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『君を離すつもりはない』――えっ、私は無能な身代わりのはずでは!? 伝説の調律スキルがバレて、冷血公爵に囲い込まれています

作者: 風谷 華
掲載日:2026/02/07

 扉が閉まった音が、夜の静けさに溶けていった。


 ――ここが、私の部屋。


 ルハルト公爵邸の客間は、あまりにも広く、あまりにも整いすぎていた。

 天蓋付きの寝台、磨き抜かれた床、大きな窓。どれもが一流で、完璧で――そして、どこか冷たい。


 まるで、美しい檻だ。


 ベッドの縁に腰を下ろすと、純白のドレスの裾がさらりと音を立てた。

 今日、私は結婚した。


 妹の代わりに。


「……」


 窓の外には、月に照らされた庭園が広がっている。噴水の水音だけが、かすかに響いていた。


 つい数か月前まで。

 ここに立つはずだったのは、私じゃなかった。


 ――リアだった。


 妹のリア・アルヴェリア。

 天才魔導士で、社交界の花で、誰からも愛される存在。


 そんな彼女に、ある日、王宮から正式な打診が届いた。


『王太子殿下が、リア嬢との婚約を望んでおられる』


 家中が、歓声に包まれた。


 当然だ。

 王太子妃候補になるなんて、侯爵家にとって最高の栄誉なのだから。


 問題は、その“あと”だった。


 本来、リアは――

 ルハルト公爵家の嫡男、ディルク・ルハルトと婚約する予定だった。


 彼は、若くして軍を率いる英雄であり、王国最強の魔力を持つ男。

 そして何より、「才能」を何よりも重んじる人物だと噂されていた。


 彼が望んでいたのは、ただひとつ。


 ――リアの、類まれなる才能。


 だから。


 リアが王太子に選ばれた瞬間、

 公爵家との婚約話は、宙に浮いた。


 父と母は、慌てた。


「どうするの……? このままじゃ、ルハルト公爵家との縁が切れるわ」


「せっかくの好条件なのに……」


 そのとき、父が、私を見た。


 まるで、古くなった道具を思い出したみたいに。


「ああ……無能だけど、姉のエリがいるじゃないか」


 それで、決まった。


 妹の代役として。

 価値のない姉が、価値ある婚約を繋ぎ止めるために。


 私は、反対しなかった。


 反対できなかった。


 だって私は――

 ずっと、“そういう役目”だったから。


 誰かの代わり。

 誰かの穴埋め。

 誰かのついで。


 結婚式の日。


 ディルク・ルハルトは、私をほとんど見なかった。


 誓いの言葉も、淡々と。

 視線は冷たく、感情の色はなかった。


 ――きっと、がっかりしたのだ。


 才能あふれる妹ではなく、

 無能な姉が来てしまったことに。


「……」


 私は、そっと鏡を見る。


 そこに映るのは、華やかなドレスに包まれた、平凡な少女。

 自信のない目。緊張でこわばった頬。


 どう見ても、“公爵夫人”の器じゃない。


「ここに、私は必要ない……」


 ぽつりとこぼれた言葉は、誰にも届かず、床に落ちた。


 侍女は丁寧だった。

 使用人たちも礼儀正しい。


 でも、それは「公爵夫人だから」ではない。


 “役割”としての私に向けられたものだ。


 ディルク様本人からは、

 必要最低限の言葉しかもらっていない。


『疲れているだろう。休め』


 それだけ。


 優しいのか、冷たいのかすら、わからない。


 ――いいえ。

 わかっている。


 興味がないのだ。


 私は、彼の望んだ存在ではないから。


 胸の奥が、きゅっと痛む。


 私は、昔からこうだった。


 妹のリアは、光。

 私は、その影。


 何をしても比べられ、何をしても及ばない。


 ――一番辛かったのは。

 いつしか、自分自身まで「私は無能だ」と信じてしまったこと。


 そんな私にも、昔は好きなものがあった。


 歌。


 誰もいない場所で、小さく歌うのが好きだった。


 でも――


『歌なんて、無能の逃げよ』


 母のその言葉で、私は口を閉ざした。


 夢も、音も、全部しまい込んで。


 今さら、何を期待するつもりもない。


 私は立ち上がり、窓辺へ行く。

 月明かりに照らされた庭園は、美しくて、遠い。


 ……眠れそうにない。


 だから私は、誰にも聞こえないように、そっと鼻歌をこぼした。


 小さな子守歌。

 震える声。頼りない旋律。


 それでも、不思議と胸が落ち着く。


 冷えていた心が、少しだけ温まる。


「……変なの」


 こんなこと、誰にも言えない。


 でも、今だけは。


 ここには、私を否定する声はいない。


 私はベッドに戻り、そっと目を閉じた。


 どうか明日も、生きていけますように。

 どうか、この場所で、壊れずにいられますように。


ーー



 朝になっても、ルハルト公爵邸の空気は冷たいままだった。


 豪奢な廊下を歩く足音が、硬い壁に反響して、ひとりでいることを何度も思い知らされる。窓から差し込む光は眩しいのに、屋敷の影は深い。

 私は侍女に案内され、朝食の用意がされた小さな食堂へ向かった。


 ――小さな、といっても、侯爵家の食堂よりずっと広い。


 けれど、食卓に並ぶ料理の香りが豊かなほど、胸の奥は空っぽだった。

 昨日、私は公爵夫人になった。なのに、今朝も「ひとり分」だけが用意されている。


「公爵様は……?」


 思わず尋ねてしまい、すぐに後悔した。

 図々しい。私は歓迎されていないのだから。


 けれど侍女は表情を変えず、礼儀正しく答えた。


「公爵様は早朝より執務に入られております。お食事は後ほど……」


 そこで一瞬、言葉が詰まった。


 その“間”が、気になった。


「……何か、ございましたか」


 私がそう聞くと、侍女は少しだけ視線を落とす。

 まるで、言ってはいけないことを飲み込むみたいに。


「いえ……失礼いたしました。どうぞお召し上がりくださいませ」


 そのまま彼女は下がってしまった。


 私はスープの匙を握ったまま、しばらく動けなかった。

 屋敷全体が、なにかに怯えているように感じたからだ。


 昨日は婚礼で忙しく、気づかなかった。

 でも今朝は――違う。


 廊下を行き交う使用人たちの足取りが早い。

 顔色が悪い人が多い。

 そして、視線が合うと誰もが一瞬だけ固まって、急いで頭を下げて通り過ぎていく。


 私が“公爵夫人”だから、ではない。


 私の背後に、何かがあるのだ。


 胸の奥が、ひやりと冷える。


 ――この屋敷には、私の知らない“常識”がある。


 朝食を半分ほどしか口にできないまま、私は食堂を出た。

 このまま自室に戻ってもいい。戻るべきなのかもしれない。


 けれど、どうしても気になってしまった。


 昨夜、ディルク・ルハルトは私を見なかった。

 彼が望んでいたのは妹リアの才能で、私はただの代役。

 それはわかっている。


 それでも――。


 この屋敷に漂う不穏が、私を放っておいてくれなかった。


 ふと、廊下の曲がり角で、使用人たちの小さな囁きが耳に入った。


「……また、始まったらしい」


「今度は長い。昨日も結界を張り直したのに」


「公爵様の発作……」


 言葉が、背中に冷たい水を浴びせたみたいに刺さる。


 発作?


 公爵様が?


 思わず足を止めた私に、使用人たちは気づき、はっとした顔で頭を下げた。


「も、申し訳ございません、公爵夫人様。私ども、口がすぎました」


「いえ……」


 慌てて首を振った。

 責めたいわけじゃない。知りたいだけだ。


「……公爵様は、お体がお悪いのですか」


 私がそう尋ねると、年配の執事が、少しだけ眉を動かした。

 彼はしばらく迷い、やがて低い声で言う。


「公爵夫人様。お言葉ですが……この屋敷では、“知りすぎない”ことも、慈悲でございます」


 慈悲。


 その言葉の意味がわからないまま、背筋がぞくりとした。


 私はそれ以上問い詰められず、ただ小さく頷く。

 執事は深く礼をし、使用人たちを促して去っていった。


 ひとりになった廊下に、静けさが戻る。

 けれど、私の胸の中には、さっきの言葉が残り続けた。


 発作。結界。張り直し。


 ――魔力が関係している?


