僕の貞淑な婚約者
オフィーリア・ザーラとアラン・ユルミス。
伯爵家の子女同士の結婚式に、新郎のアランはやってこなかった。
「おい、アランはどうした。まさか式の前日に羽目を外して飲み過ぎて、どこかで倒れてるんじゃないだろうな」
ユルミス伯爵が焦ったように声を上げ、夫人も同調した。
「きっと何か、事件に巻き込まれたに違いないわ」
ざわつく両家の親たちを尻目に、花嫁姿のオフィーリアは焦った様子もなく腰掛けたままだ。
──やはり、来なかったわね。でも、これでよかったのかもしれないわ。
オフィーリアは冷ややかさを悟られぬよう、小さくため息をついてから立ち上がる。
「アラン様不在では、式は中止ですね」
オフィーリアの言葉にユルミス伯爵の顔がゆがんだ。
「まだ、午前中いっぱいまでは式場を押さえて……」
「たとえ今からアラン様が到着したとしても、準備は間に合いませんでしょう?」
取り付く島もないと言った様子でオフィーリアは誓いの間へ向かい、今か今かと待機していた来賓たちに向かって頭を下げた。
「花婿が到着しなかったため、本日の結婚式は中止となりました」
来賓たちは一斉に哀れみの視線をオフィーリアの頭頂部に投げかけたが、顔を上げたオフィーリアを見て今度は目を疑った。
捨てられた気の毒な令嬢とは思えないほどに、オフィーリアの表情はすがすがしかったからだ。
「本日は、私たちのためにお集まりいただきありがとうございました。これにて婚約破棄とさせていただきます」
ざわめきを背に、オフィーリアはドレスの裾をひるがえしてその場を去った。
■■■
新郎が発見されたのは昼過ぎになってからだった。
アランは愛人とともに、歓楽街にある貴族専用の宿泊施設で酔い潰れていたところを経営者のデュカス・マルニエール公爵令息にたたき起こされ、その場で婚約破棄の報を告げられて仰天した。
帰宅したオフィーリアのもとに慌てたアランが謝罪のためにやってきたが、オフィーリアは顔を見たくないと言って断ることにした。
「お会いする必要はないわ」
オフィーリアが式の最中、そして今も落ち着いていられるのは、事前にアランの浮気を知っていたからだ。
婚約者としてアランのことを好いていたからこそ、彼の小さな変化に──甘ったるい、品のない女ものの香水の香りにすぐ気がついてしまった。
そして疑念を払拭するために彼のあとをつけ、歓楽街の最奥、貴族の男女が逢い引きするための宿にアランと見知らぬ女が腕を組んで入ってゆくのを目撃してしまったのだ。
「これでよかったのよ」
オフィーリアは長い息を吐き出したあと、自分に言い聞かせるように呟いた。
こんこんとノックの音がして、侍女がびくびくとしながら、そして信じられないといった様子で顔を出した。
「お嬢様。デュカス・マルニエール公爵令息が、お嬢様にお会いしたいと……」
「お通しして」
突然の来客を、オフィーリアは受け入れることにした。
■■■
オフィーリアがデュカス・マルニエールと知り合ったのは、アランの浮気現場を目撃した時だ。
「アラン様……どうして……」
オフィーリアは婚約者の不貞、という現実を突きつけられて涙をこぼすことしかできなかったところをデュカスに発見された。
「おや。オフィーリア嬢ではないですか。伯爵令嬢がこんなところで何を?」
「デュカス様こそ、なぜここに……」
慌てて涙で潤んだ瞳を伏せても、なんの効果もなかった。
「僕のことをご存じでしたか」
「ええ……まあ」
デュカス・マルニエールは「遊び」にまつわる商売を手広くしているともっぱらの噂の公爵家の次男で、オフィーリアには今まで、そしてこれからも縁のない類の人間のはずだった。
「うちの店に御用ですか?」
そう問われて、ここは彼が出資している店のうちのひとつなのだとオフィーリアは知った。
「い、いいえ」
「では、うちのお得意様のことが気にかかりますか」
「お得意様……アラン様はこの宿に通い詰めているのですね」
口にした瞬間、心に広がったのは悲しみよりも怒りだった。
「オフィーリア、どうでしょう。貴女も仕返しに、火遊びしませんか?」
いつの間にか数歩近寄ってきていたデュカスが、オフィーリアの耳元で囁いた。
「……いいえ、同じところまで、堕ちたくはありません」
