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ファンタジー短編集

観測ログ:無血勇者伝承

作者: 月見酒
掲載日:2026/01/29

本作は、

「英雄が剣を抜かなかった場合、

その事実はどのように記録され、

どのように伝説化されるのか」

という一点のみを観測した短編です。


行動しなかったこと、

語られなかった理由、

是正された事実の隙間に残るもの。


物語というより、

記録に近い形でお読みください。



観測ログ:無血勇者伝承


記録番号:A-0B

分類:歴史的事象/是正済

備考:異常なし



勇者が剣を抜かなかった、という事実は、正式な記録には存在しない。


記録上、彼は「剣を抜く必要がなかった勇者」であり、「一滴の血も流さずに戦争を終結させた存在」として整理されている。

この整理は、当時の王政機関によって迅速に行われ、異論は提出されなかった。


結果として、無血勇者は誕生した。


勇者本人の名前は、現存する文書によって複数存在する。

どれも正しいとされ、どれも確定していない。

いずれにせよ、彼は「勇者」であり、個人名は付随情報として処理された。


剣についても同様である。


勇者の剣は、王都中央の博物館に保管されている。

展示名は「無血の剣」。

来訪者はそれを見上げ、説明文を読み、静かに頷く。


剣身は存在しない。


しかし、その理由について公式な説明は存在しない。

「平和の象徴であるため」

「意図的に刃を持たなかったため」

「力を示す必要がなかったため」


いずれも正解とされ、訂正は行われていない。


実際には、その剣は最初から刃を持たなかった。

鞘の内部には、重く、鈍く、打撃のための芯材のみが収められていた。


だが、この事実は記録されなかった。


記録されなかった理由についても、記録は存在しない。



魔王との戦争は、交戦に至らなかった。


これは正確な表現である。


両陣営は対峙し、距離を測り、互いの戦力を評価した。

その過程で、勇者は剣を抜かなかった。


抜かなかった、という表現は不正確である。

正確には、「抜けなかった」。


しかし、この差異は公式記録では削除された。


会談は成立し、魔王は領土を引き、王国は軍備を解体した。

和平条約は締結され、後に「無血協定」と呼ばれるようになる。


この協定の締結に際し、王は魔王に対して金銭を支払った。


名目は「戦後補償」。

内実は慰謝料に近い。


だが、この点も記録上は簡略化され、「友好の証」として処理された。


魔王は金銭を受け取り、領収書を発行した。

この領収書は現在、所在不明である。



無血勇者は帰還した。


凱旋式は盛大に行われ、人々は彼を称えた。

剣を抜かずに世界を救った英雄。

争いを否定し、対話を選んだ存在。


彼自身は、多くを語らなかった。


語らなかった理由についても、記録は存在しない。


勇者は、その後まもなく公的な場から姿を消した。

隠遁したとも、旅に出たとも言われている。


後継者は現れなかった。


無血勇者の剣は、抜かれることのないまま展示された。

年に一度、儀式として剣を抜く試みが検討されたが、実行には至っていない。


理由は「伝統に反するため」。


誰の伝統かについては、記録がない。



時代が進むにつれ、無血勇者は伝説となった。


血を流さなかったことが美化され、剣を抜かなかった理由は思想として再構成された。

子ども向けの絵本では、勇者は穏やかな笑顔で描かれている。


その笑顔が、実際に存在したかどうかは不明である。


関係者は沈黙を守った。


王は退位し、魔王は別の名で歴史に組み込まれた。

勇者の同行者については、資料が断片的に残るのみである。


一部の文書には、勇者の剣を見て沈黙した人物の存在が示唆されている。

だが、その人物の顔写真は存在しない。


削除された可能性がある。



観測者の間では、時折、同じ疑問が浮上する。


「なぜ、誰も剣を抜こうとしなかったのか」


答えは常に同じである。


「必要がなかったから」


この回答は正しく、そして不十分である。


剣は、展示ケースの中で静かに眠っている。

鞘は閉じられ、鍵は掛かっていない。


誰でも触れられるが、誰も触れない。


それが、この伝承の完成形である。



最後に付記される一文がある。


無血勇者の後継は現れず、何時しか伝説として語り継がれた。

関係者の心境は何時の時代も穏やかでは無かった。


この一文を書いた人物の名前は残っていない。

だが、この文だけは是正されなかった。


理由は不明である。



以上をもって、本観測ログは「異常なし」と判定する。


剣は抜かれなかった。

血は流れなかった。

世界は救われた。


記録上は。


剣は抜かれませんでした。

だからこそ、

誰も完全には救われなかったのかもしれません。


本作は

「無血」「平和」「是正」といった言葉の裏側に、

何が残るのかを扱っています。


ここまで読んでいただき、

ありがとうございました。

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