 王国最強と名高いディルク・ルハルト。

 強すぎる魔力は、時に持ち主を蝕む。そんな話を、本で読んだことがある。


 私は息を整えた。


 行ってはいけない場所へ行こうとしている。

 それはわかる。

 私は代役で、存在価値のない嫁で、歓迎されていない。


 ――だからこそ。


 ここで何もせずに、また“邪魔にならないように”引き下がるのは。

 いつもの私だ。


 胸の奥で、昨夜の子守歌が、小さく鳴った気がした。


 私は、何ができるだろう。


 無能な私に。


 でも。


 できることが“何もない”と決めつけるのも、

 また、いつもの私だ。


 気づけば私は、執務棟へ向かう通路に足を踏み入れていた。

 空気が変わる。ひんやりと重い。

 壁には薄い魔法陣が刻まれ、淡く光っている。


 ――結界。


 さっきの言葉が本当だった。


 扉の前には警備の騎士が立っていて、私を見るなり目を見開いた。


「公爵夫人様? こちらは……」


「すみません。少しだけ……公爵様のご様子を」


 言いながら、自分の声が震えているのがわかった。

 怖い。拒絶されるのが怖い。


 それでも、止まれなかった。


 騎士は困ったように視線を泳がせる。


「今は……危険です。公爵様は――」


 その瞬間。


 扉の向こうから、鈍い音がした。


 何かが倒れたような、重い音。

 続いて、空気が震える気配。


 息が詰まった。


 騎士の顔色が一気に変わる。


「……っ、また!」


 扉の隙間から、青白い光が漏れた。

 魔力の光だ。しかも――濃い。


 屋敷の中が、目に見えない圧で押しつぶされそうになる。

 私は思わず壁に手をついた。


 ……苦しい。


 心臓が早鐘を打ち、喉の奥がひりひりする。

 これが、公爵様の魔力?


 こんなものを、ひとりで抱えているの?