オフィーリアは震える声で、しかしはっきりと口にした。そんな小さな、やられたことをやりかえす、そんなことはしたくなかった。
「では、こちらから忠告しましょうか。経営者の身で言うのもなんですが──おいたに目をつぶれば、結婚がうまくいく場合もあります。表面上はね」
──一瞬で、愛は消え失せた。けれどこの婚約は恋だけの問題ではない。家同士に利益があり、軽々しく婚約破棄などできない。破棄したところで、次に必ず良縁が来るとは限らないし、アラン様も納得しないだろう。けれど、それでも……。
私は彼に対して怒っている。
理屈を並べ立て、それでもオフィーリアはこの裏切りが耐え難いと結論付けた。
「僕でよければ、なんでも力になりますよ」
デュカスの言葉に、オフィーリアはうつむいていた顔をあげた。
「それでは、ひとつ、お願いしたいことがあるのですが──」
そうして、オフィーリアは大きな賭けをすることにした。
まず、アランを試すために高級で強い酒を用意する。それをアランの愛人に「アラン様は結婚なさるので、貴女との関係はもうこれきりだと。どうか、別れの乾杯にお使いください」と事づけてデュカスから渡してもらう、それだけだ。
切り捨てられることに怒った女が、そこから何か小細工をするかしないか。それはオフィーリアには関係のないことだった。
そうしてアランは甘美かつ強烈な酒で酔い潰れ、見事式をすっぽかしたのだった。
■■■
「この度は、残念なことでした」
「いいえ。不幸になるのを止めることができた──裏切られ、見下され続けるよりはその方がマシです」
オフィーリアはなんとか、笑顔を作って対応した。
「それで、デュカス様。どうされましたか」
「話は非常に簡単です。オフィーリア、心機一転、僕と婚約しませんか?」
突然の申し出に、オフィーリアは驚いた。
「そこまでしていただかなくても、私一人でアラン様を追い払えます」
「本気ですよ」
「でも……」
オフィーリアがためらっていると、再びノックの音がした。
「あのう、お嬢様。アラン様がまだ……」
「お会いしないわ」
「いいや。ここではっきりとさせないと、向こうはあなたにまとわりつきますよ」
アランの本性を知るデュカスはそれを危惧しているようだった。
「僕は、隣の部屋にいますので。必要なら呼んでください」
デュカスはそう言って、隣の部屋に入ったようだった。オフィーリアは小さくため息をついてから立ち上がる。
「……アラン様を、お通しして」
■■■
「大変申し訳ない、オフィーリア。本当に。この通りだ」
面会を許されたアランは床に膝を付き、足元に跪いて許しを請うた。
オフィーリアの父ザーラ伯爵は子煩悩で、娘がうんと言いさえすれば丸くおさめることが出来る。そうアランが考えているのが、オフィーリアには手に取るように分かった。
「アラン様、私、来客を待たせておりますの」
「遊びの女だよ、結婚前の。だからもう二度としないと誓う」
オフィーリアの都合も聞かず言い訳を重ねるアランを、オフィーリアは醒めた瞳で一瞥した。
「貴族にはよくあることだろ? 一番大切なのはオフィーリア、君だよ……だから……」
「『よくあること』という言葉を持ち出して許されるのは、許す側だけですよ」
オフィーリアからの言葉には怒りもなく、悲しみも感じられない。つまりは無関心だ。その姿には、かつてアランが軽んじていた自分に恋する少女の面影はなかった。
「そ、そんな冷たくしないでくれよ。ほら、欲しがっていた香水も持ってきたんだ……君のような真面目で思いやりがあって、そして貞淑な女性こそがユルミス伯爵夫人にはふさわしい。どうか、機嫌を直してほしい」
こんな仕打ちを受けて許す女がいたとしたら、逆に心がないだろうとオフィーリアは思う。しかし、余計な会話をする時間は彼女には残されていなかった。
「アラン様、もうあなたがどう考えていようと、私達の結婚は不可能なんです。それでは」
「待てよオフィーリア! お、お前だって縁談がなくなるのは困るだろう!」
醜聞は破棄したほうにもされた方にもまとわりつくのだと、アランはオフィーリアにすがりつく。
「困りません。私、もう別の方と婚約することになりましたの」
その言葉が、自然にオフィーリアの唇からこぼれ出た。
「え」
