三十七品目 カフェオレと決別―後編
「くそっ、また煙幕か! 追え、逃がすな!」
エアハルトの怒号が、白煙に満ちた地下室に鳴響する。
突然の出来事に動揺していた若いエルフ達は、その声に気を取り直すと、一斉に出入り口の方へと駆け出した。
ただ一人、アルノーだけを残して。
「一体、何が……?」
呆然と立ち尽くし、力無くそう呟くアルノーに、エアハルトが素早く駆け寄る。
「奴ら、やっぱり裏切ったんですよ。エルフリーデは氷魔法の使い手。レオナの方は炎か、そのあたりでしょうね。
処刑すると見せかけて、二つの魔法をぶつけて煙幕を張ったんですよ――同じ手を二度も食らうなんて、不覚でした」
エアハルトは吐き捨てるように言ってみせつつ、内心ではどこかこの状況を歓迎もしていた。
(これで、連中を始末する大義が得られた)
彼女らは、これから始まる偉大なる計画にとっては障害そのもの。
アルノーが仲間として行動したいと言い始めた時はどうしたものかと思ったが、やはり精霊達はこちらの味方をしてくれているらしい。
エアハルトには、そんな確信があった。
「裏切り……? なんで、どうして……? エリーが、なぜ?」
アルノーはなおも茫然自失の状態で、今にも膝から崩れ落ちそうだ。
普段は何が起きようとも冷静なのに、まさかあれしきのことでここまで動揺してしまうとは……だが、計画には彼の存在は不可欠。
「そのことは、捕らえた後にでもゆっくり聞き出せば良いでしょう。あなたには今、それ以上に考えなくてはならないことがある」
アルノーと毒ガス。この二つがこの街にあるということが、エアハルトには何よりも重要なことだった。
この好機を、逃してはならない。たとえ、この身がどうなろうとも。
「今すぐ、仲間と毒ガスを伴って、身を隠して下さい。早ければ今晩にも、警察か軍の特殊部隊が突入してくるかもしれません」
全ては、故郷に帰るため。エルフ民族の、未来のため。
*
地下室を飛び出したエルフリーデ達は、路地裏に駆け込むなり各自バラバラになって逃走した。
エルフリーデは目隠しをされたままのルートヴィヒを肩に担いでいる。このまま大通りに出れば追手は撒けるだろうが、目立ってしょうがない。
それに、事情を説明してやる必要もあった。上官として、先輩として、エルフリーデにはそれを話す義務がある。
追手の足音が聞こえなくなった頃を見計らい、エルフリーデは路地裏の隅の、人気のない空き地にルートヴィヒを下ろすと、目隠しと手足の拘束を外してやった。
「先輩、一体何が――」
「静かに。事情は道すがら順を追って説明してやるから、今は声を抑えてくれ」
大声を出しそうになったルートヴィヒを、エルフリーデは口元に指を立てて黙らせると、もう一度近くに追手がいないかを探った。
(……大丈夫そうだな。もう撒けたと見ていいだろう)
足音も姿も気配もない。ひとまずは、安心して大丈夫そうだ。
このまままっすぐ狭い路地を歩けば、数分もせぬ間に大通りに出られる。
通りに出た後のことはそのとき考えることとして、エルフリーデは立ち上がると、ルートヴィヒにも立つように促した。
「先輩、耳が……」
立ち上がったルートヴィヒがそう言って耳を指して、エルフリーデはやっと自分の魔法が解けたままだったことに気がついた。
慌てて魔法をかけ直そうとして、ふと、その手を止める。
今は軍服を着ている訳でもないし、何より今は、自分を偽りたく無かった。
この気のいい後輩に、これ以上嘘を重ねたくはなかった。
エルフリーデは耳に添えようとした手を下ろすと、肩をすくめ、諦めたように笑みを浮かべて頷いた。
「私はエルフだ。この耳も、出自も、何もかも偽って、私は軍人になった。
黙ってて悪かった。許してくれとは言わない。こいつは、明らかな違法行為だからな」
「……なぜ、軍人に?」