「公爵夫人様、下がってください!」


 騎士の声に反射的に頷きかけて――

 そのとき、私は扉の向こうの“声”を聞いた。


 掠れた、低い声。


「……っ……」


 叫びではない。

 誰かに助けを求める声でもない。


 ただ、痛みに耐える声だ。


 私は息を吸って、扉に手を伸ばした。


「……開けてください」


「っ、しかし!」


「私は……妻です」


 言葉にした瞬間、自分でも驚いた。

 “妻”なんて、口にする資格があるはずがないのに。


 騎士が迷っているうちに、扉が内側から少しだけ開いた。

 隙間から、焦った顔の侍従が顔を覗かせる。


「誰だ……っ、公爵夫人様!?」


「今、中で何が――」


 答えより先に、私は見てしまった。


 執務室の中央。

 机に手をつきながら、膝をついている男。


 銀色の髪が乱れ、額には汗が浮かんでいた。

 背筋はまっすぐなままなのに、肩がわずかに震えている。


 ――ディルク・ルハルト。


 あんなに完璧で冷たく見えた人が、

 こんなふうに“崩れかけて”いるなんて。


 その顔は無表情に近い。

 けれど、目元の筋肉がわずかに歪み、唇が固く噛みしめられている。


 耐えている。


 誰にも見せず、ひとりで。


 胸の奥が、痛んだ。

 理由はわからない。ただ、痛かった。


 私は一歩、足を踏み出した。


「……公爵様」


 彼の視線が、ゆっくりこちらへ向く。


 冷たい瞳。

 けれど今は、昨日のような“無関心”ではなかった。


 そこにあったのは――驚きと、苛立ちと、そして。


 ほんのわずかな、拒絶。


『君は来るな』


 声にしなくても、そう言われている気がした。


 当然だ。

 私は望まれた花嫁じゃない。


 妹の代わりに来た、無能な姉。

 彼が欲しかったのはリアの才能で、私は何の役にも立たない。


 それでも――。


 ここで引き返したら、私は一生、このままだ。


 誰かの望みを叶えるために存在して、

 誰かの痛みに気づいても、見ないふりをして。


 そんな人生は、もう嫌だ。


 私は小さく拳を握った。


「……私に、できることはありませんか」


 言った瞬間、室内の空気が一段重くなる。

 侍従が慌てて首を振った。


「公爵夫人様、これは――危険です。魔力暴走は……」


「わかっています」


 本当はわかっていない。

 でも、怖いからといって、何もせずに逃げたくなかった。


 ディルク・ルハルトは、しばらく私を見つめ――

 やがて、低く短く言った。


「……下がれ」


 冷たい声だった。

 昨日と同じ、突き放す声。


 それでも私は、ほんの少しだけ安心してしまった。


 ――声が出る。意識はある。


 まだ、終わりじゃない。


 私の胸の奥で、昨夜の子守歌がまた小さく鳴った。

 気のせいじゃない。なぜか、その旋律を思い出すと、呼吸が深くなる。


 私は一歩だけ、さらに近づいた。


 そして、心の中で言った。



 私にできることが、何か――あるかもしれない。

 何かできることがあるなら、力になりたい。



 侍従が、私の腕を取ろうとした。


「公爵夫人様、どうか――」


「大丈夫です」


 口ではそう言いながら、膝が震えた。

 怖い。息が詰まる。胸が痛い。


 でも、ここで引き返したら、私はまた“何もしない人”になる。


 ディルクは膝をついたまま、机の縁に指を食い込ませていた。

 白い指先が、痛々しいほど硬く張りつめている。


 彼の瞳が、私に向いた。


 昨日は、興味がないという目だった。

 今の目は違う。


 「なぜ、ここにいる」


 問いは短い。

 けれどその奥に、苛立ちと焦りが混じっているのがわかった。


 ――私がいると、邪魔なのだ。


 自分でもわかる。私は無能だ。

 彼が欲しかったのは妹リアの才能で、私は代役。


 それでも私は、口を開いた。


「……公爵様が苦しんでいるからです」


 言った瞬間、侍従が息を呑んだ。

 騎士が一歩前に出かけ、しかし結界の揺らぎに押し返される。


 ディルクの眉が、わずかに動く。


「愚かだ。……死にたいのか」


 吐き捨てるような言葉。

 けれど、私はそれを責められない。


 ――彼は今、まともじゃない。


 魔力というものは、本人の意思とは無関係に暴れることがある。