アランは一瞬、何を言われたのかわからずにぽかんとしたが、すぐにへらへらと下卑た笑いになる。
「べ、別の男と婚約って……そんな、結婚式をすっぽかされた女にそんな上手い話があるはずがないだろう」
どうせ苦し紛れについた嘘に違いないと、アランは思っているようだった。
「もう、いらしているんです」
オフィーリアはデュカスの顔を思い浮かべながら、焦りを悟られぬように続けた。
「なら、呼んでくれ。是非ともお会いしたい」
「わかりました。デュカス様、アラン様がお会いしたいそうです」
声をかけるやいなや、待機していたデュカスがにこやかに入室してきた。
「デュカス・マルニエール……公爵令息……だと……?」
「はい」
アランの顔が引きつった。もちろん、アランはデュカスと知り合いだ。──宿の経営者と、その常連としてだが。
「浮気者の婚約者を持ってなんとかわいそうな女だと、婚約の申し出をいただきました」
さらりと言ってのけたオフィーリアの肩にデュカスが手を回し、二人そろってアランに微笑む。反対に、アランの顔はどんどんと蒼白になっていく。
「では、アラン様。そういうことですので」
「ま、待て! それは詐欺だろ!」
アランは吐き捨てるように叫んだ。
「おかしいと思ったんだ、オフィーリアは俺のことが好きで、なんでもハイハイ返事するだけの女だったのに、急に婚約破棄だなんて。デュカス、あんたがオフィーリアをたぶらかしたんだろう」
「まさか。彼女はあなたと違って貞淑な人ですよ」
「じゃ、じゃあ、公爵家の権力でオフィーリアを無理やり……」
「そんなこと、しませんよ。僕は相手に好かれたい方の性格なので。──以前から、夜会で見かけるオフィーリアのことを気にかけていたんです。彼女があなたの浮気を悲しんでいるのを発見して、つい……ね」
アランの顔がかあっと赤くなり、デュカスに殴りかかろうと立ち上がる。
「告げ口をしたのか! この、卑怯者、盗人が!」
「おやめください、デュカス様はアラン様と違って、そんな方ではありません。……これ以上、無様な姿を見せないでくださいませ」
オフィーリアが強い口調で言葉を発するのを、アランは初めて見た。
アランの前に立つオフィーリアは堂々として、目には光があり、不覚にも未来の自分の妻だと認識していた頃よりも美しいと感じてしまった。
「お、オフィーリア……」
「アラン様。あなたがもし、結婚式を台無しにしなかったら。私は不満を呑み込んだまま嫁いだかもしれません。……でも、あなたは来なかった。ですから、私たちの縁はここまでです。さようなら」
「そんな……オフィーリア、どうしてっ……」
オフィーリアの決別宣言とともに、使用人たちがアランを引きずるようにして門から外に追いやった。
ザーラ伯爵家にとって、ユルミス伯爵家からも見捨てられるだろうアランは無用の存在であり、しかも新しい婚約者が──公爵令息がいるのだ。誰もアランに同情しないのは当然だった。
「ありがとうございました、デュカス様」
アランの姿が完全に見えなくなってから、オフィーリアはようやく口を開いた。
「ま、全てが丸く収まりました」
「それにしたって、いきなり婚約というのは……」
満足そうなデュカスに、オフィーリアは懐疑的な視線を投げかけた。
惨めで哀れで意地っ張りな女が一夜にして公爵令息の婚約者になるなんて、周囲からの同情も蔑みも全て吹き飛んでしまうだろうとオフィーリアは思う。
「別に急な話ではありませんよ。先ほども言ったでしょう、あなたのことを以前から気にかけていた。けれど、貞淑なあなたは僕が誘惑したところで、乗ってくれないでしょう?」
声をかけるならそれ相応の真剣さがないと、とデュカスは言った。
「まさか、そんな」
デュカスが目立たない自分を気にかけていたなんて、それこそ夢物語のような話だ。
「仕事柄、遊び人と思われていますが、意外とそうでもないつもりです」
デュカスは微笑んで、オフィーリアの手に口づけた。
「今度からは、じっくり僕のことを観察してみてくれませんか、婚約者どの」
「ええ……そうさせていただきます」
オフィーリアはデュカスに向かって、にっこりと微笑んだ。
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