『君を離すつもりはない』――えっ、私は無能な身代わりのはずでは!? 伝説の調律スキルがバレて、冷血公爵に囲い込まれています
扉が閉まった音が、夜の静けさに溶けていった。
――ここが、私の部屋。
ルハルト公爵邸の客間は、あまりにも広く、あまりにも整いすぎていた。
天蓋付きの寝台、磨き抜かれた床、大きな窓。どれもが一流で、完璧で――そして、どこか冷たい。
まるで、美しい檻だ。
ベッドの縁に腰を下ろすと、純白のドレスの裾がさらりと音を立てた。
今日、私は結婚した。
妹の代わりに。
「……」
窓の外には、月に照らされた庭園が広がっている。噴水の水音だけが、かすかに響いていた。
つい数か月前まで。
ここに立つはずだったのは、私じゃなかった。
――リアだった。
妹のリア・アルヴェリア。
天才魔導士で、社交界の花で、誰からも愛される存在。
そんな彼女に、ある日、王宮から正式な打診が届いた。
『王太子殿下が、リア嬢との婚約を望んでおられる』
家中が、歓声に包まれた。
当然だ。
王太子妃候補になるなんて、侯爵家にとって最高の栄誉なのだから。
問題は、その“あと”だった。
本来、リアは――
ルハルト公爵家の嫡男、ディルク・ルハルトと婚約する予定だった。
彼は、若くして軍を率いる英雄であり、王国最強の魔力を持つ男。
そして何より、「才能」を何よりも重んじる人物だと噂されていた。
彼が望んでいたのは、ただひとつ。
――リアの、類まれなる才能。
だから。
リアが王太子に選ばれた瞬間、
公爵家との婚約話は、宙に浮いた。
父と母は、慌てた。
「どうするの……? このままじゃ、ルハルト公爵家との縁が切れるわ」
「せっかくの好条件なのに……」
そのとき、父が、私を見た。
まるで、古くなった道具を思い出したみたいに。
「ああ……無能だけど、姉のエリがいるじゃないか」
それで、決まった。
妹の代役として。
価値のない姉が、価値ある婚約を繋ぎ止めるために。
私は、反対しなかった。
反対できなかった。
だって私は――
ずっと、“そういう役目”だったから。
誰かの代わり。
誰かの穴埋め。
誰かのついで。
結婚式の日。
ディルク・ルハルトは、私をほとんど見なかった。
誓いの言葉も、淡々と。
視線は冷たく、感情の色はなかった。
――きっと、がっかりしたのだ。
才能あふれる妹ではなく、
無能な姉が来てしまったことに。
「……」
私は、そっと鏡を見る。
そこに映るのは、華やかなドレスに包まれた、平凡な少女。
自信のない目。緊張でこわばった頬。
どう見ても、“公爵夫人”の器じゃない。
「ここに、私は必要ない……」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰にも届かず、床に落ちた。
侍女は丁寧だった。
使用人たちも礼儀正しい。
でも、それは「公爵夫人だから」ではない。
“役割”としての私に向けられたものだ。
ディルク様本人からは、
必要最低限の言葉しかもらっていない。
『疲れているだろう。休め』
それだけ。
優しいのか、冷たいのかすら、わからない。
――いいえ。
わかっている。
興味がないのだ。
私は、彼の望んだ存在ではないから。
胸の奥が、きゅっと痛む。
私は、昔からこうだった。
妹のリアは、光。
私は、その影。
何をしても比べられ、何をしても及ばない。
――一番辛かったのは。
いつしか、自分自身まで「私は無能だ」と信じてしまったこと。
そんな私にも、昔は好きなものがあった。
歌。
誰もいない場所で、小さく歌うのが好きだった。
でも――
『歌なんて、無能の逃げよ』
母のその言葉で、私は口を閉ざした。
夢も、音も、全部しまい込んで。
今さら、何を期待するつもりもない。
私は立ち上がり、窓辺へ行く。
