第4話
「イリス様です。アードン家の」
女官長の言葉に、ヴェリオルは首を傾げた。
「アードン家? 侍女……、ではないな。まさか側室なのか?」
「そうでございます。陛下」
どうやらイリスは、存在自体をヴェリオルに忘れられていたようだ。
その上そこそこ重要な職務に就いているイリスの父親も、記憶の片隅にさえ置かれていないようだった。
「それで? 何をしている」
訊かれたイリスは、慌ててドレスの裾を摘んで膝を折った。
「荷造りをしておりました。規則違反をしてしまい、申し訳ございません」
「荷造り……?」
「はい。お世話になりました」
「…………」
ヴェリオルは女官長の方を見て、そしてまたイリスに視線を戻した。
「そなた……、何年ここに居る?」
イリスは首を傾げた。
家に帰されるのだから、決まっているではないか。
「二年間居りました」
「……二年?」
「はい」
「…………」
ヴェリオルは眉を寄せ、女官長を振り返った。
二年もの間、後宮にひっそりと住まう側室が居るなど聞いた事が無かったのだ。
「女官長、何故言わなかった?」
「どの側室をお相手に選ばれるかは陛下のご自由ですので、私が口出しして良い事ではありません」
「それにしても二年だろう。一言声を掛けるくらいは出来た筈だ」
「はい。申し訳ございません」
深く頭を下げる女官長に、ヴェリオルは溜息を吐く。
真面目だが融通がきかないのがこの女官長の欠点であった。
「まあ良い。そなた、あー……、名は何と言ったか」
「イリスでございます」
「そうか、イリス。事情は分かった。部屋に戻るがよい」
「はい。ありがとうございます」
ヴェリオルの口調からお咎め無しと判断し、イリスはホッとして頭を下げて逃げるようにその場を去った。
小走りで部屋まで戻り、ノックも無く勢いよくドアを開ける。
「イ、イリス様!? どうされたのですか?」
突然開いたドアから息を切らしたイリスが飛び込んで来た事に、ケティは驚いた。
「陛下に偶然お会いして……」
「え? あ……!」
ケティも規則の事を思い出し、口を手で覆った。
「申し訳ございません。私、すっかり忘れておりました」
「いいのよ。私も忘れていたのだから」
フウ……っと息を吐き、イリスは微笑んだ。
「偶然とはいえ最後に陛下にもご挨拶出来たのだし、もう思い残す事も無いわ。さあ、荷造りの続きをしましょうか」
「はい!」
そして二人はせっせと部屋の中にある物を、大きな家具以外全て箱に詰めたのだった。
この時イリスは、この偶然のヴェリオルとの出会いを後に激しく後悔するとは思ってもいなかった。