ルートヴィヒと並んで歩み出したエルフリーデは、道すがら全てを話した。
自分が“エルクの角”創設者の娘だということも、ガルノード人に復讐する為に軍に入ったことも、あの喫茶店と出会い心変わりしたことも。
話し出すと、次第に歯止めが効かなくなっていった。
喫茶店のメロンソーダの隠し味に使われていたトウヒの香りが思い出させた故郷の記憶も、あの固めのプリンが蘇らせた父との思い出も、何もかもが溢れ出して止まらない。
もう、疲れたのだ。隠すことも、嘘をついていることも、自分が無差別殺戮を計画していた事実から目を背けることも。
楽になりたかった。
全てぶちまけて、裁かれ、罪を償わせて欲しかった――だが、まだやるべきことがある。
アルノー達の凶行をこの手で阻止するまで、自分は塀の中へは入れない。
そんなことすらも、エルフリーデはルートヴィヒに話してしまった。
気がつくと、もう大通りに出るところだった。
「先輩、これから予定とかありますか?」
不意に尋ねられ、エルフリーデは固まった。
そのまま黙っていると、ルートヴィヒは元気づけるかのように明るく笑って、言った。
「もし何もないなら、事務室戻る前に温かいもの、飲みません?」
*
ルートヴィヒに促されるまま、エルフリーデは再び喫茶店に戻ってきた。
思わぬ再来店と、エルフリーデの顔色の悪さに老店主は少し驚いたような表情をしたものの、込み入った事情があることを察してくれたのか、何も言わずにいつもの席へ通してくれた。
(――ここは、やっぱり落ち着くな)
どこまでも静かで、穏やかで、懐かしい。
どんなときであっても、深く干渉することなく、さりとて突き放すこともなく、自分を受け入れてくれる。
束の間まぶたを閉じて、エルフリーデはそんな感慨にふけっていたが、やがてにわかに苦笑した。
(この一大事に、私は何を悠長なことを……)
本当なら、今すぐにでも軍に戻ってアルノー達のことを通報し、他の諸々についても洗いざらい話してしまうべきなのだ。
頭では理解できているのに、身体が動かない。それを実行に移す踏ん切りが、どうしてもつかない。
(怖いのか?)
そうかも知れない。
同胞と真正面から戦うことが、彼らを軍に売り、正義の味方面をして生きることが、自分の裏切りをリヒテンベルクに打ち明けることが……そして何より、レオナを残して行くことが。
いずれは通らなければならない道だ。
覚悟はとっくにできていたはずで、この機を逃せば更に酷い結末になることは重々承知の上だ。
なのに、怖い。心が無意識の内に保身を図っている。そんな自分が、またエルフリーデには恐ろしく感じられた。
空気が重い。いつもはやかましいほどに賑やかなルートヴィヒが、今日はいつにも増して大人しく、窓の外を眺めている。
沈黙が、今ばかりは苦痛だった。何か話さなくてはと思うが、言葉が出ない。
老店主が席へやって来たのは、そんな時だった。
盆の上に、湯気の立ったマグカップが二つ乗っている。エルフリーデもルートヴィヒも、もちろんまだ注文などしていない。
そのことを言おうとする前に、店主が口を開いた。
「こちら、サービスのカフェオレです。今日は良く冷えたでしょうから」
いつも通りの、静かで優しく、柔らかな声。だが、有無を言わせぬような響きがあった。
二人の前にカップを置き、店主は去っていく。
それを呆然と見送って、ゆっくりとエルフリーデはカフェオレに向き直った。
カフェオレは、ガルノードに住む者にはあまり馴染みのないものだ。
ブラックコーヒーを好むエルフリーデも、今まで試してみようとは思わなかった。
隣国のフロンセーヌ人が好む飲み方で、現政権の様々な自由化政策によって近年ガルノードでも若者を中心に流行ってきているらしい。
コーヒーと同じ量のミルクを注いで作るために、液面はブラウン色をしている。