 まして、彼ほどの魔力なら。


 そのとき、執務室の奥――棚のあたりで、バチン、と火花が散った。


「っ!」


 空気が跳ねる。

 私の視界が白く弾け、鼓膜が痛んだ。


 結界が悲鳴を上げた。


「結界が……!」


 侍従が叫ぶ。

 騎士が慌てて魔法陣に手をかざし、補強を試みるが、光は増すばかりで制御できない。


 そして、ディルクが――わずかに身体を折った。


 呼吸が乱れる。

 喉の奥から、抑え込むような低い音が漏れた。


 それを見た瞬間、私の体が勝手に動いた。


「公爵様……!」


 駆け寄ろうとして、足が止まる。

 床が震えている。魔力が波のようにうねり、近づけば近づくほど体の芯が痺れる。


 ――近づいたら危険。


 わかっているのに、止まれなかった。


 そのとき、廊下の向こうから鋭い声が響いた。


「全員、下がれ!」


 人混みが割れる。

 現れたのは、白衣に近い上等なローブを羽織った男だった。年齢は三十代前半。黒髪を無造作に束ね、眼鏡の奥の瞳は冷静に光っている。


 王宮魔導師長――キース。


 その名を、私は父の会話で聞いたことがあった。

 “変人だが天才”。“魔力理論の化け物”。そして、公爵家とも深い縁がある、と。


 キースは私を見るなり、僅かに目を細めた。


「……君が、新しい奥方か」


「エリ・アルヴェリアです」


「そうか。……悪いが、ここは危険だ。出ろ」


 命令口調だった。

 けれど、さっきの侍従たちとは違う。“守るための命令”だと感じた。


 私は唇を噛む。


「でも、公爵様が……」


「君がいても、どうにもならない」


 はっきり言われ、胸が痛んだ。

 やっぱり私は、役に立たない。


 その瞬間――ディルクの足元から、青白い光が爆ぜた。


 床の魔法陣が割れ、結界が一部崩れる。

 押し寄せた魔力が風のように吹き荒れ、紙が舞い、窓が鳴った。


「くっ……!」


 キースが即座に杖を構え、重ねるように魔法陣を展開する。

 空中に浮かぶ幾何学模様が次々と重なり合い、結界が再構築されていく。


 だが、それでも――押さえきれない。


 ディルクの身体が、さらに深く折れる。

 片膝をつき、もう片方の手で胸元を押さえた。


 汗が首筋を伝う。

 唇は白く、呼吸が浅い。


 ――このままだと、本当に。


 キースが舌打ちした。


「……時間がないな」


 侍従が震える声で尋ねる。


「魔導師長、どうにかなりませんか……! 公爵様は……!」


 キースは一瞬だけ目を閉じ、冷たく言った。


「治療はしている。抑制もしている。だが、根本が破綻している」


 侍従の顔が青ざめる。


「そんな……」


 キースは淡々と続けた。


「――今夜が山だ」


 その言葉で、室内の空気が凍った。


 私は目の前が暗くなるのを感じた。

 山。つまり、越えられなければ――。


 ディルクは、顔を上げなかった。

 まるで、そんな宣告に慣れているみたいに。


 その姿が、どうしようもなく痛かった。


 ――彼はいつも、ひとりで耐えてきたのだ。


 王国最強と称される男が、

 誰にも頼れず、誰にも触れられず、ひとりで。


 私は気づけば前に出ていた。


「……公爵様」


 キースが私を鋭く睨む。


「だから出ろと言っただろう」


「……お願いです。少しだけ、話をさせてください」


 自分でも無謀だと思った。

 でも、胸の奥の何かが、こう言っていた。


 ――今、行かなければ。もう二度と、彼に近づけない。


 キースは一瞬迷い、そして低く言った。


「……一分だ。近づきすぎるな。呼吸が乱れたら、すぐ戻れ」


 私は頷き、ゆっくりとディルクのそばへ行く。


 床が冷たく、魔力の圧が肌を刺す。

 でも、昨夜の子守歌の旋律が頭の中で鳴ると、呼吸が深くなった。


 私はディルクの視界に入る位置で膝をついた。


「……公爵様」


 彼の瞳が、こちらを向く。

 冷たい銀色。けれど今は、焦点が揺れていた。


「……なぜ、来た」


 声が掠れている。

 怒っているのに、力がない。


 私は喉を鳴らし、小さく答えた。


「私は……代役です。公爵様が望んだ花嫁ではありません。だから……私がここにいても、邪魔だと思います」


 言いながら、胸が痛かった。

 言葉にすると、現実が刃になる。