月明かりに照らされた庭園は、美しくて、遠い。
……眠れそうにない。
だから私は、誰にも聞こえないように、そっと鼻歌をこぼした。
小さな子守歌。
震える声。頼りない旋律。
それでも、不思議と胸が落ち着く。
冷えていた心が、少しだけ温まる。
「……変なの」
こんなこと、誰にも言えない。
でも、今だけは。
ここには、私を否定する声はいない。
私はベッドに戻り、そっと目を閉じた。
どうか明日も、生きていけますように。
どうか、この場所で、壊れずにいられますように。
ーー
朝になっても、ルハルト公爵邸の空気は冷たいままだった。
豪奢な廊下を歩く足音が、硬い壁に反響して、ひとりでいることを何度も思い知らされる。窓から差し込む光は眩しいのに、屋敷の影は深い。
私は侍女に案内され、朝食の用意がされた小さな食堂へ向かった。
――小さな、といっても、侯爵家の食堂よりずっと広い。
けれど、食卓に並ぶ料理の香りが豊かなほど、胸の奥は空っぽだった。
昨日、私は公爵夫人になった。なのに、今朝も「ひとり分」だけが用意されている。
「公爵様は……?」
思わず尋ねてしまい、すぐに後悔した。
図々しい。私は歓迎されていないのだから。
けれど侍女は表情を変えず、礼儀正しく答えた。
「公爵様は早朝より執務に入られております。お食事は後ほど……」
そこで一瞬、言葉が詰まった。
その“間”が、気になった。
「……何か、ございましたか」
私がそう聞くと、侍女は少しだけ視線を落とす。
まるで、言ってはいけないことを飲み込むみたいに。
「いえ……失礼いたしました。どうぞお召し上がりくださいませ」
そのまま彼女は下がってしまった。
私はスープの匙を握ったまま、しばらく動けなかった。
屋敷全体が、なにかに怯えているように感じたからだ。
昨日は婚礼で忙しく、気づかなかった。
でも今朝は――違う。
廊下を行き交う使用人たちの足取りが早い。
顔色が悪い人が多い。
そして、視線が合うと誰もが一瞬だけ固まって、急いで頭を下げて通り過ぎていく。
私が“公爵夫人”だから、ではない。
私の背後に、何かがあるのだ。
胸の奥が、ひやりと冷える。
――この屋敷には、私の知らない“常識”がある。
朝食を半分ほどしか口にできないまま、私は食堂を出た。
このまま自室に戻ってもいい。戻るべきなのかもしれない。
けれど、どうしても気になってしまった。
昨夜、ディルク・ルハルトは私を見なかった。
彼が望んでいたのは妹リアの才能で、私はただの代役。
それはわかっている。
それでも――。
この屋敷に漂う不穏が、私を放っておいてくれなかった。
ふと、廊下の曲がり角で、使用人たちの小さな囁きが耳に入った。
「……また、始まったらしい」
「今度は長い。昨日も結界を張り直したのに」
「公爵様の発作……」
言葉が、背中に冷たい水を浴びせたみたいに刺さる。
発作?
公爵様が?
思わず足を止めた私に、使用人たちは気づき、はっとした顔で頭を下げた。
「も、申し訳ございません、公爵夫人様。私ども、口がすぎました」
「いえ……」
慌てて首を振った。
責めたいわけじゃない。知りたいだけだ。
「……公爵様は、お体がお悪いのですか」
私がそう尋ねると、年配の執事が、少しだけ眉を動かした。
彼はしばらく迷い、やがて低い声で言う。
「公爵夫人様。お言葉ですが……この屋敷では、“知りすぎない”ことも、慈悲でございます」
慈悲。
その言葉の意味がわからないまま、背筋がぞくりとした。
私はそれ以上問い詰められず、ただ小さく頷く。
執事は深く礼をし、使用人たちを促して去っていった。
ひとりになった廊下に、静けさが戻る。
けれど、私の胸の中には、さっきの言葉が残り続けた。
発作。結界。張り直し。
――魔力が関係している?
