十五品目 アップルパイと夕暮れ
リヒテンベルク大佐が退院し、職務復帰したのは、もう夏が明け、いよいよ秋口に差し掛かるかという頃だった。
医者から、激しい運動――つまり現場仕事やトレーニング――は止められているらしい。
心身を鍛え、日々汗を流してこそ軍人であると信奉している彼はその為、普段の仏頂面をより不満気にさせて、執務席に座り事務に専念していた。
「それにしてもあの人、いつにも増しておっかなかったですねぇ」
「身体を動かせないのが、よっぽどストレスなんだろうな。仕方がないさ」
国防総省敷地内のあるウエイトルーム。
いつもの軍服からトレーニング用のタンクトップに着替えたエルフリーデは、随伴のルートヴィヒのそんな言葉に苦笑しながら、サンドバッグ相手に汗を流す。
グローブをはめたエルフリーデがサンドバッグに拳を叩き込む度に、後ろで束ねた髪が揺れ、引き締まった身体やうなじを伝う汗が散り、窓から差し込む夕日にきらめいた。
それを見ていると、何だか気恥ずかしくなってきて、ルートヴィヒは手に持ったストップウオッチを見るように目を伏せる。
腹筋やら腕立て等のトレーニングを一通り終えた後の、サンドバッグ相手に三分間スリーセット。
彼女の、いつもの日課だ。
大概は昼休み等に良く使われるこの空間も、終業間際のこの時間帯には閑散としている。今は、エルフリーデとルートヴィヒの二人だけ。
やがてストップウオッチのタイマーがゼロになり、ピピピ、ピピピ、と大きな音を立てて鳴り響く。
最後、エルフリーデは渾身のストレートをサンドバッグに叩き込み、詰めていた息を吐き出して、顎の下をグローブの甲で拭った。
「お疲れ様でした!」
ストップウオッチをポケットに仕舞い、ルートヴィヒはタオルと水を手渡す。
エルフリーデはグローブを外すと、「ありがとう」と言ってそれらを受け取り、水を口に含んだ。
キツいトレーニングの後の冷たい水は、驚くほどに甘露だった。
熱を帯びた身体に染み込んでいく様に喉を伝っていく心地良さを感じながら、また一つ、エルフリーデはため息をこぼして、時計を見た。
もうじき、終業時間だ。仕事も、今日やらねばならないものは全て終わらせてある。
二人して仕舞い支度をしながら、ふと、エルフリーデはルートヴィヒの方を振り返り、口を開いた。
「なぁ中尉。甘いもの、食べたくないか?」
はっと顔を上げたルートヴィヒは、目を輝かせてうんうんと頷く。
「もちろん、食べたいです!」
元気にそういうルートヴィヒに、エルフリーデはニッと笑って、言った。
「なら、帰りにあの喫茶店に行くか。シャワー終わったら、中庭のところで集合だ」
「はい!」
ルートヴィヒは、踵を揃えて敬礼した。
*
橙色の夕日がぼんやりと差し込む喫茶店の店内は、照明の光をそれほど強く設定していないこともあってか、ある種幻想的な雰囲気に包まれていた。
もうそろそろ気候も落ち着きを取り戻し、涼しげになってきたのと、遅い時間だというのもあって、店内は以前のような静けさに満ちている。
「ごゆっくり、おくつろぎください」
注文の品を置き、去っていく店主の顔も、ほんの少しおぼろげに見えるような時間帯。
そんな薄暗い中であるが故か、鼻をくすぐる優しげな甘い香りが、コーヒーの香りと共に際立って感じられるようだった。
綺麗な三角形に切り分けられた、出来立てのアップルパイ。秋という季節には、丁度いい一皿だろう。
断面から見える、層になったパイ生地や砂糖漬けのリンゴが、見るからに美味そうだ。
「それじゃあ、頂こうか」
「ええ!」
エルフリーデは、ルートヴィヒと目を見合わせてそう言うと、フォークで一口大に分け、頬張った。
サクッと、パイ生地が小気味よい音と小麦の香りを立ててほぐれたと思った途端、優しい甘さとほんの少し酸味のある砂糖漬けリンゴの味と香りが、口いっぱいに広がった。
それぞれの香りと味が優しく交わり、調和し合う……それを上手く助けているのは、バターとシナモンの二つだろう。
そして、それらはコーヒーとの相性も抜群だった。
優しい甘さと香りのアップルパイと、ほろ苦いコーヒー。
相反する、けれどもそれ故に見事にマッチした二品が、疲れていた身体を内側からゆっくりとほぐし、癒していくような心地がして、エルフリーデは思わずホッと息をついた。
ルートヴィヒも、それは同様らしい。ほんわかとした表情を浮かべながら、アップルパイとコーヒーを交互に口へ運んでいる。
サクサクというパイ生地の音と、静かに回る換気扇の音だけが、静かな店内に響いていく。
やがて夕日が完全に沈み、窓の外が宵闇に包まれると、店の照明がそれに釣られるように明るくなった。
「……もう、秋ですね」
つい一、二週間ほど前の、まだ明るかったこの時間を思い出しているのだろう。
窓の外を眺めながら、ルートヴィヒがしみじみとそう呟いた。
「ああ、もう、夏も終わりだな」
エルフリーデは頷いて、また一口、アップルパイを口へ運んだ。
次の季節は、どんな美味いものに出会えるだろう。
そんな期待に、胸を膨らませながら。