 ディルクの眉が、かすかに動く。


「……わかっているなら、去れ」


「でも」


 私は息を吸った。


「公爵様が……苦しいのに。私だけ安全な場所に戻るのは、嫌です」


 沈黙。


 ディルクは一度、目を閉じた。

 次に目を開いたとき、その瞳は苛立ちと――諦めで濁っていた。


「……愚かだ」


 言い捨てるような声。


 それでも、私は逃げなかった。


 すると、彼の肩が、ほんの少しだけ震えた。


 まるで、堪えきれない何かが溢れそうになっているみたいに。


 次の瞬間、ディルクが――低い声で、吐き出すように言った。


「……君まで、離れるな」


 私は息を呑んだ。


 それは命令でも威圧でもなく、

 弱音だった。


 王国最強の男が、初めて見せる――“助けて”に似た声。


 胸が熱くなる。


 私は、思わず頷いていた。


「……はい」


 ただそれだけの返事なのに、

 ディルクの呼吸が、わずかに整ったように見えた。


 背後でキースが小さく息を吸う気配がした。

 けれど彼は何も言わない。


 私はディルクのそばに留まり、震える指先を膝の上で握りしめる。


 私にできることは、まだわからない。

 でも――離れない。


 そう決めた。


 そのとき、ディルクの魔力が再び波打った。

 結界が、また揺らぎ始める。


 ――本当の山は、これからだ。


 私は唇を噛み、胸の奥に眠る旋律を、必死に手繰り寄せた。


 歌えば、落ち着く。

 あの夜、私が私を癒したように。


 もし――もし、それが誰かにも届くのなら。


 私は、もう一度息を吸った。


 そして、震える声で、言葉にならない音を――喉の奥で準備した。




 結界が強い魔力で、揺れている。


 淡く光る魔法陣の線が、ひび割れた硝子みたいに震え、空気が軋む音がした。

 魔力の圧が室内を満たし、息を吸うたび胸の奥が痛い。まるで、見えない手で心臓を掴まれているみたいだった。


 ――これが、王国最強の魔力。


 私は膝をついたまま、ディルク・ルハルトを見上げる。

 彼は机の脚に手をつき、身体を折っていた。銀色の髪が頬に貼りつき、汗が首筋を伝っている。無表情なはずの顔が、痛みでわずかに歪む。


 それでも彼は、声を上げない。


 耐えているんだ。

 ひとりで。


 背後でキースが次々と術式を重ねている気配がする。

 青白い光の板が、空中に幾重にも展開され、ディルクの魔力を押し返そうとしていた。


「抑えろ……! 結界を再構築する!」


 キースの声が鋭い。騎士と侍従が必死に応じる。

 だが、魔力は海のうねりみたいに押し寄せ、結界を軋ませる。


 ――無理だ。


 誰の顔にも、それが浮かんでいる。

 そして、あの言葉が私の胸を締めつけた。


『今夜が山だ』


 山を越えられなかったら。

 この人は――。


 私は息が詰まり、唇を噛んだ。


 ……私にできることなんて、何もない。


 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。

 それは昔から、何度も何度も私を黙らせてきた言葉だ。


 無能。

 足手まとい。

 妹の代わり。

 役に立たない姉。


 ――歌なんて、無能の逃げよ。


 母の声が、針のように耳に刺さる。


 逃げるな。

 今、ここで逃げたら、私は一生、あの家の中の私のままだ。


 ディルクが掠れた息を吐き、肩が震えた。


「……っ……」


 音にならない呻き。

 それだけで胸が焼けるように痛くなる。


 私は、震える手を膝の上で握りしめた。

 爪が皮膚に食い込む。


 ――離れるな。


 さっき、彼は確かにそう言った。

 私なんかに、望んだはずがない言葉を。


 だったら。


 だったら、私は――ここにいる。


 助けになれなくても。

 役に立たなくても。


 ただ、そばにいる。


 そのために、私は息を吸った。


 胸の奥で、小さな旋律が鳴る。

 昨夜、独りで歌った子守歌。あれを思い出すだけで、呼吸が少しだけ深くなる。


 不思議だ。

 この部屋の重い空気が、ほんの少しだけ柔らぐ気がする。


 私は、気づかれないくらい小さな声で、音を零した。


 最初は、ただの鼻歌だった。


 震えて、頼りなくて、すぐに途切れそうな音。

 それでも、次の音が自然に続く。心が勝手に旋律を手繰り寄せる。


