四品目 カツサンドと後輩
ある日の昼下がり。連邦陸軍の若き中尉、ルートヴィヒ・オーベルトは、街中で信じられぬものを目にした。
それは、彼の直属の上司、エルフリーデ・シュピーゲル少佐が、楽しそうに微笑みながら通りを歩いていく、前代未聞の光景だった。
(あの人類種族全てへの憎悪の結晶体みたいな少佐が、笑ってる……?)
ルートヴィヒは思わず、大勢の人々で行き交う大通りの中心で足を止め、人混みの向こうへ消えていく上司の背を見つめていた。
ルートヴィヒにとってシュピーゲル少佐は、士官学校時代の先輩であり、東部軍管区勤務時から首都異動になった今に至るまでの上官であり、尊敬すべき人物の一人でもあった。
自分よりたった二つ歳上なだけにも関わらず、彼女はその類まれなる才能と努力によって昇進を続け、今の地位に立っている。
連邦軍の佐官の平均年齢が、世界的に見ても遥かに若いというのは良く知られた話ではあるが、それにしてもシュピーゲル少佐の二十六歳という年齢は異例だ。
文字通りの傑物。
だが、その道程はやはり生半なものでは無かったのだろう。
ルートヴィヒが出会った頃には既に、彼女は飛ぶ鳥を射落とさんばかりの鋭い目つきと、断崖が如き眉間のしわ、鉄壁の表情筋を携え、肌がひりつくような不機嫌オーラを身にまとっていた。
……だが、そういえばここ最近、そういう態度が随分軟化しているようにも思う。
険が取れた、というべきだろうか。
相変わらず無表情ではあるが、以前からは想像もつかなかったような穏やかな雰囲気をにじみ出させていることが増えた。
気になる。なぜ、少佐がこうも変わったのか。
なぜ、今日、これほど楽しそうにしているのか。気になる。
「事の真相、確かめるっきゃないっしょ……」
今日は非番。時間はある。
ルートヴィヒは少佐に悟られぬよう、こっそりと尾行を開始した。
尾行を始めて数分。シュピーゲル少佐は広い通りから外れて、人気のない薄暗く狭い路地に入った。
埃っぽい臭いが鼻を突く。
くしゃみが出そうになるのを必死にこらえて、ルートヴィヒは尾行に気づかれぬギリギリの距離をとって、物陰に身を隠しながら彼女に続く。
まだ、少佐がこちらに気づく様子はない。
迷いのない足取りで進んでいくその背を眺めながら、ルートヴィヒはふとあることに思い至った。
(そういえばこっちの方向って、つい最近軍施設に魔法テロを仕掛けたエルフが逃げ込んだ辺りじゃないか?)
エルフ族は、他のどの民族よりも魔法の扱いに長けている。
二十年前の内戦では深い森林地帯の奥に身を潜め、魔法で音もなく奇襲を繰り返す彼らに、連邦軍は大いに苦しめられたという。
そんな連中の生き残りが、当時の復讐を果たすために時折軍や政府の施設に攻撃を仕掛けることは、別段珍しい話ではない。
大半は対して被害が出るわけでもない上に、現政権の方針によって厳しい追及を控えるよう指示されているので、それほど熱心に捜査することもなく、数日も経てば捜査打ち切りになるのがほとんどだった。
今回の事件も、そんな小さなよくある出来事の一つではあったが、ルートヴィヒにとっては印象深く、忘れ難いものだった。
(カメラに映ってた犯人は、背の高い男だった)
内戦によって、エルフ族は極めて大勢の男性成員を失ったとされている。
正確な統計などを取ることは最早不可能に近いだろうが、聞いた話では生き残ったエルフの内、七割が女性であり、男性は僅か三割にしか過ぎないらしい。
実際、見かけるエルフもほとんどが女で、男を見たことは無かった。テロの実行役も、その多くが女性成員だ。
それ故に、今回の事件のことが妙に心に残って離れない。
(一体、なんで今回だけ男が出てきたんだろうな)
胸の奥でそう呟いたとき、目の前を行くシュピーゲル少佐の姿が、路地の向こうの光の中に消えた。
どうやら向こうには開けた空間があるらしい。
(いけない、いけない。今はこっちに集中しなきゃな)
ルートヴィヒは頭を振ってまとわりついた思考を払うと、後を追って路地を出た。
今まで薄暗い路地にいたからだろう。まばゆい陽光に包まれ、ルートヴィヒは顔を逸らして右手で目を覆う。
そうして次第に目が慣れてくると、自分が今路地の出口に現れた小さな広場にいることが分かった。
