十一品目 メロンソーダと転機―後編
「今お連れしますので、少々お待ちになっていてください」
エルフリーデをいつもの席へ通し、メロンソーダを前に置いた老店主は、そう言って奥へと引っ込んでいった。
(ひとまず、会えるような状況ではあるんだな……)
それが分かって、少し安心した。
窓に掛かったカーテン越しに陽光が差し込み、メロンソーダが澄んだエメラルドグリーンに輝いている。
この酷暑の中、全速力で走り抜けてきたこともあってか、ソーダを一口、口に含むと、あの爽快な炭酸と甘みと、懐かしく心が落ち着くトウヒの香りが、より一層身体に染みていくようだった。
気がつくとすっかり空になってしまっていたグラスを眺めながら待っていると、カウンターの向こうから足音が聞こえてきた。
それはゆっくりした足取りだったが、徐々に徐々に近づいてきて、遂にその姿を現し――エルフリーデは、思わず腰を浮かせた。
「レオナ……」
老店主に付き添われて、数日ぶりの再会を果たした親友は、左の頬に大きなガーゼを貼り、松葉杖をついていた。
レオナは目を合わせると、バツの悪そうな笑みを浮かべて肩をすくめる。
「えへへ……かっこ悪いとこ、見せちゃってるねぇ」
エルフリーデはそちらに慌てて駆け寄ると、労わるように、優しく、包み込むように抱き締めた。
「バカ……心配したんだぞ。
仕事終わり、毎日毎日あっちこっち訪ね回って、探したんだ……無事で、良かった」
その胸に顔を埋め、エルフリーデはかすれた声で、言った。
目頭が熱い。呼吸が震える。
数日。たった数日離れていただけなのに、こんなにも不安と恐怖を覚えていたとは、再会して、こんなにも安堵し喜びを感じているとは、自分でも思わなかった。
夕暮れ時の森で迷子になり、必死に彷徨い歩いた末に、家族や友人達と合流できたときのような、どっと押し寄せるような安心感。
エルフリーデは、まさにそんな感情を、密かに、だが確かに抱いていた。
レオナも、それを分かってくれているのだろう。空いている左手をそっとエルフリーデの頭の後ろへ回して、
「……ごめんね、心配掛けて。一人にして、ごめんね」
そう、エルフリーデにだけ聞こえるようなか細い声で、ささやいた。
二人はしばらくの間、老店主がいつの間にか厨房に消えていったのにすら気が付かず、静かに、再会の喜びを確かめあった。
*
「それで、早速なんだが……その、聞いても良いか? 今まで、どこで何してた、とか」
少し落ち着いて、二人は席につくと、老店主がまた二人分のメロンソーダを注いでくれた。
再び彼が厨房へと入っていくのを見送り、いつになくおずおずと、様子をうかがうように尋ねるエルフリーデに、レオナが思わず笑みをこぼした。
「エリー、そんなに心配しなくっても、君のせいじゃないよ。大丈夫……いや、大丈夫ではないかもだけど」
言って、笑みを収めると、レオナは滔々と今回の件の経緯、そしてそれに連なる過去のことについて、語り始めた。
レオナが首都にやってきて、今年で十三年。
エルフリーデが軍人になるより遥かに前から、彼女はこの街で路上生活をしながら、同胞達の為に活動を続けてきた。
軍内部の穏健派やエルフ族に同情的な政治家、官僚達への接触や、エルフ族の起こしたトラブルの仲裁などをする内に、彼女は次第に連邦政府の親エルフ的勢力と強い信頼関係で結ばれることになる。
「……母さん達は、自分らの作った偽造書類の出来が良かったからだと思ってたみたいだけど、実際に君が軍人になれるよう取り計らってくれたのは、軍内部の親エルフ派将校達だったんだよ。
彼らにとっても、わたしにとっても、そして多分、君自身にとっても、君が軍人になることには大きな意味があった」
そうして、そんな彼らの見込み通りに、エルフリーデはその類まれなる才覚をいかんなく発揮し、出世コースに躍り出、首都栄転を勝ち取った。
時を同じくして、西部での紛争を主導する西部軍管区からも、一人の若い将校が首都に移動してくることになった。
「それが、リヒテンベルク大佐だったわけか」
「そう。軍部の武闘派としては、最近勢力を伸ばしつつある親エルフ派に対しての牽制のつもりで呼び寄せたんだろうね。
実際、彼は裏でこっそり密偵まがいのことをやってた様子も見受けられたみたいだし……何について探ってたのかまでは、分からないけど。
