四十一品目 メロンソーダと雪の夜―中編
いつもならまばらながら誰かしら常連客が座っているはずの店内は、まだ閉店まで随分時間があるにも関わらず、エルフリーデと店主以外誰もいない。
静まり返った店の中に、暖気を送る空調の音が響いていた。
「ご注文はお決まりですか?」
店の中に入るなり、店主は柔らかな微笑みを浮かべてそう尋ねる。
エルフリーデは少し考えた後に、苦笑しながら言った。
「それじゃあ、メロンソーダを」
「メロンソーダですか?」
老店主は眉を上げて聞き返す。
無理もない。エルフリーデが先ほどまで雪の降る夜道を歩いていたのを、彼は見ていたのだ。
長く垂らしたままの髪にも、払い損ねた雪粒が溶けた水滴が幾らかついている。
実際、身体は冷え切っていた。だが、エルフリーデは微苦笑を崩すこと無く、頷いた。
「ええ、お願いします」
言いながら、己の酔狂さ加減に内心密かに呆れた。
それでもこの老店主の作るメロンソーダを口にしたいと強く思ったのは、あの香りが、味わいが、エルフリーデにとってあまりにも特別だったからに他ならない。
(思えば、あのメロンソーダが、私を変えた)
何度心の中で呟いたか知れぬその言葉を、またエルフリーデは密かにこぼした。
復讐に取り憑かれ、何もかもを犠牲にしようとしていた自分を変えた、恩人のような一杯。
それを、死地に赴く前にもう一度、飲みたかった。
店主はにっこり笑うと、「かしこまりました。コートを掛けて、お好きな席へどうぞ」と促し、カウンターの方へと消えていく。
エルフリーデはコートを脱ぎ、いつもの席に腰掛けると、束の間目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。
厨房で老店主の立ち働く音と、空調の音。自分の息遣いや脈動が、静寂の中に際立って聴こえてくる。
床板やテーブル等に使われた木々の香りも、この静けさの中ではいつもよりはっきりと感じられた。
*
「お待たせしました」
数分後。そう言って厨房から出てきた店主の盆の上には、メロンソーダの他に、白い湯気の立つマグカップが一つ乗っていた。
「ご一緒しても、よろしいですか?」
エルフリーデはやや面食らいながらも頷いた。
「……ええ、もちろん」
店主がエルフリーデにこんなことを言うのは初めてだ。
思い返せば、そもそも二人で何か長話のようなことをしたのは、初めて会ったあの日ぐらいなものではないか。
あれからもう、かなりの月日が経っている。
(そういえば私、この人の名前も何も知らないんだよな)
その人となりを深く知るにはきっと足りないだろうが、それでも、時間にはまだ余裕がある。
そもそも、演説会が始まらないことには、エルフリーデも動けないのだ。
アルノーの凶行を阻止し、エルフリーデなりの目的を達成するためには、病院の外――いつでも演説会場に駆けつけられる場所で、その時が来るのを待つ必要がある。
今の状況は、それにはまさにうってつけでもあった。
老店主は相変わらずの微笑みを浮かべて一礼し、マグを自分の手元に置いて腰掛けると、静かに口を開いた。
「レオナさんから聞きました。あなたが大怪我を負って、入院なさったと」
エルフリーデは背筋を伸ばして姿勢を正すと、苦笑しながら頷いた。
「ええ、まぁ。でも、親父さんが差し入れてくれたチーズタルトのお陰で、もうすっかり元気になりました」
言うと、店主は口元に手をやって、「ふふふ」と上品そうに笑った。
「お口に召したようで、安心しました」
店主はマグを持ち、コーヒーを口にした。
エルフリーデもそれに習って、メロンソーダを飲む。
爽やかな甘みと、故郷を思い出させる懐かしいトウヒの香りが、シュワシュワと舌の上で弾ける炭酸によって口の中一杯に広がっていく。
これだ。これが私を変えたのだ。エルフリーデはそんな思いを噛みしめるように、静かに、その透き通ったメロンソーダを味わった。
「本当に、エルフリーデさんは心底幸せそうに食べ物や、飲み物を口になさいますね」
ふと、老店主はそんな事を言ってテーブルに頬杖をつき、はにかんだ。
一瞬何を言われたのか分からず固まったエルフリーデは、ようやく自分の表情が緩みきっていた事に気づいて、俯いた。
店内に響く店主の笑い声を聞きながら、エルフリーデは耳の先まで真っ赤にして押し黙る。
(それってつまり、今までここで飲み食いしてたときの顔も全部見られてたってことじゃないか!)