温かな、良い香りだ。張り詰めていた緊張の糸が、緩んでいくような気がする。
「いただきましょうか」
久々に口を開いたルートヴィヒの言葉に無言のまま頷いて、エルフリーデはおずおずとカフェオレを口にした。
豊かな香りと共に、コーヒーのほろ苦さと、それを優しく包み込む濃厚でまろやかなミルクの旨味が混ざり合い、広がっていく。
冷え、こわばった身体に染み渡るような温もりと旨さに、思わずため息がこぼれた。
(案外、この飲み方も良いもんだな……)
その、ゆるんだ顔を見られていたのだろう。ルートヴィヒが、微笑みを浮かべつつ、言った。
「先輩って、食べ物も飲み物も、本当に美味そうに口にしますよね。ここに通うようになってから、本当に」
言って、また一口マグカップに口をつけると、ルートヴィヒは詰めていたものを吐き出すように、話し始めた。
「昔の先輩はずっと険しい顔してて、正直おっかなかったです。まるで、この世界そのものを恨んでるみたいな、そんな感じでした。
まさかその理由が、今更になって分かるなんて思いもしませんでしたよ。先輩がエルフだったなんて」
束の間の後、ルートヴィヒは意を決したように顔を上げた。
「先輩。本当に、あのエルフ達を鎮圧するんですか? 先輩の手で、仲間だった彼らを……?」
その目と、マグカップに添えられた手が小さく震えているのを見て、エルフリーデはハッとした。
(こいつ、私のことを心配して――)
ルートヴィヒは、本心から自分のことを案じてくれている。
ガルノード人の為に同胞を裏切り、刃を交え、その末に法を犯して軍に籍を置いた悪しきエルフとして裁かれる我が身を、心配してくれている。
そのことに、気がついてしまったのだ。
もしかすると、あの隠れ家に様子を見に来たのも、エルフリーデの身を感じてのことだったのかもしれない。
(私は、本当に変わった……)
ガルノード人を憎んで、憎んで、憎み続けてきたこれまでだった。
それが、ここに来てからひっくり返った。
ガルノード人にも、良い人間はいる。エルフにも、悪い人間はいる。
どちらも変わらぬ“ヒト”だと言う、そんな当たり前のことに気がつくことが出来た。
コーヒーとミルク。二つがほどよい分量で混じり合えば、こんなに旨いカフェオレができる。ガルノードとエルフにも、そんな未来が待っているのかも知れないと、知れた。
可能性の話と切って捨てれば、それまで。だが、その為に身を捧げるのも、きっと悪くない。
毒ガスをばら撒いて、大勢の人を苦しめるよりはきっと、何千倍もマシだろう。
(私は、もう一人じゃない)
レオナがいて、リヒテンベルクがいて、そしてルートヴィヒがいる。
身を案じ、心配し、気にかけてくれる人達がいる。
そして、この喫茶店と老店主という、帰るべき場所もある。
(どこまで、やれるかな)
分からない。
だが、こんな自分でも、きっとコーヒーとミルクが混ざり合う、その切っ掛けぐらいには――使い捨ての、マドラーぐらいなことは出来るだろう。
……ようやく、覚悟が決まった。
エルフリーデは一息にカフェオレを飲み干すと、席を立った。
「ありがとうな、ルートヴィヒ。心配してくれて、本当に。
私はもう、大丈夫だ。この埋め合わせは、きっとするから」
*
その日の夜、武装したエルフの集団が街に潜伏しているとの通報を受けたガルノード陸軍の特殊部隊が、首都圏の複数の地点に強襲を仕掛け、戦闘になった。
中でも一大拠点とされた廃港湾倉庫ではエルフ側からの激しい抵抗を受けたものの、隊員らの決死の活躍もあり、辛くも軍が勝利した。
ガルノード軍、エルフ武装集団双方に多数の死傷者を出したこの日の事件はすぐさま世界中に拡散され、“雪夜のエルク事件”として長く記憶されることになる。
その、ガルノード軍側の負傷者リストには、エルフリーデ・シュピーゲル少佐の名もあった。




