第15話
「あぁ……」
イリスは澄んだ青空を見上げ微笑んだ。
「綺麗ね」
「風が気持ち良いです」
イリスとケティは、ゆっくりと庭園を散歩する。
期待通りヴェリオルはイリスの元に来なくなった。
噂によるとヴェリオルは新しい側室に夢中で、頻繁に部屋に通っているらしい。
イリスやケティに対する嫌がらせも無くなった。
以前と同じ、刺繍をしたり本を読んだり、こうして庭園を散歩する穏やかな日々が戻ってきた。
「あれはきっと、悪い夢だったのね」
イリスはしゃがんで足下に咲いていた小さな花に人差し指で触れた。
「はい。悪夢です。忘れましょう」
黄色い花びらを揺らしながら、イリスは悪夢から目覚める事が出来た喜びを噛みしめた。
そうしてイリスが花と戯れていると、ケティが不意に「あっ」と声を上げた。
「どうしたの?」
「イリス様、あれ」
顔を上げたイリスにケティが少し離れた場所を指差す。
そこには侍女を従え歩く、メアリアの姿があった。
イリスは立ち上がり、口元を綻ばせる。
「まあ、なんて絵になるの」
花の中を歩く姿はまさに『花の妖精』そのものだと、イリスは感嘆の溜息を吐く。
「凄いです。侍女が五人も付いています」
「そうね。さすが王妃候補」
後宮に連れて来ても良い侍女の人数は五人までと決められているが、大抵の側室は三人程度の侍女しか連れて来ない。
最大の五人を連れて来ている側室は、他国の姫など僅か数人である。
ボーッと二人はメアリアを見ていたが、暫くすると一行の周囲に異変が生じている事に気付いた。
「イリス様、あれって……」
メアリアを囲むように寄って行く女達。
「あの光景、見覚えがあるわねぇ」
「そうですねぇ」
以前イリスも経験した『お茶会への招待』だろう。
案の定、一人が進み出てメアリアに話し掛ける。
「ごきげんよう、メアリアさん。私達これからお茶にしますの。ご一緒にいかがかしら?」
綺麗な笑みを浮かべて誘う側室。
しかしその内心が王妃候補であり寵妃であるメアリアへの嫉妬で溢れているいる事は、間違いないだろう。
どうするのだろうと興味本位で二人が見ていると、メアリアはその可憐な口元に扇を当て、取り囲む側室達を見回した。
そして、フウ……と溜息を吐き、ゆっくりと首を振る。
「側室とは名ばかりの者達が集まりお茶会ですの?余程暇を持て余してますのね。私は連日の陛下のお相手で疲れていますの。あなた方に構っている暇はなくってよ」
メアリアのあまりの言い様に、側室達が目を見開く。
「な、なんて事を――」
顔を真っ赤にして怒鳴る側室を無視し、メアリアは歩き出す。
「お待ちなさい!」
別の側室がメアリアの前に立ちはだかろうとするが、それをメアリアの侍女が制した。
「いずれ王妃となる方に対し、無礼極まりない言動。陛下に報告しなければなりませんね」
それだけの力がメアリアにはあると侍女は暗に言う。
側室達は悔しそうにメアリアを睨み付けたが王の名を出されてはそれ以上何も言うことは出来ず、唇を噛みしめて立ち去る姿を見送るしかなかった。
「凄いわねぇ、強いわ。なんて王妃に相応しい」
「そうですねぇ」
うんうんと頷きながらイリスとケティが感心していると、まるでその言葉が聞こえたように、メアリアがこちらを振り向いた。
メアリアは口角を上げ、イリスに向かって歩いて来る。
「イリス様、メアリア様がこっちに来ますよ」
「そうね。なにか用かしら」
首を傾げるイリスの前に、メアリア一行は立った。
そして最初に口を開いたのは、メアリアではなくその侍女だった。
「まあ、こちらが旦那様がおっしゃられていた『ブサイクな側室』ですの?」
「本当にブサイクですね」
「陛下が気まぐれで手を出されたという、あの側室ですか」
「それなのに、いい気になっていたという身の程知らずの」
「あの側室」