店の中は広く席も多いとはいえ、客の数はさほど多くはない。カウンター越しに見られていたとしても、何ら不思議ではないのだ。
それが分かってしまった途端込み上げてきた、猛烈な恥ずかしさに身を震わせながらエルフリーデが耐える中、ぽつりと店主が呟いた。
「レオナさんがあなたを連れてきてくれて、本当によかった」
「え?」
顔を上げたエルフリーデの目を、店主は穏やかに見つめ返す。
「あなたが初めてここに来た日のことを、覚えていますか?」
「……ええ。忘れるはずが無いですから」
あの日は、この街でどんなテロをやるかについての計画を練るために、近くのファミリーレストランに向かうはずだったのだ。
だが、レオナから受け取ったメモの住所の間違いによって、エルフリーデは奇しくもこの店へとやってきた――そこまで思い返して、はっとした。
この言い振り。それはまるで、
「レオナが、わざと住所を間違えて、ここに私を導いた……?」
老店主は頷くと、また一口、コーヒーを飲んだ。
何故、レオナがそんな事をしたのか。それは深く考えずとも分かる。
(きっと、復讐することを生き甲斐にしてきた私を、助けるためだったんだろう)
自分がどう思われようと、どれだけ傷つこうと、誰かに手を差し伸べる。救う。抱き締める。それが、レオナなのだ。
エルフリーデは、それを一番よく知っていた。
「『あの子を復讐に走らせたはわたしだから』と、レオナさんは、常々そうおっしゃっていました。
彼女は、いつもあなたのことを気に掛けていましたよ。毎夜、離れて暮らすあなたが夢に現れるのだと。
酒を浴びるほど飲んでも、夜な夜な夢の中で、累々と横たわる死体の海の中に立ち尽くすあなたが自分を睨みつけるのだと……そんな未来を迎えない為に何ができるのか、と」
老店主は持っていたマグカップをコースターの上に置くと、言った。
「私は、彼女の力になりたかった。そして、あなたの力になりたかった。それである日、提案したのです。この店に、あなたを連れてくることを」
「目論見は、見事に成功した……?」
苦笑しながらそう尋ねるエルフリーデに、店主はゆっくりと首を横に振った。
「全てがそうとは、残念ながら」
「理由をお聞きしても?」
「あなたは今まさに、死に向かっておられますので」
瞬間、店主の顔が、さっと引き締まった。
「これからあなたは、大統領府に向かうおつもりでしょう。そこで起こる惨劇を防ぐために。ご自身を犠牲に、全てのエルフを救うために」
店主が口を閉ざすと、辺りは耳が痛くなるような沈黙に包まれた。
コーヒーの良い香りをまとった白い湯気が天井に向かって立ち上り、メロンソーダの炭酸があるかなしかの音を控えめに立て、空調が無機質に暖気と風音を送り込む。
重たい沈黙。それを破ったのは、エルフリーデだった。
「この身一つで救えるのなら、安いもんでしょう」
何故、彼が大統領府で惨劇が起こると考えたのか。何故、この身を犠牲に同胞を救おうと考えていると思ったのか。
気になることは山程あったが、開いた口から飛び出していった言葉は、そんなあっさりとしたものだった。
「お聞きにならないのですね。一介の喫茶店の主が、どうしてこんな結論に至ったのか、などとは」
「ええ。聞いても、多分この思いは変わりませんから」
老店主は小さくため息をついて、言った。
「……行かれるのですね。どうしても」
エルフリーデは、頷いた。
「はい。行きます。這ってでも」
「レオナさんを一人残してでも?」
エルフリーデはほろ苦い笑みを浮かべて、また頷いた。
「書き置きを遺してきました。あれで納得してくれるとは思いませんが、それでも。ね。何も言わないよりはマシだろうと」
エルフリーデは残ったメロンソーダを一息で飲み干すと、代金をテーブルの上に置き、立ち上がった。
「あいつがここに訪ねてきたら、伝えてやって欲しいことがあるんです。うっかり、手紙に書き忘れてしまったので」
エルフリーデはコートを羽織ると老店主に背を向けて、返事も待たずに静かに言った。
「養母さんの墓のこと頼んだ。酒は飲みすぎるなよ、って」
背後で、老店主が立ち上がるのが分かった。
「……それは、直接お伝えしてあげたらどうでしょうか。私ももう歳です。記憶が持つか、分かりませんから」
エルフリーデは口元をほころばせたが、振り返ることなく出口へ向かった。
その後を、老店主が静かに追う。
暗くなった窓の外で振りしきる雪を横目に、エルフリーデはドアノブを握った。
「――親父さん。今まで、お世話になりました。レオナのこと、頼みます」
ドアを開けると、乾いた寒風がごうごうと音を立てて吹き寄せた。
真っ暗な夜の路地に、白い雪がちらつく。
(この道を、私は今から一人で行くんだ)
そう思ったとき、背後で老店主が、言った。
「またのお越しを、お待ちしております」
エルフリーデは何も言えずに、一歩外へと踏み出すと、後ろ手にドアを閉めた。
目頭が、じんと熱かった。