王国最強と名高いディルク・ルハルト。
強すぎる魔力は、時に持ち主を蝕む。そんな話を、本で読んだことがある。
私は息を整えた。
行ってはいけない場所へ行こうとしている。
それはわかる。
私は代役で、存在価値のない嫁で、歓迎されていない。
――だからこそ。
ここで何もせずに、また“邪魔にならないように”引き下がるのは。
いつもの私だ。
胸の奥で、昨夜の子守歌が、小さく鳴った気がした。
私は、何ができるだろう。
無能な私に。
でも。
できることが“何もない”と決めつけるのも、
また、いつもの私だ。
気づけば私は、執務棟へ向かう通路に足を踏み入れていた。
空気が変わる。ひんやりと重い。
壁には薄い魔法陣が刻まれ、淡く光っている。
――結界。
さっきの言葉が本当だった。
扉の前には警備の騎士が立っていて、私を見るなり目を見開いた。
「公爵夫人様? こちらは……」
「すみません。少しだけ……公爵様のご様子を」
言いながら、自分の声が震えているのがわかった。
怖い。拒絶されるのが怖い。
それでも、止まれなかった。
騎士は困ったように視線を泳がせる。
「今は……危険です。公爵様は――」
その瞬間。
扉の向こうから、鈍い音がした。
何かが倒れたような、重い音。
続いて、空気が震える気配。
息が詰まった。
騎士の顔色が一気に変わる。
「……っ、また!」
扉の隙間から、青白い光が漏れた。
魔力の光だ。しかも――濃い。
屋敷の中が、目に見えない圧で押しつぶされそうになる。
私は思わず壁に手をついた。
……苦しい。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がひりひりする。
これが、公爵様の魔力?
こんなものを、ひとりで抱えているの?
「公爵夫人様、下がってください!」
騎士の声に反射的に頷きかけて――
そのとき、私は扉の向こうの“声”を聞いた。
掠れた、低い声。
「……っ……」
叫びではない。
誰かに助けを求める声でもない。
ただ、痛みに耐える声だ。
私は息を吸って、扉に手を伸ばした。
「……開けてください」
「っ、しかし!」
「私は……妻です」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。
“妻”なんて、口にする資格があるはずがないのに。
騎士が迷っているうちに、扉が内側から少しだけ開いた。
隙間から、焦った顔の侍従が顔を覗かせる。
「誰だ……っ、公爵夫人様!?」
「今、中で何が――」
答えより先に、私は見てしまった。
執務室の中央。
机に手をつきながら、膝をついている男。
銀色の髪が乱れ、額には汗が浮かんでいた。
背筋はまっすぐなままなのに、肩がわずかに震えている。
――ディルク・ルハルト。
あんなに完璧で冷たく見えた人が、
こんなふうに“崩れかけて”いるなんて。
その顔は無表情に近い。
けれど、目元の筋肉がわずかに歪み、唇が固く噛みしめられている。
耐えている。
誰にも見せず、ひとりで。
胸の奥が、痛んだ。
理由はわからない。ただ、痛かった。
私は一歩、足を踏み出した。
「……公爵様」
彼の視線が、ゆっくりこちらへ向く。
冷たい瞳。
けれど今は、昨日のような“無関心”ではなかった。
そこにあったのは――驚きと、苛立ちと、そして。
ほんのわずかな、拒絶。
『君は来るな』
声にしなくても、そう言われている気がした。
当然だ。
私は望まれた花嫁じゃない。
妹の代わりに来た、無能な姉。
彼が欲しかったのはリアの才能で、私は何の役にも立たない。
それでも――。
ここで引き返したら、私は一生、このままだ。
誰かの望みを叶えるために存在して、
誰かの痛みに気づいても、見ないふりをして。
そんな人生は、もう嫌だ。
私は小さく拳を握った。
「……私に、できることはありませんか」
言った瞬間、室内の空気が一段重くなる。
侍従が慌てて首を振った。
「公爵夫人様、これは――危険です。魔力暴走は……」
「わかっています」
本当はわかっていない。
でも、怖いからといって、何もせずに逃げたくなかった。
ディルク・ルハルトは、しばらく私を見つめ――
やがて、低く短く言った。
「……下がれ」
冷たい声だった。
昨日と同じ、突き放す声。
それでも私は、ほんの少しだけ安心してしまった。
――声が出る。意識はある。
まだ、終わりじゃない。
私の胸の奥で、昨夜の子守歌がまた小さく鳴った。
