第31話
フェルディーナが厨房へ食器を片付に行き、残ったケティが横たわるイリスにむせないように気を付けながら慎重に痛み止めを飲ませた。
「……ありがとう」
礼を言い、イリスは朝から酷く痛む頭を左手で押さえる。
昨夜は――いや、今朝も酷い目にあった。
朝方目が覚めると、間近にあるヴェリオルの顔にまず驚いた。
そしてヴェリオルはいきなりこう言い放ったのだ。
『俺は蛙が好きだ。実に愛嬌があるし、身もなかなかの美味だ』
いったい何の告白なのか。
だから蛙が好きなら池に行けと怒鳴りたくなる気持ちを堪え、イリスは顔を背けたのだった。
ああ、嫌な事を思い出したと溜息を吐き、目を閉じる。
ヴェリオルがうるさくて昨夜はあまり眠れなかったので、今から少し眠ろうか。
ゆっくりと呼吸を繰り返していると、すぐに身体が沈み込むような感覚が訪れる。
眠る――。
そう思った時、不意に聞こえたケティの声。
「陛下はイリス様がお好きなのですね」
「…………」
目を開けると、ベッド脇に立ったケティが真剣な表情でじっとイリスの顔を見ていた。
「陛下はイリス様がお好きなのですね」
ケティはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「……何? 突然」
何故はっきりと言い切るのか。
「だって今朝陛下がおっしゃっていたではありませんか。『俺はイリスが好きだ』と」
「…………」
そんな事を言われた覚えはないが。
「陛下は『蛙が好きだ』とおっしゃったのよ」
「はい。ですからイリス様がお好きなのですね」
「…………」
まさか、もしかして……ケティは『蛙』と『イリス』を同意語として捉えているのか。
「私、陛下はただの変態だと思っておりましたが、イリス様のこの魅力が分かっていたとは。少しだけ見直しました」
「…………」
口に出していないだけで、ケティも自分を蛙顔だと思っていたのか。
投げつけられた言葉の爆弾はあまりにも衝撃的で、最早涙も出なかった。
イリスは深い溜息を吐いて口角を上げる。
「違うわケティ。陛下は私が好きなのではないの。陛下にとって私は愛玩動物……いえ、珍獣と言った方が良いかしら。珍しい生き物を飼って喜んでいるだけよ」
ケティが眉を寄せて首を傾げる。
「でもフェルディーナ様が、『陛下は恋に不器用な方だから表現方法が下手だ』っておっしゃってましたよ」
「……女官長は何か勘違いしているのね」
あれを『下手』の一言で片付けるとは都合が良い。
「そうなのでしょうか?」
「そうよ」
イリスとケティが見つめ合う。
「…………」
「…………」
イリスは額に指先を当てた。
「それに、万が一私の事が好きだとしても」
「しても?」
「迷惑よ!」
ケティが感心したように軽く目を見開く。
「まあイリス様、いつもより数段きっぱりはっきりでございますね」
「命は恋や愛やお金より大事よ。陛下と一緒にいたら危険が付き纏うわ。そんな陛下と共に歩む覚悟を私は持ち合わせてないの。ケティ、私はね、ただのお金持ちと結婚したいの」
「…………」
ケティがフゥっと息を吐き、顎に手を当てる。
「そうでございますねぇ」
イリスは小さく数度頷いた。
「そうよ。私達の目標は、家に帰りお金持ちと結婚する事でしょう?しっかりしてちょうだい。分かったわね」
ケティが背筋をピンと伸ばし、拳を胸に当てて騎士の敬礼をする。
「はい! イリス様、了解であります!」
「…………」
しっかりしてちょうだいとイリスはもう一度心の中で呟き、現実逃避するように目を閉じた。
見せられた数個の箱に、イリスは首を傾げる。
「これは……?」
フェルディーナが微笑んで、箱の一つを持ち上げた。
「陛下からの贈り物でございます」
「…………」
贈り物。贖罪のつもりなのか。
「開けてちょうだい」
フェルディーナとその後ろに居るケティが返事をしてリボンを解く。
そして箱から出てきた物に、イリスは眉を顰めた。
「夜着……。随分豪奢ね」
おそらく寝る為の物ではなく相手に見せる為、興奮させる為の物だろう。
この状態の自分に、もう夜の勤めをしろと言うのか。
「無理に決まっているわ。陛下は何を考えておられるのかしら」
しかし、売れば高値が付くだろう。
「丁寧に片付けておいてちょうだい」
一応有り難く戴いておく事に決め、イリスはケティとフェルディーナに指示をした。
そしてその夜――。
部屋に来たヴェリオルは、横たわるイリスの姿を見下ろして口角を上げた。
「良く似合っている」
「……何がでございますか?」
「『何が』って……」
ヴェリオルが眉を寄せる。
イリスは溜息を吐いた。
自分がどんな物を贈ったかさえ把握していないのか。
「着ていないのか? 普通贈られたらその夜に着るものだろう」
「あんな装飾も露出も多い夜着を着てなど眠れません」
「……何?」
ヴェリオルは視線を逸らして舌打ちした。
イリスに贈った夜着は『側室用に』と最近貴族に人気があるという城下の服屋に用意させた物で、イリスの予想通りヴェリオル自身はその夜着がどんなものなのか確認していなかった。
「そうか。では明日は別の物を贈ろう。何が欲しい。好きなものを言え」
「宝石と金の延べ棒を」
間髪入れずにイリスが返答する。
ヴェリオルが首を傾げながらベッドに入った。
「宝石……は良いとして金の延べ棒?」
「――を頂戴して家に帰して欲しいです」
「…………」
イリスとヴェリオルが見つめ合う。
「気のせいか? 以前にも同じような会話をした気がするのは」
「それと貴族ではなくて良いのでお金持ちの結婚相手を紹介して下さい」
「…………」
「結婚祝いに領地も下さい」
「…………」
ヴェリオルは手を伸ばし、顔を覗き込むようにしてイリスの頬を撫でた。
「怒っているのか?」
イリスが触られるのを嫌がるように首を振る。
「いいえ、別に」
その言い方が既に冷たくあきらかに不機嫌だ。
「宝石は用意しよう。その他は無理だ」
「欲しいものを言えとおっしゃったのに、国王陛下ともあろう御方が嘘をお吐きになるのですか」
「…………」
ヴェリオルは細く長く息を吐き、身体を横たえてイリスの左手を握った。
「もう少し待て。驚く程大きな宝石も金も広い領地もすべてお前にやろう」
イリスがチラリとヴェリオルを見る。
「結婚相手をお忘れです」
「それは必要ないだろう?」
ヴェリオルが目を眇める。
「…………」
後宮から出す気は無いのか。
宝石や領地を貰っても、こんな場所では宝の持ち腐れである。
「……帰りたい」
両親と兄に会いたい気持ちがわきあがる。
呟くイリスの唇にヴェリオルは口付けた。
「駄目だ。諦めろ」
あっさり言われた非情な言葉にイリスの心が沈む。
ヴェリオルが自分に飽きるまで待つしかないのが辛い。
他の側室はいったい何をしているの? 今が好機でしょう。もっと頑張ってもらわなければ困るのに。
八つ当たり気味にそんな事を考えながら、イリスは目の前で微笑む男を苛ついた視線で見つめた。