幾本かの路地の交差点のようになっているそこには、別段何か目を引くようなものはない。
ただ一軒、古びた喫茶店があるだけの、誰もいない、味気ない広場だ。
「しまった……見失った」
ルートヴィヒは悔しげに頭の後ろを掻いた。
慎重を期するあまり、距離を離しすぎてしまったのだ。もう少し大胆に近づいていれば、こうはならなかっただろう。
「くそっ。少佐殿、どっちに行った?」
数歩前に出て、ルートヴィヒは広場に合流する数本の路地をそれぞれ見渡した。
吹き抜ける柔らかな風が、彼の癖のついた赤毛を揺らす。
「――ここにいるが、なんだ?」
聞き馴染みのある声とともに、ポン、と背後から誰かに肩を摑まれたのは、その直後のことだった。
その誰か、は、最早言うまでもないが。
「ルートヴィヒ・オーベルト中尉。その場で腕立て伏せ二十回」
「……イエス、マム」
不敵な笑みを浮かべて目の前へ回り込んできたシュピーゲル少佐に、ルートヴィヒは冷や汗をかきながら敬礼し、従った。
*
「ご注文がお決まりになりましたら、またお声がけください」
ルートヴィヒの目の前にメロンソーダを、自分の前にお冷を置いて席を離れていく老店主を見送って、エルフリーデはため息をついた。
「直接背後からつけるような尾行ではすぐに相手に気づかれると、以前にも言ったはずだ。次からはもっと立体的に動くことを心がけろ」
「イエスマム!」
「よろしい。で? 今回はまたどういった理由でここまでついてきた?」
テーブルを挟んで向かい合い、受けたアドバイスをメモに取るルートヴィヒに、エルフリーデはそう頷いて問い掛ける。
ルートヴィヒ・オーベルト中尉、二十四歳。
好奇心が強く、士官学校時代から、よくエルフリーデが一人でいるところを目ざとく見つけては、ちょこちょこと仔犬のようについて来る難点を除けば、非常に優秀な青年軍人だ。
愚かなガルノード人にしては勤勉かつ真面目で、約束事や秘密の類も良く守り、礼節もある程度わきまえている。
ゆえに、ガルノード人の中では唯一、そこそこの信頼を置いていた。
とは言っても、所詮ガルノード人はガルノード人。彼に心の底から気を許すつもりは、無論のこと毛頭ないが。
ルートヴィヒは、「いやぁ、実はですね――」などと気恥ずかしげに笑みを浮かべながら、今回の経緯をかい摘んでエルフリーデに説明する。
話を聞いて、エルフリーデは思わず苦笑した。
「私、そんなに顔に出ていたか?」
「ええ、ばっちり。見たことないぐらい幸せそうな顔でしたよ」
「……そうか」
どうやら自分は、相当腑抜けになってしまっていたらしいな、と、途端にエルフリーデは恥ずかしくなってきて、俯いた。
部下にそんな姿を見られる可能性に、少しでも思い至らなかったのが情けない。
(今までは、こんなこと無かったんだがな)
以前は、常に神経をとがらせて、周囲の状況を警戒していた。自分と、同胞達以外は全て敵だと信じていたし、それが自然だったから。
だが、確かに思い返せばこのところ、先ほどのようなふとした瞬間に、そういった警戒が解けているときが、ままあった。
一体、いつの頃からだろうか。
少し考えて、答えはすぐに見つかった。
(この喫茶店と出会ってから、か)
ここに出入りするようになってから、自分の中に何か変化が起きつつあると、エルフリーデは自覚していた。
まるでこれまでの自分から脱皮して、新たな自分へと転生するかのような、ゆっくりとした、けれどもあまりにも大きな変化。
不思議でならないのは、それを自分自身が恐怖に思っていないことだった。
(ガルノード人は、心底憎い)
彼らが同胞達や家族、故郷に行ったあの凄惨な仕打ちを思うと、血肉が煌々と燃え滾るような、激しく赤熱した怒りを覚える。
だが、憎しみ以外の感情がちらりと顔を覗かせる、その頻度が、明らかに増えてきているのもまた、否定し難い事実だった。
(私は一体、どうなるのだろうか……)
そんな物思いからエルフリーデを呼び起こしたのは、ルートヴィヒの声だった。
「少佐殿。注文、何にしますか?」
テーブルの上にメニューを広げて、ルートヴィヒは言った。
いつの間にか、グラスの中のメロンソーダは三分の一程度にまで減っている。
(気に入った、か?)