気のせいじゃない。なぜか、その旋律を思い出すと、呼吸が深くなる。
私は一歩だけ、さらに近づいた。
そして、心の中で言った。
私にできることが、何か――あるかもしれない。
何かできることがあるなら、力になりたい。
侍従が、私の腕を取ろうとした。
「公爵夫人様、どうか――」
「大丈夫です」
口ではそう言いながら、膝が震えた。
怖い。息が詰まる。胸が痛い。
でも、ここで引き返したら、私はまた“何もしない人”になる。
ディルクは膝をついたまま、机の縁に指を食い込ませていた。
白い指先が、痛々しいほど硬く張りつめている。
彼の瞳が、私に向いた。
昨日は、興味がないという目だった。
今の目は違う。
「なぜ、ここにいる」
問いは短い。
けれどその奥に、苛立ちと焦りが混じっているのがわかった。
――私がいると、邪魔なのだ。
自分でもわかる。私は無能だ。
彼が欲しかったのは妹リアの才能で、私は代役。
それでも私は、口を開いた。
「……公爵様が苦しんでいるからです」
言った瞬間、侍従が息を呑んだ。
騎士が一歩前に出かけ、しかし結界の揺らぎに押し返される。
ディルクの眉が、わずかに動く。
「愚かだ。……死にたいのか」
吐き捨てるような言葉。
けれど、私はそれを責められない。
――彼は今、まともじゃない。
魔力というものは、本人の意思とは無関係に暴れることがある。
まして、彼ほどの魔力なら。
そのとき、執務室の奥――棚のあたりで、バチン、と火花が散った。
「っ!」
空気が跳ねる。
私の視界が白く弾け、鼓膜が痛んだ。
結界が悲鳴を上げた。
「結界が……!」
侍従が叫ぶ。
騎士が慌てて魔法陣に手をかざし、補強を試みるが、光は増すばかりで制御できない。
そして、ディルクが――わずかに身体を折った。
呼吸が乱れる。
喉の奥から、抑え込むような低い音が漏れた。
それを見た瞬間、私の体が勝手に動いた。
「公爵様……!」
駆け寄ろうとして、足が止まる。
床が震えている。魔力が波のようにうねり、近づけば近づくほど体の芯が痺れる。
――近づいたら危険。
わかっているのに、止まれなかった。
そのとき、廊下の向こうから鋭い声が響いた。
「全員、下がれ!」
人混みが割れる。
現れたのは、白衣に近い上等なローブを羽織った男だった。年齢は三十代前半。黒髪を無造作に束ね、眼鏡の奥の瞳は冷静に光っている。
王宮魔導師長――キース。
その名を、私は父の会話で聞いたことがあった。
“変人だが天才”。“魔力理論の化け物”。そして、公爵家とも深い縁がある、と。
キースは私を見るなり、僅かに目を細めた。
「……君が、新しい奥方か」
「エリ・アルヴェリアです」
「そうか。……悪いが、ここは危険だ。出ろ」
命令口調だった。
けれど、さっきの侍従たちとは違う。“守るための命令”だと感じた。
私は唇を噛む。
「でも、公爵様が……」
「君がいても、どうにもならない」
はっきり言われ、胸が痛んだ。
やっぱり私は、役に立たない。
その瞬間――ディルクの足元から、青白い光が爆ぜた。
床の魔法陣が割れ、結界が一部崩れる。
押し寄せた魔力が風のように吹き荒れ、紙が舞い、窓が鳴った。
「くっ……!」
キースが即座に杖を構え、重ねるように魔法陣を展開する。
空中に浮かぶ幾何学模様が次々と重なり合い、結界が再構築されていく。
だが、それでも――押さえきれない。
ディルクの身体が、さらに深く折れる。
片膝をつき、もう片方の手で胸元を押さえた。
汗が首筋を伝う。
唇は白く、呼吸が浅い。
――このままだと、本当に。
キースが舌打ちした。
「……時間がないな」
侍従が震える声で尋ねる。
「魔導師長、どうにかなりませんか……! 公爵様は……!」
キースは一瞬だけ目を閉じ、冷たく言った。
「治療はしている。抑制もしている。だが、根本が破綻している」
侍従の顔が青ざめる。
「そんな……」
キースは淡々と続けた。
「――今夜が山だ」
その言葉で、室内の空気が凍った。
私は目の前が暗くなるのを感じた。
山。つまり、越えられなければ――。
ディルクは、顔を上げなかった。
まるで、そんな宣告に慣れているみたいに。
その姿が、どうしようもなく痛かった。
――彼はいつも、ひとりで耐えてきたのだ。
王国最強と称される男が、
誰にも頼れず、誰にも触れられず、ひとりで。
私は気づけば前に出ていた。
「……公爵様」
キースが私を鋭く睨む。
「だから出ろと言っただろう」