 それは――昔、私は好きだった歌。


 誰にも聞かせられなかった歌。

 自分を落ち着かせるためだけに、口の中で閉じ込めていた歌。


 私は歌った。


 誰かのためじゃない。

 自分が壊れないために。


 けれど。


 歌が室内に広がった瞬間、空気が変わった。


 重かった圧が、わずかに“ほどけた”。

 ひと息吸うだけで胸が痛んでいたのに、今は、吸える。


 背後で誰かが、息を呑む音がした。


「……?」


 私は歌い続ける。

 怖い。止めたらまた潰されそうで、止められない。


 すると――ディルクの肩の震えが、ほんの少しだけ弱まった。


 まさか。


 まさか、私の歌が。


 そんなはずはない、と否定しようとした瞬間。

 結界の魔法陣が、ふっと光の色を変えた。


 青白い光が、淡い金へ――温かな色へと移り変わっていく。


 まるで音に引き寄せられるみたいに。


 空中に展開された術式が、揺れを止めた。

 軋みが消え、線が滑らかになる。


 キースの声が、かすかに震えた。


「……いや、そんな……」


 私は歌う。

 涙が滲む。声が揺れる。でも、やめない。


 歌の中で、私は初めて“自分の居場所”を見つけた気がした。


 ――私の音が、ここにあっていい。


 その瞬間。


 ディルクの魔力が、荒波から、静かな湖へ変わった。


 青白い光が収束し、まるで深呼吸するみたいに引いていく。

 窓が鳴る音が止まる。紙片が落ちる。空気が落ち着く。


 私は歌いながら、震える手を伸ばした。


 彼の手には触れられない。怖い。

 でも、近くにいたい。


 机の脚にしがみつくようにしていた彼の指が、少しだけ緩んだ。


 そして、ディルクが――ゆっくりと顔を上げた。


 銀色の瞳が、私を捉える。


 ……見ている。


 初めて、真正面から。


 その目は、驚きと、理解できないものを見る混乱に満ちていて、でも――

 確かに“生きて”いた。


 私は声を落とし、歌を最後の一節へと導く。


 子をあやすように。

 泣きたい自分を抱きしめるように。


 そして、歌が終わった。


 部屋に残ったのは、静寂――ではなく、柔らかな余韻だった。


 暖炉の火が、さっきより穏やかに揺れている。

 空気が温かい。


 ディルクの呼吸は、整っていた。


 彼はゆっくりと息を吐き、目を閉じる。

 苦悶の色は薄れ、疲れ切った顔が、ただの“人”の顔になっていた。


「公爵様……!」


 侍従が駆け寄ろうとするのを、キースが手で制した。

 その目が、異様な熱を帯びている。


 彼は、私を見た。


 まるで、世界の法則が塗り替えられた瞬間に立ち会った学者みたいに。


「……君」


 キースの声が、低く震えた。


「今、何をした?」


 私は、唇を震わせた。


「え……? わ、私は……ただ……歌を……」


 言いながら、急に怖くなった。

 また否定される。無能の逃げだと笑われる。止めろと言われる。


 身体が小さく縮こまる。


 けれど、キースは否定しなかった。


 むしろ、呆然としたまま、呟いた。


「……ありえない。測定不能の調律……音に魔力を乗せて……」


 そして、確信したように、はっきり言った。


「――調律者ハーモナイザーだ」


 その言葉が落ちた瞬間、侍従も騎士も息を止めた。


「……は?」


 私だけが、意味がわからなかった。


 調律者?

 そんな能力、聞いたことがない。

 私は、無能なのに。


 キースはなおも私を見つめ、まるで宝石を発見したみたいに瞳を細めた。


「君は、自分が何者か知らないんだな」


 私は首を振ることしかできない。

 指先が冷える。心臓が速く打つ。


 そのとき。


 ディルクが、わずかに身じろぎした。


 長い睫毛が震え、銀色の瞳が開く。

 彼はまだ弱々しいのに、視線だけは鋭かった。


 そして、私を見て――一言、掠れた声で言った。


「……君のおかげで」


 息を吐くみたいな声だった。


「……楽になった」


 胸が、熱くなった。


 私は何も答えられず、ただ目を見開いたまま、彼の言葉を受け止める。


 ディルクはもう一度目を閉じる。

 その表情は、苦痛から解放された人のものだった。


 私はその場で、震える息を吐いた。


 ……助かった?


