第39話
「何故また居る」
夜遅く、イリスの部屋に来たヴェリオルは、露骨に嫌な表情をしてメアリアを見た。
朝からイリスの部屋に入り浸っているメアリアは、深夜に近いこの時間まで『ランドルフ殿下との愛の軌跡(奇跡)』というイリスにとっては非情につまらない話をし続け自室に帰ろうとはしない。
「お姉様をお守りする為ですわ」
「そなた……いや、そなた達、余が不快になると分かっていてわざとやっているだろう」
「なんのことやら」
首を傾げるメアリアと顔を背けるフェルディーナに眉を寄せ、椅子に座って自分には関係ないとばかりに遠い目をしてお茶を飲んでいるイリスの肩にヴェリオルは手を置いた。
「側室が部屋に戻らねばならない時間はとっくに過ぎている。帰れ」
「あら? 私がお姉様と仲良くしているのが気に入りませんの? 男の嫉妬は醜いですわね」
「…………」
「…………」
ヴェリオルとメアリアが睨み合う。
イリスがゆっくりとカップを傾け、お茶を喉に流し込んだ。
「私がしっかり守っているからお姉様が無事に過ごせているのですわ。むしろ感謝してほしいですわね」
「ほう……? そんな大口を叩くか」
目を眇めるヴェリオルを、メアリアが無礼にも扇で指す。
「だいたい陛下は考えが甘いのですわ」
「なに……?」
「早く処分すれば良いでしょう? また繰り返しますわよ」
「…………」
ヴェリオルがイリスのまだ短い髪を手で梳き、抵抗するようにイリスが軽く首を振った。
「何故放置しますの?」
片眉を上げるメアリアの態度に奥歯を強く噛みしめ暫く黙っていたヴェリオル。
だが挑発的な態度に触発されたのか、息をヒュッと吸い、吐き捨てるように言う。
「証拠がない」
「疑わしきは処刑ですわ。向こうがガタガタ言うようなら軍を出して征服してしまえばよいではありませんか。ねぇ、フェルディーナ」
視線を向けられたフェルディーナが口角を上げた。
「……簡単に言うな」
苛ついた様子でヴェリオルはメアリアとフェルディーナを交互に睨む。
「またお姉様を怪我させるつもりですの? 頬の醜い傷痕を見て何も思いませんの?」
「もう怪我などさせない」
ヴェリオルが後ろからイリスを抱きしめ、その強い力に眉を寄せながら、イリスはケティを見上げて囁いた。
「何だかよく分からないけど、とてつもなく関わり合いになりたくない話をしているわね」
イリスはいつものように『そうでございますねぇ』というケティの返事を期待していた。
しかしケティは突然メアリアに近付き、その扇を取り上げて壁に向かって投げ付ける。
バンッと音がして、扇が床に落ちた。
「ケティ……!?」
「何を言っているのでございますか。イリス様を怪我させたのはあなたでしょう?」
「ケティ! やめなさい」
ケティらしからぬ低い声に危険を感じたイリスがヴェリオルを振り払い手を伸ばす。
その手が届く前に、フェルディーナがケティを後ろから引っ張った。
悔しそうに唇を噛み締めるケティの背中を「落ち着きなさい」とフェルディーナが叩く。
ホッと息を吐くイリス。
少しだけ驚いた様子のメアリアは、だがすぐに気持ちを建て直してケティを鼻で笑った。
「あら嫌だ、そんなふうに思っていましたの? 馬鹿な侍女。あなたが役立たずだからお姉様が大怪我されたのよ。――やったのは私じゃありませんわよ」
「ええ!?」
イリスが驚愕の表情でメアリアを見る。
「…………」
「…………」
「…………」
視線がイリスに集まった。
「お姉様……、犯人がこんなに堂々と目の前に出て来る訳がないでしょう?」
呆れ果てた様子のメアリアに、イリスは強く主張する。
「面の皮が厚いのだと――」
「違いますわよ!」
扇の無いメアリアが、素手でテーブルを叩いた。
「違う……」
「ええ。先を越されましたの」
「……え?」
唖然とするイリスをヴェリオルはもう一度背後から抱きしめ、メアリアを睨む。
「つまり、やる気だったのだな」
「邪魔な存在でしたから」
しれっと答えてメアリアはイリスに微笑んだ。
「でも食事の毒も図書室での出来事も、私ではありません」
「では誰が……?」
「まあ鈍いお姉様には分からないかもしれませんわね。私はすぐにあの女だと気付きましたけど。陛下にお訊きになればよろしいのではないかしら」
「…………」
イリスは俯き考える。
怪しい者は……側室の大半。
しかしメアリアは征服という言葉を使った。
だとすれば他国の姫。
シェイ、ソフィア、ルージー、アス、ナッティ、カヤ、ハイン……他に誰がいたか。