「……お願いです。少しだけ、話をさせてください」
自分でも無謀だと思った。
でも、胸の奥の何かが、こう言っていた。
――今、行かなければ。もう二度と、彼に近づけない。
キースは一瞬迷い、そして低く言った。
「……一分だ。近づきすぎるな。呼吸が乱れたら、すぐ戻れ」
私は頷き、ゆっくりとディルクのそばへ行く。
床が冷たく、魔力の圧が肌を刺す。
でも、昨夜の子守歌の旋律が頭の中で鳴ると、呼吸が深くなった。
私はディルクの視界に入る位置で膝をついた。
「……公爵様」
彼の瞳が、こちらを向く。
冷たい銀色。けれど今は、焦点が揺れていた。
「……なぜ、来た」
声が掠れている。
怒っているのに、力がない。
私は喉を鳴らし、小さく答えた。
「私は……代役です。公爵様が望んだ花嫁ではありません。だから……私がここにいても、邪魔だと思います」
言いながら、胸が痛かった。
言葉にすると、現実が刃になる。
ディルクの眉が、かすかに動く。
「……わかっているなら、去れ」
「でも」
私は息を吸った。
「公爵様が……苦しいのに。私だけ安全な場所に戻るのは、嫌です」
沈黙。
ディルクは一度、目を閉じた。
次に目を開いたとき、その瞳は苛立ちと――諦めで濁っていた。
「……愚かだ」
言い捨てるような声。
それでも、私は逃げなかった。
すると、彼の肩が、ほんの少しだけ震えた。
まるで、堪えきれない何かが溢れそうになっているみたいに。
次の瞬間、ディルクが――低い声で、吐き出すように言った。
「……君まで、離れるな」
私は息を呑んだ。
それは命令でも威圧でもなく、
弱音だった。
王国最強の男が、初めて見せる――“助けて”に似た声。
胸が熱くなる。
私は、思わず頷いていた。
「……はい」
ただそれだけの返事なのに、
ディルクの呼吸が、わずかに整ったように見えた。
背後でキースが小さく息を吸う気配がした。
けれど彼は何も言わない。
私はディルクのそばに留まり、震える指先を膝の上で握りしめる。
私にできることは、まだわからない。
でも――離れない。
そう決めた。
そのとき、ディルクの魔力が再び波打った。
結界が、また揺らぎ始める。
――本当の山は、これからだ。
私は唇を噛み、胸の奥に眠る旋律を、必死に手繰り寄せた。
歌えば、落ち着く。
あの夜、私が私を癒したように。
もし――もし、それが誰かにも届くのなら。
私は、もう一度息を吸った。
そして、震える声で、言葉にならない音を――喉の奥で準備した。
結界が強い魔力で、揺れている。
淡く光る魔法陣の線が、ひび割れた硝子みたいに震え、空気が軋む音がした。
魔力の圧が室内を満たし、息を吸うたび胸の奥が痛い。まるで、見えない手で心臓を掴まれているみたいだった。
――これが、王国最強の魔力。
私は膝をついたまま、ディルク・ルハルトを見上げる。
彼は机の脚に手をつき、身体を折っていた。銀色の髪が頬に貼りつき、汗が首筋を伝っている。無表情なはずの顔が、痛みでわずかに歪む。
それでも彼は、声を上げない。
耐えているんだ。
ひとりで。
背後でキースが次々と術式を重ねている気配がする。
青白い光の板が、空中に幾重にも展開され、ディルクの魔力を押し返そうとしていた。
「抑えろ……! 結界を再構築する!」
キースの声が鋭い。騎士と侍従が必死に応じる。
だが、魔力は海のうねりみたいに押し寄せ、結界を軋ませる。
――無理だ。
誰の顔にも、それが浮かんでいる。
そして、あの言葉が私の胸を締めつけた。
『今夜が山だ』
山を越えられなかったら。
この人は――。
私は息が詰まり、唇を噛んだ。
……私にできることなんて、何もない。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
それは昔から、何度も何度も私を黙らせてきた言葉だ。
無能。
足手まとい。
妹の代わり。
役に立たない姉。
――歌なんて、無能の逃げよ。
母の声が、針のように耳に刺さる。
逃げるな。
今、ここで逃げたら、私は一生、あの家の中の私のままだ。
ディルクが掠れた息を吐き、肩が震えた。
「……っ……」
音にならない呻き。
それだけで胸が焼けるように痛くなる。
私は、震える手を膝の上で握りしめた。
爪が皮膚に食い込む。
――離れるな。
さっき、彼は確かにそう言った。
私なんかに、望んだはずがない言葉を。
だったら。
だったら、私は――ここにいる。
