第25話
朝、部屋のドアを開けたケティは、そこに何も無い事を確認してドアを閉めた。
「今日も生首がございませんよ、イリス様」
「そう」
「やはり騎士様が増えたからでございますかねぇ」
後宮の警備の見直しがあったらしく、これまで出入口に二人しか居なかった女性騎士の人数が増え、廊下や庭園などを巡回するようになった。
そのお陰なのか、ここ数日イリスの部屋の前に生首が置かれていない。
「もう生首が贈られる事は無いのでございますかねぇ。まだあの壁を越えていませんのに」
残念そうに溜息を吐き後宮を取り囲む壁を見つめるケティに、イリスは苦笑した。
その後朝食を食べ、イリスとケティは刺繍を始める。
「もう少しで完成でございますね、イリス様」
「そうね」
二人がかりで数ヶ月、そしてあと二・三日で完成する布を見つめ、イリスは口元を綻ばせた。
昼食を挟んで二人は刺繍を続け、そして夕方、ケティが虚ろな目をしてグッタリと身体を背もたれに預けた。
「……疲れました」
目頭を指で押さえ動かないケティに笑いながら、イリスは布を丁寧に畳んで壁ぎわにある棚の中に片付ける。
「今日はここ迄にしましょう」
「はい。すみませんイリス様」
ケティは深く息を吐き、それから両手を上げて伸びをした。
「身体がガチガチでございます。久し振りに、ちょっと庭園に散歩にでも行きませんか?」
しかしイリスは首を横に振りながら、棚からティーセットを取り出す。
「やめた方がいいわ」
「え? 何故でございますか?」
ケティが立ち上がり、ティーセットをイリスから受け取って、お茶の準備をしながら首を傾げた。
「危険だから」
「危険……?」
椅子に座ったイリスは、疲れた笑顔をケティに向けた。
「たぶん……ね。陛下が言っていたでしょう? 私は他の側室達にあまり良く思われていないって」
「はあ、そういえば何か言っていたような」
「ケティも部屋から出る時は気を付けてね」
「はぁ……」
曖昧な返事をするケティに微笑み、お茶を飲みながらイリスは窓の外を見つめる。
あのあからさまに怪しい女官長の『助言』を聞いた時に感じた違和感と不安。
ヴェリオルの言葉と強化された警備。
これから何かが起こる危険性がある、もしくは……すでに起こっている。
身に覚えは――。
いや、まさか。
考え過ぎだろう。
イリスは一瞬よぎった考えを心の底に封じ込める。
「選択肢が無いというのは辛いわね」
「何がでございますか?」
「なにも」
「…………?」
気にし過ぎているだけならいい。
確信がないのにケティに話すつもりは無く、もしこの先何かあるのだとしても、ケティを犠牲にするつもりも無い。
早く私に飽きてくれないかしら。
そもそもヴェリオルが、あれだけ愛らしい王妃候補がいるのに自分の所に来るのは何故なのか。
考えられる理由は……。
やはり変態ね。
イリスは何度も思った事を、また心の中で繰り返した。
翌日のも朝から二人で刺繍をした。
そして昼過ぎ、昼食の食器を片付けに行ったケティが、ケーキが六つ程入りそうな紙箱を持って帰ってきた。
「ケティ、それは何?」
「虫です。ドアの前に置いてありました」
「虫?」
ケティがお茶の入ったティーカップを脇に退けて、テーブルの上に箱を置く。
蓋を開けるとその紙箱の中には、細長い体から無数の脚が生えている小さな虫が数十匹蠢いていた。
「……随分可愛らしい嫌がらせね」
「そうでございますねぇ、生首から虫に逆戻りでございます」
イリスは息を吐き、虫を一匹摘み上げる。
やはり、考え過ぎだったのかしら?
虫を箱の中に戻し、顔を上げる。
「捨ててちょうだい」
「はい」
ケティは箱を持って窓際に行き――そこでピタリと動きを止めた。
「ケティ?」
その様子に、首を傾げながらイリスも立ち上がって窓際に行き、そして気付く。
「メアリアさん」
メアリア一行が庭園を散歩していた。
イリスの声が聞こえた訳ではないのだろうが、メアリアは振り向き、侍女達と一言二言言葉を交わしてこちらに向かって来た。
「あら、イリスさん。なんだかお痩せになったのではなくて?」
扇で口元を隠し、メアリアがクスクスと笑いながら言う。
「体調でも悪いのかしら?ブサイクに更に磨きが掛かったのではなくて。ねぇ?」
「はい。メアリア様」
「本当に、これ以上ブサイクになってどうするつもりなのでしょう」
「側室などやめて、見せ物小屋で働けばよろしいのに」
侍女達も同意し、手の甲で口元を押さえ、蔑んだ視線をイリスに向けてクスクスと笑う。
一行の相手をするつもりはイリスには無かった。
しかし、次の瞬間――。
「きゃあ!」
「何ですの!?」
「嫌!」
メアリアと側室達が悲鳴を上げて手足をバタバタと振り始める。
「え……、ケティ?」
イリスがぎこちなく横を向くと、そこには箱の中の虫をむんずと掴み、メアリア一行に投げつけるケティの姿があった。
「ケティ! 駄目よ、やめてちょうだい!」
慌ててイリスが腕を掴むと、ケティが不満げに唇を尖らせる。
「だってイリス様」
「駄目よ」
「でも女官長様が、『気に入らなければ、やっておしまい!』と言っていたではありませんか」
先日の女官長の言葉は、ケティの中で微妙な変化を遂げていた。
「面倒な争いを自ら起こしてはいけないわ。ごめんなさいメアリアさん。ではごきげんよう」
後半はメアリアに向かって言い、イリスが窓を閉めようとする。
「お待ちなさい!」
メアリアの怒鳴り声と共にヒュンッと勢いよく飛んできた扇が、イリスの身体に当たって床に落ちた。
メアリアは怒りで震える指でイリスを差し、激しく睨み付ける。
「こんな事して、タダで済むと思ったら大間違いよ。――覚えてらっしゃい!」
大股で去って行くメアリアとその後を慌てて追い掛ける侍女達。
「あ、メアリアさん!」
イリスは床から扇を拾い、メアリアに向かって振った。
「扇を――」
しかし振り向く事無く、メアリアは行ってしまう。
「…………」
イリスが深く溜息を吐き、ケティから箱を取り上げて虫を外に逃がして窓を閉める。
「イリス様……」
そんな態度からイリスが怒っていると思ったケティが、しょんぼりと肩を落とした。
「……いいえ、怒っている訳ではないわ。ただ、もうこんな事はやめてちょうだい」
「はい……。申し訳ございません」
指先で溢れてきた涙を拭うケティの頭を撫で、イリスは困ったように笑う。
「泣かないで。ほら、いいものも手に入ったのだし、ね」
顔を上げたケティに、イリスはメアリアの扇を見せた。
「これ……」
「声を掛けたのに置いて行ったという事は、要らないのでしょう。メアリアさんのおうちはお金持ちだから、こんな物沢山持っているのよ、きっと。戴いておきましょう」
イリスは扇を棚の中にそっと片付ける。
「これだけ宝石が付いていれば、高く売れるわ。帰ったらそのお金でケティにも好きな物を買ってあげましょう。何がいいかしら?」
「え……!」
途端にケティの涙が止まった。
「ええ……と、ええと……そうでございますねぇ」
目をクルクルとさせながら一生懸命考えるケティの姿を、イリスは微笑んで見ていた。