その中でも自分に強く当たるのは……大半。
疑いだしたらきりがないと溜息を吐く。
誰かは分からないが、とにかくもう関わり合いになりたくないことだけは確かだ。
「もういいから部屋に帰れ!」
ヴェリオルの怒声に、思考の海からハッと現実に戻される。
「分かりましたわよ!」
メアリアが立ち上がり、部屋から出て行った。
「お前達も下がれ」
フェルディーナが頭を下げる、が、ケティは俯き動かない。
「ケティ」
「ケティさん」
イリスとフェルディーナに促され、ケティは漸く深く頭を下げて退室する。
心配そうに見送るイリスをヴェリオルが抱き上げベッドに運んだ。
ドレスを脱がされ夜着を着せられる。
まだケティの去ったドアを見つめ続けるイリス。
そんなイリスに慣れた手付きで胸のリボンを結びながら、ヴェリオルは呟くように訊いた。
「気になるか? ――誰がお前をこんな目に遭わせたのか」
イリスの視線がヴェリオルに移る。
ヴェリオルはイリスの傷の残る頬を掌で包み、瞳を覗き込んだ。
「お前一人守ることも出来ず、未だ危険に晒し続ける俺を恨むか?」
「陛下……?」
伸ばした指先を強く握られた。
「もう少しだ。もう少しだけ待っていてほしい。俺は……お前を……」
唇が近付く――。
「事情はよく分かりませんし分かりたくもありません、が、私を巻き込まないでください。それより――」
イリスが少し先の床を指差す。
「あの扇を取ってもらえますか?」
「…………」
ヴェリオルが触れ合う程近くまで寄った唇を離し、溜息を吐きながらベッドから下りて言われた通り扇を持って来る。
「ありがとうございます」
礼を言われたヴェリオルは投げ遣りにイリスに訊いた。
「それはメアリアのだろう?」
「はい。でも置いて行ったということは、すなわち要らないということでございますよね? 儲かりました」
「…………」
ヴェリオルが肩を落とす。
「お前は本当に……、金の心配をする必要はないと先日言っただろう」
「違います。これはケティに『続・テラン戦記』を買ってあげる為の資金になるのです」
何が違うんだ……と呟きながらヴェリオルは左膝を立てて行儀悪く座り、首を傾げた。
「テラン戦記か……。あんなものを読んでいるのか? あの侍女は」
「あんなもの?」
ケティが好んで読んでいるテラン戦記の内容をイリスは知らない。
ヴェリオルが髪を掻き上げその内容を語る。
「大国に突如攻め入られあっという間に戦場となった国から、齢六十を越えたベテラン騎士が仲間の助けを借りて、同じく齢六十の姫を連れて敵と戦う。騎士と姫は元々愛しあっていたのたが、身分が違うからと泣く泣く別れた過去があった。そして最後は新天地に辿り着き、二人は漸く一つになる――という話だ」
「…………」
イリスは苦笑して侍女部屋のドアを見つめた。
「それは、少々年齢の高い恋愛物語ですね」
「まあそうだな。だが中々良い台詞もあるぞ」
ヴェリオルは突如ベッドから下り、片膝を付いてイリスの手を握った。
「たとえ何があろうとも、貴女を全力で守ることを私は誓う。敵味方の屍を越えて戦い抜き、新天地へと辿り着くまで、私の血は流れても貴女の涙はもう一滴も流させはしない」
ヴェリオルがイリスの手の甲に口付ける。
イリスが目を見開いた。
「イリス……、俺の気持ちはこの騎士とおな――」
「まあ! 以前ケティが言った言葉と同じだわ。ではあれはテラン戦記の台詞だったのですね」
「…………」
ヴェリオルの動きが止まる。
「ケティは余程テラン戦記が好きなのね。早くこんなところから出て、買ってあげましょう。陛下、いつまでも床に座ってないでそろそろ寝ませんか? 私もう眠くて……」
大きなあくびをして、イリスは横たわった。
「イリス……」
ヴェリオルがベッドに上がり、イリスの肩を掴む。
「二度も雰囲気をぶち壊すとは、わざとか?」
イリスは嫌そうに眉を顰めて目を擦った。
「何がでございますか? もう静かにしてくださいませ」
またもや大あくびをして、イリスは素晴らしいはやさでそのまま眠りの世界へ引き込まれていく。
「イリス!」
ヴェリオルの言葉はもうイリスの耳には届かない。
「寝つきが良すぎるだろう……」
深く溜息を吐いて、ヴェリオルは小さく鼾をかくイリスの頭を撫で――頬の傷を指で辿る。
痛々しい傷痕は、薄くはなっても消えることはない。
「…………」
掛け布を手に取りイリスの身体にふわりとかぶせ、ベッドから下りる。
静かに、ヴェリオルは部屋から出て行った。