もしそうなら、少しだけ嬉しかった。
「そうだな……」
顎に手をやり、うなる。
もうそろそろ昼時だ。今までとは違う、しっかりしたものを注文してみるのも、悪くはない。
パラパラとページをめくりながら見ていると、不意に一つの写真が目に留まった。
(カツサンド、か)
あまりこの辺りでは馴染みのない料理だが、以前ラジオか何かで紹介されていたのを聞いたことがあったので、存在自体は知っていた。
遠い海外では、サクサクに揚がったポークカツを、千切りキャベツとともにソースとマヨネーズの塗られたパンに挟んで食べるのだという。
記憶が正しければ、本場では白く柔らかいパンを焼かずに使うようだが、ここではガルノード人達に馴染みの深い、歯ごたえのある黒パンを使うらしい。
ともあれ、見るからに美味そうだ。
エルフリーデはその写真を指さして、顔を上げた。
「私はこれにするよ。中尉はどうする?」
聞かれたルートヴィヒは、しばらく他のメニューも見ながら迷った挙げ句、結局エルフリーデ同様カツサンドを頼むことに決めた。
注文してからしばらくして、厨房からジュージューと言う小気味良い油の音と共に、香ばしい香りが漂って来る。
もうそろそろだな、と思うと、猛烈に空腹感が増してきて、腹を鳴らさぬように我慢するのが辛かった。
やがて老店主が厨房から出てきてテーブルにカツサンドを持ってくると、二人は思わず「わぁ」と声を上げ、二人して苦笑した。
「ごゆっくり、おくつろぎ下さい」
言って、店主はまたカウンターの向こうへ去っていく。
その背中を見送って、二人は出来立ての温かなカツサンドを手に持った。
「それじゃあ、頂こうか」
「はい!」
エルフリーデとルートヴィヒはほぼ同時に、その大きなサンドウィッチにかぶりつき……目を見開いた。
硬い黒パンの確かな歯ごたえと、その先にあるポークカツのサクサクとした衣、シャキシャキと瑞々しく爽やかな千切りキャベツ。
それぞれ種類の違う食感が伝わると同時に口いっぱいに広がったのは、しっかりとした麦の香りと、厚みのあるカツの柔らかな繊維から溢れ出した、旨味たっぷりの肉汁だ。
パンに直接塗られたソースとマヨネーズも、それら素材の味を邪魔することなく、ものの見事に引き立てている。
一口目の衝撃を噛み締めるように、二人はゆっくりと時間をかけて味わい、飲み込み、互いに目を見合わせた。
「少佐殿、これ……!」
口の端にパンくずとソースをくっつけたルートヴィヒが、両目をキラキラと輝かせて言う。
エルフリーデは、それに応えるように何度も何度も頷いた。
「あぁ、中尉。分かる、分かるぞ。こいつは、あれだな。そう、あれだ……」
一呼吸置いて、二人の声が、重なった。
「「――美味しい!!」」
昼時ののんびりとした陽気に包まれて、二人は笑い合いながら、またカツサンドにかぶりついた。