助けになれなくても。
役に立たなくても。
ただ、そばにいる。
そのために、私は息を吸った。
胸の奥で、小さな旋律が鳴る。
昨夜、独りで歌った子守歌。あれを思い出すだけで、呼吸が少しだけ深くなる。
不思議だ。
この部屋の重い空気が、ほんの少しだけ柔らぐ気がする。
私は、気づかれないくらい小さな声で、音を零した。
最初は、ただの鼻歌だった。
震えて、頼りなくて、すぐに途切れそうな音。
それでも、次の音が自然に続く。心が勝手に旋律を手繰り寄せる。
それは――昔、私は好きだった歌。
誰にも聞かせられなかった歌。
自分を落ち着かせるためだけに、口の中で閉じ込めていた歌。
私は歌った。
誰かのためじゃない。
自分が壊れないために。
けれど。
歌が室内に広がった瞬間、空気が変わった。
重かった圧が、わずかに“ほどけた”。
ひと息吸うだけで胸が痛んでいたのに、今は、吸える。
背後で誰かが、息を呑む音がした。
「……?」
私は歌い続ける。
怖い。止めたらまた潰されそうで、止められない。
すると――ディルクの肩の震えが、ほんの少しだけ弱まった。
まさか。
まさか、私の歌が。
そんなはずはない、と否定しようとした瞬間。
結界の魔法陣が、ふっと光の色を変えた。
青白い光が、淡い金へ――温かな色へと移り変わっていく。
まるで音に引き寄せられるみたいに。
空中に展開された術式が、揺れを止めた。
軋みが消え、線が滑らかになる。
キースの声が、かすかに震えた。
「……いや、そんな……」
私は歌う。
涙が滲む。声が揺れる。でも、やめない。
歌の中で、私は初めて“自分の居場所”を見つけた気がした。
――私の音が、ここにあっていい。
その瞬間。
ディルクの魔力が、荒波から、静かな湖へ変わった。
青白い光が収束し、まるで深呼吸するみたいに引いていく。
窓が鳴る音が止まる。紙片が落ちる。空気が落ち着く。
私は歌いながら、震える手を伸ばした。
彼の手には触れられない。怖い。
でも、近くにいたい。
机の脚にしがみつくようにしていた彼の指が、少しだけ緩んだ。
そして、ディルクが――ゆっくりと顔を上げた。
銀色の瞳が、私を捉える。
……見ている。
初めて、真正面から。
その目は、驚きと、理解できないものを見る混乱に満ちていて、でも――
確かに“生きて”いた。
私は声を落とし、歌を最後の一節へと導く。
子をあやすように。
泣きたい自分を抱きしめるように。
そして、歌が終わった。
部屋に残ったのは、静寂――ではなく、柔らかな余韻だった。
暖炉の火が、さっきより穏やかに揺れている。
空気が温かい。
ディルクの呼吸は、整っていた。
彼はゆっくりと息を吐き、目を閉じる。
苦悶の色は薄れ、疲れ切った顔が、ただの“人”の顔になっていた。
「公爵様……!」
侍従が駆け寄ろうとするのを、キースが手で制した。
その目が、異様な熱を帯びている。
彼は、私を見た。
まるで、世界の法則が塗り替えられた瞬間に立ち会った学者みたいに。
「……君」
キースの声が、低く震えた。
「今、何をした?」
私は、唇を震わせた。
「え……? わ、私は……ただ……歌を……」
言いながら、急に怖くなった。
また否定される。無能の逃げだと笑われる。止めろと言われる。
身体が小さく縮こまる。
けれど、キースは否定しなかった。
むしろ、呆然としたまま、呟いた。
「……ありえない。測定不能の調律……音に魔力を乗せて……」
そして、確信したように、はっきり言った。
「――調律者だ」
その言葉が落ちた瞬間、侍従も騎士も息を止めた。
「……は?」
私だけが、意味がわからなかった。
調律者?
そんな能力、聞いたことがない。
私は、無能なのに。
キースはなおも私を見つめ、まるで宝石を発見したみたいに瞳を細めた。
「君は、自分が何者か知らないんだな」
私は首を振ることしかできない。
指先が冷える。心臓が速く打つ。
そのとき。
ディルクが、わずかに身じろぎした。
長い睫毛が震え、銀色の瞳が開く。
彼はまだ弱々しいのに、視線だけは鋭かった。
そして、私を見て――一言、掠れた声で言った。
「……君のおかげで」
息を吐くみたいな声だった。
「……楽になった」
胸が、熱くなった。
私は何も答えられず、ただ目を見開いたまま、彼の言葉を受け止める。
ディルクはもう一度目を閉じる。
その表情は、苦痛から解放された人のものだった。
私はその場で、震える息を吐いた。
……助かった?
