第26話
「はぁ……。暇でございますねぇ」
イリスの向かいに座っているケティが溜息を吐いた。
「そうね」
イリスは苦笑して頷き、お茶を一口飲む。
昨日刺繍が完成し、図書室から借りていた本も読み終えた。
イリスが部屋の外に出るのを躊躇うので庭園に散歩にも行けない。
つまり二人はやる事がなく暇なのだ。
「でももう夕食の時間よ。準備してちょうだい」
元気になってからもイリスにはあの豪華な食事が毎食供され、量も品数も多いのでケティも相伴に預かっていた。
「ああ、準備しなくてはいけませんねぇ。でもイリス様、やはり暇でございます。庭園が駄目ならせめて図書室に本を借りに行きませんか?」
ケティは部屋に籠もってばかりの毎日に嫌気がさしていた。
食事の準備等で部屋から出る事もあるが、そうではなくイリスと二人で外に出たいのだ。
「…………」
イリスは俯き、カップの中の紅色の液体を見ながら考える。
ケティの気持ちは分かるが、果たして出ても大丈夫だろうか。
ヴェリオルも女官長も、あれから何も言わない。
やはり考え過ぎなのか。
「イリス様ぁ」
図書室はイリスの部屋から比較的近い。
夕食の時間なので側室達も自室に戻っているだろうら、鉢合わせる事も無い。
何よりイリス自身が新しい本を借りたいと思っていた。
「……そうね。さっと借りて帰ってくればいいわね」
イリスは決断し、カップのお茶をそのままに立ち上がる。
「はい!」
ケティがパッと明るい顔になり、元気よく返事をして立ち上がり、先にドアに向かって歩き出した。
廊下に出ると予想通り人影は無く、二人は他の側室達の部屋の前を通り、目的地である図書室にすんなりと着いた。
本棚の間を、並んでいる本のタイトルを見ながら二人は進む。
「沢山あるのは良いのだけど、もうちょっと違う種類の本はないのかしら?」
イリスは眉を寄せ、近くの本の背表紙を指でなぞる。
図書室にある本は物語が中心で、誰の趣味なのか恋愛の話がそのほとんどを占めていた。
「イリス様は、どういう本をご所望ですか?」
「そうね、例えば……お金儲けの方法とか、人に騙されない方法とか、身の守り方とか、迷惑な男を角が立たないように追い払う方法が書かれた本だとかかしら」
「まあ、イリス様ったら」
ケティがクスッと笑う。
「陛下にお願いしてみてはいかがですか?」
「……嫌よ。陛下は『好きな物をやろう』と言ったくせに、実際には何もくれなかったのよ。お願いしてもきっと無駄だわ」
それは以前、『ドレスと宝石を頂戴して家に帰して欲しい』とヴェリオルに頼んだ時の事を言っていた。
「そんな事より、ケティも早く好きな本を探してらっしゃい。すぐに帰るのだから」
「はい」
ケティがイリスから離れ、背表紙を見ながら端へと歩いて行く。
イリスも数冊本を選び、そのまま別の棚に移動しようとしてふと気付いた。
影……?
イリスのものでもケティのものでもない人影が、一瞬だが床に伸びているのが見えた。
誰か居る――。
「ケティ!」
ゾクリと寒気が走り、咄嗟に名を呼ぶ。
「はい?」
壁ぎわまで行っていたケティが振り向いたのと同時に、ガタッという音が聞こえた。
走り出そうとしたイリスの目に映る、ケティの驚愕した顔。
「キャアァァァァー!!」
身体にのしかかる衝撃。
ケティの悲鳴。
感じる強い痛み。
棚が倒れてきたのだと分かったのは、数秒経ってからだった。
それでも隙間があり光が見えるという事は、完全に棚の下敷きになっている訳ではないのか。
「イリス様!」
声がくぐもって聞こえる。
「大丈夫……」
答えたつもりだが、ケティに聞こえたかは分からない。
「ひ、人を呼んできます」
バタバタと走り去る音が聞こえた。
「…………」
イリスは大きく呼吸を繰り返した。
息は出来る。
身体は……捻れたような格好で倒れていて、下半身は挟まれて動きそうにない。
右腕を動かそうとしたがこれは痛みで動かない。だが顔の近くにある左手は動いた。
頬に伝う汗を指先で拭う。
「――――っ!!」
痛い。
次々と流れる汗、いや、汗ではないのかもしれない。
気持ちを落ち着かせる為にもう一度深呼吸をすると、脇腹に痛みが走った。
やっぱり……、部屋の外に出るべきではなかったのね。
後悔しても遅い。
自分の判断の甘さ、認識の甘さに笑いが込み上げてくる。
「イリス様!」
いつの間に帰ってきていたのか、ケティの声がした。
「今、騎士様達が来てくれますから!」
直後に複数の足音が聞こえた。
「棚を持ち上げる! 侍女殿はあちらへ!」
きびきびとした女性の声が聞こえる。
掛け声と共にドカンと大きな音がして、次いで「本を退けろ」と指示が飛んだ。
「嫌ぁ! イリス様!!」
ケティがまた悲鳴を上げる。
「侍女殿を廊下に出せ! 医者を早く連れて来い!!」
緊迫した声から状況があまり良くない事が分かった。
離れていくケティの叫び。
本を投げる音。
そして、強い痛み――。
微かに眉を寄せてイリスは思う。
こんなに痛いのならば、気絶した方が楽なのに……と。
丈夫っていうのは、こういう時に不便なのね。
何故か呑気にそんな事を考えていると、目の前に騎士の顔が現れた。
「気をしっかり持って下さい!」
むしろ気絶したいのだけど……。
イリスは少しだけ口角を上げて微笑んだ。