 私の歌で?


 信じられない。

 でも、確かに――私の音が、この人の痛みをほどいた。


 胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 それは、喜びではなく――恐怖でもなく。


 初めての、“可能性”の音だった。




 ディルクは、しばらく私を見つめていた。


 まるで、何か大切なものを確かめるみたいに。

 銀色の瞳は、もう冷たくない。そこにあるのは、戸惑いと――はっきりした想いだった。


「……エリ」


 初めて、名前を呼ばれた。


 それだけで、胸が跳ねる。


「俺は……これまで、誰かに頼ることを知らなかった」


 低く、静かな声。


「強ければいい。耐えられればいい。それだけで生きてきた」


 彼は一度、視線を落とす。

 それから、ゆっくり私に戻した。


「……君に会うまでは」


 私は息を呑んだ。


 ディルクは、そっと布の上に置かれていた私の手に、指先を伸ばす。

 触れるか触れないかの距離で、一瞬、迷うように止まり――。


 そして、静かに重ねた。


 温かい。


 想像していたより、ずっと。


「昨夜……君の声を聞いている間、初めて……怖くなかった」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


「痛みも、孤独も……全部、遠くなった。君が、そこにいるだけで」


 私は何も言えず、ただ彼を見る。


 こんな言葉、向けられる価値なんてないと思っていたのに。


「だから」


 ディルクは、少しだけ声を低くした。


「もう二度と、君を手放さない」


 ――ずるい。


 そんなふうに言われたら、逃げ場なんてない。


「……私、無能で……」


 震える声で、いつもの言葉を口にしてしまう。


「何もできなくて……代役で……」


 途中で、言葉が止まった。


 ディルクの手が、きゅっと強くなる。


「違う」


 はっきりした声だった。


「君は、俺を生かした」


 銀色の瞳が、まっすぐ私を射抜く。


「それ以上の“才能”が、この世にあるか?」


 言葉を失う。


 涙が、勝手に溢れてくる。


「……エリ」


 今度は、さっきよりも優しく。


「俺は、不器用だ。甘い言葉も、うまく言えない」


 少し困ったように、眉を寄せて。


「だが……君を幸せにしたい。それだけは、誰にも譲らない」


 私は、とうとう涙をこぼしてしまった。


「……どうして……こんな……」


 こんなふうに、大切にされるのか。


 ディルクは、私の涙に驚いたように目を見開き、ぎこちなく親指で頬に触れた。


「……泣くな。困る」


 そう言いながら、動きはとても優しい。


「俺が……悪いみたいじゃないか」


 その言葉が可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。

 涙でぐしゃぐしゃなのに。


「……はい。少し、困ってます」


 そう答えると、彼は一瞬きょとんとしてから、小さく息を吐いた。


「……なら、責任を取る」


「……責任?」


「一生かけて」


 さらっと言うから、心臓が止まりそうになる。


 私は真っ赤になって俯いた。


「……そんな……」


 ディルクは、私の額にそっと額を寄せる。

 近い。近すぎる。


「逃げるな」


 低く囁く声。


「俺の妻だろ」


 その一言で、全部が溶けた。


 不安も、自己否定も、過去の傷も。



 私は、小さく頷いた。


「……はい」


 たったそれだけの返事なのに、

 ディルクは、心から安堵したように息を吐いた。


 そして――ほんのわずか、微笑んだ。


 それは、誰にも見せたことのない、不器用で優しい笑みだった。


 その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 私は、そっと彼の胸に額を預けた。

 強くて、でも今はとても穏やかな鼓動が伝わってくる。


 ――生きている。


 この人は、生きている。


 それが、ただただ嬉しかった。


 そのとき。


「……感動的なところ悪いが、そろそろ“説明”をさせてもらっていいか」


 空気を切り裂くような声が響いた。


 私ははっとして顔を上げる。


 入り口に立っていたのは、キースだった。


 昨夜と同じローブ姿だが、目の下には濃い影があり、明らかに徹夜明けだ。それでも、眼鏡の奥の瞳だけは妙に輝いている。


「キ、キース様……」


「いやあ、若いっていいね。回復より先に恋愛が進行するとは思わなかった」


「……余計なことを言うな」


 ディルクが低く言う。


 私は慌てて一歩下がり、頬が熱くなるのを感じた。


 キースは咳払いをひとつしてから、私をまっすぐ見た。


「さて、本題だ」


 そして、はっきりと言い切る。


「君は、《調律者ハーモナイザー》だ」


「……調律者」


 私は、小さく繰り返した。


 まだ、現実味がない。

 昨日まで、“無能令嬢”だった私が?