私の歌で?
信じられない。
でも、確かに――私の音が、この人の痛みをほどいた。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
それは、喜びではなく――恐怖でもなく。
初めての、“可能性”の音だった。
ディルクは、しばらく私を見つめていた。
まるで、何か大切なものを確かめるみたいに。
銀色の瞳は、もう冷たくない。そこにあるのは、戸惑いと――はっきりした想いだった。
「……エリ」
初めて、名前を呼ばれた。
それだけで、胸が跳ねる。
「俺は……これまで、誰かに頼ることを知らなかった」
低く、静かな声。
「強ければいい。耐えられればいい。それだけで生きてきた」
彼は一度、視線を落とす。
それから、ゆっくり私に戻した。
「……君に会うまでは」
私は息を呑んだ。
ディルクは、そっと布の上に置かれていた私の手に、指先を伸ばす。
触れるか触れないかの距離で、一瞬、迷うように止まり――。
そして、静かに重ねた。
温かい。
想像していたより、ずっと。
「昨夜……君の声を聞いている間、初めて……怖くなかった」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「痛みも、孤独も……全部、遠くなった。君が、そこにいるだけで」
私は何も言えず、ただ彼を見る。
こんな言葉、向けられる価値なんてないと思っていたのに。
「だから」
ディルクは、少しだけ声を低くした。
「もう二度と、君を手放さない」
――ずるい。
そんなふうに言われたら、逃げ場なんてない。
「……私、無能で……」
震える声で、いつもの言葉を口にしてしまう。
「何もできなくて……代役で……」
途中で、言葉が止まった。
ディルクの手が、きゅっと強くなる。
「違う」
はっきりした声だった。
「君は、俺を生かした」
銀色の瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「それ以上の“才能”が、この世にあるか?」
言葉を失う。
涙が、勝手に溢れてくる。
「……エリ」
今度は、さっきよりも優しく。
「俺は、不器用だ。甘い言葉も、うまく言えない」
少し困ったように、眉を寄せて。
「だが……君を幸せにしたい。それだけは、誰にも譲らない」
私は、とうとう涙をこぼしてしまった。
「……どうして……こんな……」
こんなふうに、大切にされるのか。
ディルクは、私の涙に驚いたように目を見開き、ぎこちなく親指で頬に触れた。
「……泣くな。困る」
そう言いながら、動きはとても優しい。
「俺が……悪いみたいじゃないか」
その言葉が可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。
涙でぐしゃぐしゃなのに。
「……はい。少し、困ってます」
そう答えると、彼は一瞬きょとんとしてから、小さく息を吐いた。
「……なら、責任を取る」
「……責任?」
「一生かけて」
さらっと言うから、心臓が止まりそうになる。
私は真っ赤になって俯いた。
「……そんな……」
ディルクは、私の額にそっと額を寄せる。
近い。近すぎる。
「逃げるな」
低く囁く声。
「俺の妻だろ」
その一言で、全部が溶けた。
不安も、自己否定も、過去の傷も。
私は、小さく頷いた。
「……はい」
たったそれだけの返事なのに、
ディルクは、心から安堵したように息を吐いた。
そして――ほんのわずか、微笑んだ。
それは、誰にも見せたことのない、不器用で優しい笑みだった。
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
私は、そっと彼の胸に額を預けた。
強くて、でも今はとても穏やかな鼓動が伝わってくる。
――生きている。
この人は、生きている。
それが、ただただ嬉しかった。
そのとき。
「……感動的なところ悪いが、そろそろ“説明”をさせてもらっていいか」
空気を切り裂くような声が響いた。
私ははっとして顔を上げる。
入り口に立っていたのは、キースだった。
昨夜と同じローブ姿だが、目の下には濃い影があり、明らかに徹夜明けだ。それでも、眼鏡の奥の瞳だけは妙に輝いている。
「キ、キース様……」
「いやあ、若いっていいね。回復より先に恋愛が進行するとは思わなかった」
「……余計なことを言うな」
ディルクが低く言う。
私は慌てて一歩下がり、頬が熱くなるのを感じた。
キースは咳払いをひとつしてから、私をまっすぐ見た。
「さて、本題だ」
そして、はっきりと言い切る。
「君は、《調律者》だ」
「……調律者」
私は、小さく繰り返した。
まだ、現実味がない。
昨日まで、“無能令嬢”だった私が?