「…………」
「…………」
イリスとケティは呆気に取られた。
ロント家の当主は、いったいどんな話をしていたのか。
「まあ、『気まぐれ』ってところは合っているわね」
ヴェリオルの気まぐれに付き合っていた頃を思い出し、イリスはうんざりとした溜息を吐いた。
「あら、馬鹿かと思ったら、意外に分かっているのね」
小馬鹿にしたように眉を上げるメアリアに、イリスが曖昧に笑う。
メアリアは鼻を鳴らし、「行くわよ」と侍女を促して去って行った。
メアリア一行が建物の中に消えると、ケティが肩を落としてイリスを振り向いた。
「……イリス様ぁ。『馬鹿』って言われましたよ」
眉を顰めて少々不満げに唇を尖らせるケティに、イリスは穏やかに笑う。
「帰れる喜びに比べたら、馬鹿にされるくらいどうってことないわ」
「まあ、それはそうですが」
「私達も部屋に帰りましょう」
歩き出すイリスの後を、ケティが慌てて追い掛ける。
「イリス様は馬鹿じゃないですよ」
「ありがとう、ケティ」
拳を握り真摯な瞳で言うケティに、イリスはクスクスと笑う。
「本当ですよ」
「ええ、分かっているわ」
「本当に、本当に、分かっていますか?」
「分かっているわよ」
戯れ合うような会話をしながら二人は歩く。
しかし、広い建物の角を曲がって部屋が見える場所まで戻った時、二人の足がピタリと止まった。
何故ならイリスの部屋の前で足踏みをする女官長の姿を認めたからだ。
「イリス様、あれ、何しているのでしょうね」
「寒いのではなくて?」
「ああ。女官長様は冷え性ですか」
二人は再び歩き出し、部屋の前まで行く。
イリスに気付いた女官長が振り向き軽く頭を下げた。
「女官長、なにか用かしら?」
「とっても暖かい毛糸のパンツがありますが、差し上げましょうか?」
「冷えは女の大敵ですわよね」
女官長がポカンと口を開ける。
イリスとケティは顔を見合せた。
「違ったみたいね」
「そうでございますねぇ」
女官長はハッと気付き、咳払いをして顔を引き締めた。
「イリス様、少々お聞きしたい事があるのですが」
「はい? なんでしょうか」
女官長はもう一度咳払いをし、イリスの目を見つめる。
「最近、不満に思う事はございませんか?」
「……はい?」
イリスが首を傾げる。
「不満です」
「ありませんが。むしろ満足です」
「…………」
女官長は眉を寄せて一瞬視線を逸らしたが、気を取り直すようにお腹の前で組んでいる手に力を込めてイリスに言った。
「今から定期報告の為陛下の元に伺うのですが、なにか伝える事があれば、遠慮無く、遠慮無く、おっしゃって下さい」
何故『遠慮無く』を二回も言うのだろうと思いながら、イリスはケティを振り向く。
「なにかあるかしら?」
「ええと……、『メアリア様とお幸せに』……とかですか?」
「ああ、そうね」
イリスは頷いて、女官長に向き直った。
「メアリア様とお幸せに。お世継の誕生を心から願っております」
ヴェリオルとメアリアの子なら、間違いなく天使のように愛らしいだろう。
にこやかな表情でイリスが告げる。
「…………」
女官長の頬が引きつった。
「女官長?」
女官長はこめかみを指で押さえ、目を閉じる。
「いえ、分かりました。仕方ありません。そのまま伝えましょう」
女官長は背筋を伸ばし、綺麗なお辞儀をしてイリスに背を向けた。
「……なんだったのかしら」
「さあ……?働きすぎでちょっとお疲れなのかもしれないですね」
「そういえば、女官長っていつ寝ているのかしら」
「昼間でも夜中でも、いつも働いていますよね」
イリスは憐れみを込めた視線を女官長の背中に向ける。
「今度、お茶にでも誘ってみましょう」
「では私はマッサージして差し上げます」
イリスとケティは過労の女官長を癒す方法を相談しながら、部屋の中に入った。