 キースは指を一本立てる。


「君の歌は、音に魔力を乗せる。魔力の“歪み”を整え、暴走を鎮め、心を静める」


 さらに続けた。


「楽器に触れれば音を正し、声を出せば空間そのものを調律する。――つまり、君は“世界のバランスを整える存在”だ」


 ……夢の話みたいだった。


「でも……私は、測定でいつも……」


 思わず口にすると、キースは即座に首を振る。


「測定器は“攻撃”や“出力”に反応するものだ。君の力は、そのどれでもない」


 彼は、少しだけ口角を上げた。


「――“調和”だよ」


 その言葉が、胸に落ちる。


「王宮の資料を漁ったが、記録はほとんどない。あっても伝説扱いだ」


 さらりと、とんでもないことを言われた。


「伝説……?」


「ああ。国家級、いや、それ以上だ」


 私は、言葉を失った。


 心臓が早鐘のように鳴る。

 怖い。嬉しい。信じられない。全部がいっぺんに押し寄せる。


 そのとき、ディルクが静かに口を開いた。


「だから、もう二度と……自分を無能だと言うな」


 命令に近い声だった。

 けれど、不思議と痛くなかった。


 むしろ――守られている気がした。


「……でも、私は……ずっと……」


 ずっと否定されてきた。

 比べられて、切り捨てられて、価値がないと言われ続けてきた。


 そんな呪いは、簡単には消えない。


 私が俯くと、キースがぽん、と手を叩いた。


「よし。決まりだ」


「……何がですか?」


「君の力は、閉じ込めておくには危険すぎるし、価値がありすぎる」


 にやり、と笑う。


「まずは王都で確認する。――音楽会だ」


「お、音楽会……?」


 私は思わず目を見開いた。


「王宮の定期演奏会だ。あそこなら、音の魔力反応を正確に測れる」


 肩をすくめながら続ける。


「歌うか、演奏するかは自由だ。本人の意思を尊重しよう」


 私は、両手を胸の前で握りしめた。


 人前で歌う。

 ずっと否定されてきた“私の音”を、堂々と。


 怖い。とても怖い。


 


 私の人生は、代役として終わるはずだった。


 妹の影として生きて、

 誰にも期待されず、

 誰にも選ばれず。


 そうやって、静かに消えていくのだと、ずっと思っていた。


 でも――違った。


 私は、ここにいる。


 この人のそばで、

 必要とされて、

 大切にされて。


 そして、私自身の“音”を持っている。


 ディルク様が、そっと私の手を握る。


 強くもなく、弱くもなく。

 逃がさない、という確かな力で。


「……エリ」


 低く、優しい声。


「これからは、俺がいる」


 それだけの言葉なのに、

 胸の奥で、何かがほどけた。


 長い間、絡みついていた不安や自己否定が、静かに溶けていく。


 私は、小さく息を吸い、彼を見上げた。


「……私、怖いです」


 正直な気持ちだった。


 人前で歌うことも、

 期待されることも、

 幸せになることも。


 全部、まだ怖い。


 ディルクは、少しだけ目を細めた。


「それでいい」


 そして、迷いなく言う。


「怖いなら、一緒に進めばいい」


 私は、思わず笑ってしまった。


 ――ずるい。


 こんなふうに言われたら、前を向くしかないじゃない。


「……はい」


 今度は、逃げない返事だった。


 窓の外では、朝の風が庭を渡り、

 噴水の水がきらきらと光っている。


 私は、胸の奥でそっと歌った。


 もう、隠れるための歌じゃない。

 自分を守るためだけの歌でもない。


 誰かと生きるための、

 未来へ向かうための歌。


 ――私は、無能なんかじゃない。


 初めて、そう思えた。


 こうして私は、

 代役の花嫁ではなく、

 ディルク・ルハルトの妻として、

 そして“調律者”エリとして。


 自分の人生を、歩き始めたのだった。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


エリとディルクの物語、最後までお付き合いいただき、とても嬉しいです。

無能だと思い込まされていた少女が、自分の「音」と「居場所」を見つけていくお話として、大切に書きました。


少しでも、

「面白かった」

「続きが読みたい」

と思っていただけたなら、本当に幸せです。


このお話は、もし応援をたくさんいただけたら、

王都音楽会編や妹リアとの因縁などを描く“長編版”として続けていきたいと考えています。


そのためにも、

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