キースは指を一本立てる。
「君の歌は、音に魔力を乗せる。魔力の“歪み”を整え、暴走を鎮め、心を静める」
さらに続けた。
「楽器に触れれば音を正し、声を出せば空間そのものを調律する。――つまり、君は“世界のバランスを整える存在”だ」
……夢の話みたいだった。
「でも……私は、測定でいつも……」
思わず口にすると、キースは即座に首を振る。
「測定器は“攻撃”や“出力”に反応するものだ。君の力は、そのどれでもない」
彼は、少しだけ口角を上げた。
「――“調和”だよ」
その言葉が、胸に落ちる。
「王宮の資料を漁ったが、記録はほとんどない。あっても伝説扱いだ」
さらりと、とんでもないことを言われた。
「伝説……?」
「ああ。国家級、いや、それ以上だ」
私は、言葉を失った。
心臓が早鐘のように鳴る。
怖い。嬉しい。信じられない。全部がいっぺんに押し寄せる。
そのとき、ディルクが静かに口を開いた。
「だから、もう二度と……自分を無能だと言うな」
命令に近い声だった。
けれど、不思議と痛くなかった。
むしろ――守られている気がした。
「……でも、私は……ずっと……」
ずっと否定されてきた。
比べられて、切り捨てられて、価値がないと言われ続けてきた。
そんな呪いは、簡単には消えない。
私が俯くと、キースがぽん、と手を叩いた。
「よし。決まりだ」
「……何がですか?」
「君の力は、閉じ込めておくには危険すぎるし、価値がありすぎる」
にやり、と笑う。
「まずは王都で確認する。――音楽会だ」
「お、音楽会……?」
私は思わず目を見開いた。
「王宮の定期演奏会だ。あそこなら、音の魔力反応を正確に測れる」
肩をすくめながら続ける。
「歌うか、演奏するかは自由だ。本人の意思を尊重しよう」
私は、両手を胸の前で握りしめた。
人前で歌う。
ずっと否定されてきた“私の音”を、堂々と。
怖い。とても怖い。
私の人生は、代役として終わるはずだった。
妹の影として生きて、
誰にも期待されず、
誰にも選ばれず。
そうやって、静かに消えていくのだと、ずっと思っていた。
でも――違った。
私は、ここにいる。
この人のそばで、
必要とされて、
大切にされて。
そして、私自身の“音”を持っている。
ディルク様が、そっと私の手を握る。
強くもなく、弱くもなく。
逃がさない、という確かな力で。
「……エリ」
低く、優しい声。
「これからは、俺がいる」
それだけの言葉なのに、
胸の奥で、何かがほどけた。
長い間、絡みついていた不安や自己否定が、静かに溶けていく。
私は、小さく息を吸い、彼を見上げた。
「……私、怖いです」
正直な気持ちだった。
人前で歌うことも、
期待されることも、
幸せになることも。
全部、まだ怖い。
ディルクは、少しだけ目を細めた。
「それでいい」
そして、迷いなく言う。
「怖いなら、一緒に進めばいい」
私は、思わず笑ってしまった。
――ずるい。
こんなふうに言われたら、前を向くしかないじゃない。
「……はい」
今度は、逃げない返事だった。
窓の外では、朝の風が庭を渡り、
噴水の水がきらきらと光っている。
私は、胸の奥でそっと歌った。
もう、隠れるための歌じゃない。
自分を守るためだけの歌でもない。
誰かと生きるための、
未来へ向かうための歌。
――私は、無能なんかじゃない。
初めて、そう思えた。
こうして私は、
代役の花嫁ではなく、
ディルク・ルハルトの妻として、
そして“調律者”エリとして。
自分の人生を、歩き始めたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
エリとディルクの物語、最後までお付き合いいただき、とても嬉しいです。
無能だと思い込まされていた少女が、自分の「音」と「居場所」を見つけていくお話として、大切に書きました。
少しでも、
「面白かった」
「続きが読みたい」
と思っていただけたなら、本当に幸せです。
このお話は、もし応援をたくさんいただけたら、
王都音楽会編や妹リアとの因縁などを描く“長編版”として続けていきたいと考えています。
そのためにも、
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