第一話
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、じりじりと顔を照らす。
狭くて、散らかった、息苦しいほど静かな六畳一間の部屋。
その静寂を引き裂くように、けたたましいアラームが鳴り響いた。
「……また、寝坊かよ……」
男――石神 悠真は、布団に沈んだままぼそりと呟いた。
伸ばした腕がだるくて、アラームを止めるのにも一苦労だ。
何しろ、このアラームは“起きるため”のものではない。
“もう起きていないとヤバい時間を過ぎた”ことを教えてくれる、いわば敗北のサイレンだ。
――じゃあ、なんでそんなアラームを毎朝セットしてるのか?
それは……せめてもの抵抗というか。少しでも「自分は悪くない」と言い聞かせる、惨めな自己弁護の一環というか。
罪悪感という名の重りを、ちょっとだけ軽くしたいだけ。
石神 悠真、二十七歳。
夜勤コンビニバイト。定職ナシ。貯金ゼロ。夢も希望も方向性も、とくに設定されていない。
「毎日、時間に追われて……腹減って、金もない……」
声に出すと、妙にリアルで、胸にズンとくる。
現実というのは、言葉にするといっそう重たくなるのだ。
「もう、疲れたなぁ……。何も考えずに寝て、起きて、気が向いたら動いて……そんな生活がしたいだけなのにな」
怠けたいわけじゃない。逃げたいわけでもない。
ただ、“縛られないで生きていたい”。それだけなのに。
それがこんなにも難しいなんて、誰が思っただろう。
布団に沈み込んだまま、俺――石神悠真は、天井をぼんやりと見上げた。
もうすぐ昼。いや、もうとっくに昼。
遅刻どころの騒ぎじゃないけど、もう慣れたもんだ。
電話も鳴らない。きっと諦められてる。
「今日は……いいや、もう休もう……」
意識が再び沈む。まぶたが重い。頭も重い。
息をするのも、少しだけ、面倒くさい。
――いや、ちょっと待て。これ、普通じゃない。
「……あれ? なんか……息、できなくね……?」
胸が苦しい。息を吸っても吸っても、肺が満たされない。
バクバクと心臓が騒ぎだす。汗が噴き出す。指先が震える。
金縛りのように、身体が動かない。まぶたが、持ち上がらない。
「まさか……こんな、だらだらしてただけで……死ぬとか……馬鹿じゃん、俺……」
そのまま、視界がゆっくりと閉じていった。
◇
意識が覚醒した。それは夢から醒める瞬間のように、淡く儚い感覚だった。
何も見えない。何も聞こえない。ただ、浮遊するような感覚だけがあった。
やがて、薄ぼんやりとした光が視界に広がって――気がつけば、雲のような床の上に俺は立っていた。
「お、お目覚めになりましたか……!」
声がした方を振り向くと、そこには神々しい装いの中年男性が、額に大きな汗をかいて立っていた。
「まずはお詫びを……申し上げます。あ、あなたが亡くなったのは……その、我々の手違いでして……」
「……は?」
「本来は別の方を天へ導くはずだったのですが、ちょっと記録に誤りがありまして……本当に、誠に申し訳ない……!」
膝をついて頭を下げる神様(?)らしき人物。とりあえず混乱している俺は、状況を整理しようと必死だった。
死んだ? 俺が? 手違い? この人、神? ……じゃあ、ここってやっぱり……?
