二十四品目 ハニーワッフルと緋の夢
森が、燃えている。
鮮やかな赤い炎が家々を焼き、黒煙が夜空に立ち上る。
悲鳴と家屋の崩れる音が、天をゆくいくつもの飛行機の轟音にかき消されていく。
ただ、不思議と臭いや熱は、感じなかった。
(……夢、か)
エルフリーデはすぐに気づいた。自分は今、過去の記憶の中にいる。
こういうものを、確か明晰夢と言うらしい。
初めてのこと故に困惑してはいるが、それよりも更に驚いているのは、この地獄の如き悪夢の中にあって自分が思いの外冷静さを保てていることだった。
(案外、私も薄情なんだな)
内心で独り言ち、ひとまずどうしたものかとあたりを見渡したとき、ふと、燃え盛る炎の向こうの広場に人影が見えた。
良く知る背格好に、ゆったりとした麻のワンピース。長く美しい髪に、優しい目をした女性。
それが母だと気づくのに、それほど時間はかからなかった。
「母、さん?」
動揺した。
思わずそう口に出そうとして、エルフリーデはようやく声が出せないことに気がついた。口は動いているのに、声だけが何故か出ていかない。
そうこうしている内に、火の手が母を飲み込もうとみるみる輪を狭めていくのが見えた。
「母さん!」
そう呼んで、危険を知らせる事もできない。もどかしさと焦りが胸を焼く。
(このままでは、焼け死んでしまう)
先ほどまでの冷静さと明晰さは、気が付かぬ間に消え去り、夢とうつつの境が分からなくなっていた。
ただ、助けなくてはという思いだけが、エルフリーデを突き動かしている。
「母さん!!」
もう一度、出ぬ声を必死に張り上げようと足掻きながら、エルフリーデは右手を前へと伸ばして母の元へと踏み出した。
そのとき、
「――エリー!!」
背後から良く知る声が響いてきたのと同時に、グッと左手首をつかまれた。
母が、炎の中に消えていく。
その刹那、母の口元が動いた。
夢は、そこで終わった。
*
何度目かの呼び声で、エルフリーデは目を覚ました。
西の窓に掛かったカーテン越しに、真っ赤な夕陽に空が燃えているのが見える。
どうやら、テーブルに突っ伏したまま居眠ってしまっていたらしい。
目尻や頬が濡れているような感触がある。どうやら、夢を見ながら泣いていたらしかった。
「エリー、大丈夫?」
気遣わしげにそう言って顔を覗き込むレオナに、エルフリーデは心ここにあらずと言った様子で頷いて見せ、ゆっくりと身体を起こした。
「……夢を、見た。良く覚えてないけどな」
力み無く、けれども心配させまいとそう嘘をつきつつ涙のあとを拭い、エルフリーデはため息をついて、レオナの方へ再び目をやった。
まだ外着姿のままだ。帰ってきて早々ここでうなされている自分を見つけたのだろう。
左手に提げたエコバッグから、何やらいい匂いがする。甘く香ばしい、小腹の空くこの時間にはとても魅力的な香りだった。
「心配かけたな。悪かった」
今日は同胞達との情報交換に行っていたはずだ。疲れているだろうに、余計な気苦労までかけてしまった。申し訳ないこと、この上ない。
そう思い謝ると、レオナは「ううん」と首を振って、はにかんだ。
「エリーの夢見が悪いのはいつものことだし、大丈夫だよ。
それよりさ、さっきいつもの喫茶店でワッフル買ってきたんだ。一緒に食べない? アフタヌーンティーにはちょっと遅いけど」
言って、レオナはエコバッグの中から紙袋を取り出し、掲げて見せた。
なるほど、いい匂いの正体はそれだったらしい。
エルフリーデは微笑んで、頷いた。
「あぁ、一緒に食べよう。コーヒー淹れてくるから、着替えててくれ」
エルフリーデは立ち上がると、まだ薄靄のように身体にまとわりついていた眠気を払うようにぐっと背伸びをしてキッチンに立ち、インスタントコーヒーを二人分淹れた。
白い湯気と共に、ふわっとコーヒーの香りが漂ってくる。気怠げな午後の眠気を払うには、これほど良いものはない。
(だが……)
