、猛毒が塗られていたのです」
イリスが目を見開く。
「も、猛毒?」
メアリアが溜息を吐きながらイリスの前の席に座った。
「気付いていなかったのでしょう? あの女がお姉様を傷付けた犯人だと」
「サラさんが?」
まさか、と口を開ける。サラは後宮に入った時からずっと、イリスに親切にしてくれていた存在なのだ。
「でもフェルディーナはよく胸飾りのことに気付いたわね」
「ええ、胸飾りを触りながらイリス様をチラチラ見ていたのでもしやと思ったのですが……当たりました」
「あら、勘だったの。近付いたところをその針でチクッとさすつもりだったのかしら。毒は一度失敗しているというのに、懲りない女ね。ねえお姉様」
「…………」
なんと答えればいいのか。イリスは自分が見当違いをしていたことに漸く気付く。
「女官長もメアリアさんも……サラさんが犯人だと良く分かったわね」
フェルディーナが頷いた。
「以前から怪しいと思っていました。彼女は優等生すぎるのです」
メアリアが笑う。
「私は後宮に入ってすぐに気付いたわ。あの女、大人しい振りをしていたけど、腹の中はきっと真っ黒ですわよ」
「…………」
そうなのか。
「お姉様、騙されすぎですわ。以前庭園で私の嘘泣きに騙されたでしょう? しっかりなさって下さい」
「え、あれ嘘泣きでしたの?」
驚くイリスにメアリアは深く溜息を吐いた。
「まったく、ボケていますわね。でも――」
メアリアがイリスに微笑む。
「――そういうところ殿下と似ていますわ。ちょっと本気でお姉様の事愛しくなってきました。陛下にくれてやるのが惜しいですわね」
『くれてやる』とはどういう意味か。勝手に決めないでほしいと頬を引きつらせながら、イリスはケティに視線を移した。
「ケティはサラさんのこと、いつから気付いていたの?」
「私は先日フェルディーナ様に教えてもらっていました。黙っていて申し訳ございません」
「…………」
知らなかったのはどうやら自分だけだったという事実に、ケティからさえ仲間外れにされたような気がして落ち込みかけたその時――。
ドア勢いよく開く。
「イリス!」
現れたのはやはりというか、ヴェリオル、とユインだった。
ヴェリオルはイリスに向かって突進し、抱きしめて口付ける。
「あらまあ、熱烈ですこと。ホホホ」
メアリアがわざとらしく笑い、首を傾げた。
「ところで陛下、私に言うことはありませんか? 私がいなければお姉様は今頃……」
「……チッ」
イリスとの時間を邪魔されたヴェリオルが舌打ちして、メアリアと続けてフェルディーナを睨む。
「女官長、余は許可するまで動いてはならないと命じていなかったか?」
メアリアがフェルディーナを見上げて訊いた。
「そうでしたの?」
フェルディーナが首を傾げる。
「さあ? そんなこと言われていましたでしょうか、ユインさん」
「え!?」
突然質問が回ってきてユインは慌てた。フェルディーナがじっと見つめる中、ユインは一度深呼吸をして口を開いた。
「え、ええと、許可があるまでは動いてはならないが、非常事態の時は手段を選ぶなと命じられていました」
冷や汗をダラダラとかいているユインに頷き、フェルディーナはヴェリオルに微笑んだ。
「つまり、非常事態だと騎士であるユインが判断いたしました」
ユインが目を見開き、ヴェリオルが眉を顰める。
「まあ良い、何とか準備も間に合ったしな。だが今後ふざけた真似はするな」
フェルディーナが無言で頭を下げ、ユインが敬礼した。
ヴェリオルは鼻を鳴らし、呆然とするイリスにもう一度口付けようと唇を近付ける。その時またもメアリアが訊いた。
「ところで陛下! 大活躍の私に言うことはありませんの?」
ヴェリオルの唇がイリスの頬の前で止まる。
「……感謝するとでも言えば良いのか? 下がれ。あまりしつこいと、ランドルフが辛い目に遭うぞ」
「な……!」
メアリアの表情が一変し、小刻みに震えながら口を閉じる。
唇を噛みしめるメアリアに口角を上げ、ヴェリオルはイリスの頬に口付けた。
「陛下……」
イリスがヴェリオルを見上げる。だが何と言えば良いか、頭が混乱して分からない。
そんなイリスの頬を撫で、ヴェリオルは微笑んだ。
「お前が欲しがっていた大きな領地を贈るから、待っていろ」
「大きな……領地?」
イリスが首を傾げる。確かに領地が欲しいといった覚えはあるが、何故今その話が出てくるのか。
「ああ。すぐに征服してくる」
「……え?」
征服……? それは。
「お前を傷つけたのだから、相応のものを払ってもらおう」
イリスの目の前で、ヴェリオルの顔に浮かぶ残酷な笑み――。
征服……。
「ホ、ホホホホホ……」
なにやら更にとんでもない方向に向かっている。
もうイリスは笑うしかなかった。