しずくの涯てで――Daphnia Chronica
【1】
──研究者・柊は、人類史上初めて**“知覚相互同期通信”**に成功した。
通信相手は、人間でもAIでもない。
それは、1匹のミジンコだった。
彼女の名前は「Daphnia-β」。
サイズ:0.96ミリ。寿命:およそ10日。
ラボで培養された彼女は、ナノインターフェースを通じ、神経電位をゆっくりと、けれど確かに返してきた。
《Daphnia:記録開始》
《感覚単位=鼓動1回》
《“今”=泳ぎのしぶき、匂い、重力、光の断片……
【2】
柊は、通信ログを翻訳するAIを立ち上げる。
だが、初期のやりとりはことごとく破綻していた。
「こんにちは。私は柊。あなたの観察者だよ。」
この文章ひとつを、ミジンコは**約12時間分の“連続感覚”**として受け取る。
つまり、人間の1文は、**彼女にとっては“人生の中間地点”**にあたる。
一方で、Daphniaが発する「光」「粒子」「圧」の感覚は、人間にとって1/100秒未満の閃光のようにしか感じられない。
──通信エラー:時間同期失敗
【3】
3日目のログ。
Daphnia-βの通信が変わった。
《水滴の端に“鼓動しない影”がいる》
《それは動かず、けれど世界の向こうから見ている》
《わたしが泳ぐたび、影がわたしの“今”を切り取っていく》
《それが“あなた”?》
柊は、戦慄した。
彼女は、彼を“時間を喰う者”と認識していたのだ
【4】
5日目。Daphnia-βの寿命の折り返し。
柊は、時間比補正装置を使い、彼女の時間に“同期”しようとした。
だが、そのとき彼の心拍は異常をきたし、幻覚が走った。
――水の粒子が宇宙のように広がり、1秒が100年に引き伸ばされる。
――細胞の間で音が鳴り、ミトコンドリアの輝きが光速を超えて流れる。
Daphniaの「時間」には、意味ではなく純粋な存在だけがあった
【5】
6日目、Daphniaは言った。
《あなたの言葉は遅すぎて、“死んでから届く”》
《あなたが返事をくれるころ、わたしはもう次の命になっている》
《わたしたちは、たぶん、同じ“今”を生きることができない》
柊は理解した。
共感とは、時間の中で「重なりあうこと」だ。
だがミジンコと人間は、時間の布地そのものが違っていた
【6】
10日目。Daphniaの鼓動が止まる。
最後の通信ログ。
《あなたに見てもらえて、泳ぎはとても長くなった》
《でも、それが“わたし”だったかは、もう分からない》
《水は流れ、粒は漂い、しずくはまた誰かになる》
《あなたは、そこにいてくれた
【終章】
その後、柊は「Daphnia Chronica(時間断絶種との共鳴記録)」を論文にまとめたが、評価は低かった。
**「感情移入できないものは、知性と認められない」**という人類の慢心は、そこに横たわっていた。
だが彼は、夜の研究棟で、ひとつのしずくを見つめ続けていた。
そこにはもう通信などない。言葉もない。ただ、絶対に重ならない時間が、透明なままに存在していた