眠気までは払えれども、あの悪夢の長く尾を引く残り香までは、到底払えそうにはなかった。
(母さんは、一体何を伝えたかったんだろうか)
夢の中身を考えることに意味はない、と、以前ラジオか何かで主張していた医者だか学者だかがいたが、エルフリーデにはとてもそうとは思えなかった。
多分、エルフ族の信仰や文化が故だろう。
エルフにとって夢とは、目に見えぬ精霊や、何かしら未練があって死後もこの世に留まり続けている霊が、何か自分の意志を生者に伝えるために見せるものとされていた。
その伝承に当てはめるなら今回の夢は、非業の死を遂げた母が自分に何かを伝えるために見せたものだと言うことになる。
(もしかすると母さんは、私の転向に怒ってるのかもしれないな……)
自分の決めたことを母親に否定されるというのは辛いが、そう考えると合点がいく。
当然だろう。母はガルノード人によって亭主や子供達、多くの親族や友人、そればかりか自分自身さえも殺されているのだ。
そんな仇敵との和解の道を、こともあろうか唯一生き残った実の娘が歩もうとしているのだ。怒りのあまり夢に出てきたとしても、不思議とは思えなかった。
(私のゆく道は、本当にエルフの為になるのだろうか)
もはや、賽は投げられている。
レオナに心変わりを宣言し、ゲッツを説得して勢力の解散に着手させ、リヒテンベルク大佐をこちらの側へ引き込もうと画策し――なにより、あの喫茶店の常連になってしまっている。
もう後戻りすることなど、とうの昔に出来なくなっているというのに、いまだにこんなことを考えてしまうのは、きっと自分が弱いからなのだろう。
(強くなりたい……迷いなく決断し、すすむことのできる強さが欲しい)
エルフリーデはぐっと奥歯を噛み締め眉根を寄せたが、一つ深呼吸をすると、もとの真顔に何とか戻して、コーヒーのは入った二つのマグカップと共にレオナの元へと歩み寄った。
「お、きたきた」
小皿にそれぞれ、ハチの巣のような形の円いワッフルを取り分け、椅子に座って待っていたレオナがにこにこと笑って出迎える。
それぞれの小皿のすぐ横にマグを置くと、エルフリーデも席についた。
「それじゃあ、頂こうか」
「うん! 食べよう食べよう!」
にへへといつもの調子で笑いながらそう言うレオナが同じ空間にいてくれていることが、今のエルフリーデにはありがたかった。
エルフリーデはワッフルを手に取ると、迷いを断ち切るように大きく一口、頬張った。
瞬間、思わず目を見開いた。
まだほろ温くカリッとした表面と、その中にある思いの外ふわっとした二種の異なる食感と共に、口の中にハチミツの甘く優しい味と香りが広がっていく。
それを、隠し味程度に忍ばされたバターの塩味がより一層引き立てている。
コーヒーとの相性も抜群だ。
二人はついに一言も発すること無く、ワッフルを食べ、コーヒーを飲み、平らげた。
いつもは休日のこの時間は喫茶店に直接行っているので、こういう午後を過ごすのはなんだかんだ久しぶりだ。
家で過ごす休日というのも、悪くはない。何より、今日のような気分の日には。
「レオナ、ありがとうな」
不意に、そんな言葉が口から出ていった。
レオナは一瞬何のことか分からずきょとんとしていたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべると、
「こっちこそ、ありがとね。エリー」
右手で頬杖をつきながら、そう返事をしてくれた。
ひりついた心が和らいでいく。
それでも、レオナの前髪の隙間から覗く火傷の痕と、白く光を失った右目があの生々しい夢を思い出させて、エルフリーデは膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
じわっと赤黒い血がにじみ、服に染み込んでいく。
そのことにすら気づくこと無く、エルフリーデは長いことそうしてレオナと見つめ合いながら、脳裏で先ほどの夢の記憶と対峙していた。