「お詫びといってはなんですが、あなたに何か望みがあれば、できる限りの対応をさせていただきます。転生や、特殊な力の付与など……」
「……願い?」
その言葉を聞いて途端に冷静を取り戻した俺は少し考えた。
そして真剣に言葉を紡いだ。
「俺、別に楽して生きたいとか、働きたくないわけじゃないんです。ただ……もう、空腹とか金とか、そういう基本的なことに追われる日々がしんどくて」
神らしき人物は黙って聞いている。俺は、続ける。
「今日食う飯のために働いて、時間に追われて、何かを始めたくても、いつも“生活が先”になる。そうじゃなくて……本当にやりたいことを、自分の意志で選べる生活がしたいんです」
「なるほど……“生きるために生きる”のではなく、“生きて、選びたい”のですね」
「……そうだ。たとえば、本を読みたいと思ったら読める、誰かのために何かしたいと思ったらできる……そんな、自分の意思で動ける余裕が欲しい。それだけです」
その言葉に、神らしき人物の目が優しく細まった。
一瞬、彼の背後に後光が差したように見えた――たぶん、演出だ。
「……素晴らしいお心です。では、あなたに最適な選択肢を、ひとつ提案させてください」
神らしき人物は両手を組み、声に少しだけ荘厳さを込めて言った。
「――神になってみませんか?」
「……神?」
「はい。神であれば、空腹もなく、金銭も不要。時間の流れさえ緩やかで、選ぶのも動くのも、すべてがあなた次第。あなたの願う、“意思のままに生きる”という理想に、もっとも近い存在です」
俺は一瞬、口を閉じる。
“神”って言葉の響きは、大げさで遠い存在に聞こえた。でも、その条件は――俺の求める自由そのものだった。
「いやいやいや、神って……そんな簡単になれるもんなの?」
俺の率直すぎる疑問に、神らしき――いや、たぶん本当に神なんだろうこの人は――は、ぽりぽりと頭をかきながら、申し訳なさそうに笑った。
「そうですね。“八百万の神”って、聞いたことありますか?」
「あー……日本の神様がいっぱいいるやつ?」
俺は、曖昧に頷いた。聞いたことはある。八百万の神――要は、ありとあらゆるものに神が宿るってやつだ。
「そう、それです。つまり、神の世界っていうのは“人数制限”がないんですよ。大小問わず、概念や現象、物質……何にでも神は宿るのです。言ってしまえば“神様のポジション”は、空きがほぼ無限にあるんです。それこそ神が宿る対象は外的要因...例えば人間の手によっても日々増え続けてますから」
神様はそこで、意味深に目を細めた。
「だからと言いますか......実はですね、“大小にこだわらなければ”、神に転生させるのはとても簡単なのですよ」
「簡単……なんですか?」
「はい、人間に生まれ変わるほうが、よっぽど面倒なんです。なにせ人間には“席”が限られてますから。転生させるには一人の人生を変質させるか、死にかけててギリギリ生き延びる運命の人間を見つける必要があります」
「……えげつないですね、それ」
思わず本音が漏れた。
いや、想像してみたら、割とホラーじゃないかそれ。
死にかけの人間を物色して、その運命に介入するって――
「だからこそ、あなたのように“自由に生きたい”という願いを持ち、しかも神の側でも問題がない人物は、非常にありがたい存在なのです」
神様はまるで「よくぞ見つかった」とでも言いたげに、優しく笑う。
「ちなみに……何の神になるかは、神界側で最適と判断したものに“割り振り”させていただきますので、ご安心を」
「……割り振り?」
急に、嫌な予感が背筋を走った。
まさか、そこって選べない系なのか?
いや、別にゼウスだとか創造神になりたいとかいうわけじゃないけど、自分で選べないとなると、ちょっと不安だ。
何せ、俺は運が悪い。
今こうして転生できること自体が運が良いと思ったけど、冷静に考えると、運悪く神の手違いで死んだ時点で、どう考えてもノーカウントだろう。
「はい。ご自身の魂の性質や願い、過去の行いなどを参考に、最も適合率の高い神格を割り当てます。あとは、ちょっとした空き状況も考慮して――」
「ちょっと待って、空き状況って何?」
「まあまあ、細かいことは転生後にわかりますよ! 大事なのは、あなたの願いは確実に叶うということです!」
神様は両手を広げて、無駄に明るい笑顔を向けてきた。
……うん、これは絶対に何かごまかしてる。
けれど、俺は“神になる”という言葉に、たしかに心を動かされていた。
時間に追われず、空腹も感じず、金も必要としない存在――それは、あの狭い部屋で夢見ていた“自由”の、具現そのものだった。
俺は、大きく息を吐いて、頷いた。
「……わかった。やってみるよ。神ってやつを」
神様が頷き、すべてを承諾する。
「本当ですか!? では、さっそく手続きに――」
その言葉に続く声は、どこか遠くで聞こえたような気がした。
このときの俺は――
“何の神になるのか”を、あまり深く考えていなかった。