ともかく、わたし達は逆にそれを利用しようと考えた」
リヒテンベルクは高潔な軍人として名高い男だ。
実際西部の戦場でも、占領した集落の略奪を厳しく禁じたり、エルフ兵を含めた全ての捕虜に対して人道的に接したりと、いわゆる騎士道精神に則った振る舞いを、部隊全体に守らせていたらしい。
その精神性ゆえに親エルフ派にも共感してくれるのではないかと思い至り、レオナ達はリヒテンベルクを引き込むことにした。
また、彼の出身は没落したとは言え男爵家。旧貴族の人脈を活用できれば、目標にまた一歩近づけるという打算もあったのだ。
かくして、レオナはエルフリーデにも秘密で、リヒテンベルクの周囲を探りつつ、親エルフ派将校達に引き合わせる準備を進めた。
そしてあの日、エルフリーデが家を飛び出して行った後、家のポストに投函された手紙の中を、レオナは偶然見てしまった。
差出人はゲッツ――エルフリーデ達の会合の場で息子を連れてきていた、壮年の男――。
内容は、若い衆がリヒテンベルクへの復讐をしたいと言って聞かないので実行したい。ひいては彼のスケジュールなどを教えてもらいたい、というもの。
レオナは、その文章に違和感を覚えた。
「ゲッツさん、手紙を送ってくるときはいつも手書きの暗号文でしょ? でも、その時だけは、コピー用紙に印刷されたものだった。
あの古風で頑固なゲッツさんがそんなことをするなんて、わたしにはちょっと信じられなかったんだよ」
何か、良からぬことが起きている。そう気付いたレオナはエルフリーデの元から姿を消し、捜査を始めた。
そして、
「昨日の夜、わたしは国防総省の中から出てきたリヒテンベルクをこっそりつけて……連中が、彼を取り囲むところを見た」
現れたのは、若い三人の男だった。
暗がりゆえ顔はよく見えなかったが、もしかするとあの場にゲッツの息子もいたのかもしれない。
「リヒテンベルクは咄嗟にその内一人を抑えて人質に取ったんだけどね、連中の内の一人が、そんなのお構い無しに炎魔法を放ったんだ」
「目的のためなら、同胞もろとも、か」
眉根を寄せるエルフリーデに、レオナは話を続けた。
「彼は何とか人質を庇いつつ飛び退いて、直撃は免れたんだけど、大火傷を負って、気を失った」
このままでは殺されてしまう……そう思った時には、身体が動いていた。
「なんとか彼を抱えて逃げて、安全な場所に隠した後、わたしは連中と話し合おうと思って前に出た。
でもあいつら、全然聞く耳持たなくってさ。結局乱闘になって、なんとか隙を見て逃げ出して……気が付いたら、そこの玄関先で倒れてた」
そして、今に至るのだという。
レオナが話し終わった後も、エルフリーデはしばらくの間呆然と、彼女の顔を見つめていた。
普段はあれほど飄々と、のらりくらりとしているのに、その裏でそんなことをやっていたなんて、思いもよらなかったのだ。
「何故、そこまでしてリヒテンベルクを守る必要があった? こんなに傷ついて、ボロボロになって、同胞と争うことになってまで……」
ようやく、絞り出すように吐き出したエルフリーデのそんな言葉に、レオナは背を伸ばし、ただ一言、
「エルフ自治領の復興と、敵性民族排除法の廃止の平和的実現、かな」
そう言って、はにかんだ。
エルフリーデは、思わず目を見開いて固まった。
困惑の表情を隠せないエルフリーデに、レオナが言う。
「非現実的だって、そう思う? 彼らがわたし達の言葉に耳を貸すはずがないって」
レオナは、それを自分で否定した。
「それは違うんだよ。時代や状況は、今まさに変わりつつある。
大虐殺を主導した現在の主流派は、人権意識の高い列強諸国の圧力や、西部紛争での膨大な出費から、その勢力を日増しに弱体化させつつある。
二十年前、経済危機に見舞われた連邦政府は国民の不満を逸らすために、貧困家庭の多いエルフ族への支援金が国庫を圧迫していると演説し、彼らは何とか生き延びた。
でも、同じ手が今また使えるとは限らない。そう考えている人達が軍の中にも大勢いることは、エリーもよく知ってるでしょ?」
エルフリーデは頷いた。
確かに、そのように考え、一刻も早く何かしらの対応をしなくてはならないと主張する軍人達は多く見かける。
そういう彼らに助力し、勢いづかせてやれれば、もしかするとレオナの言う平和による解決も現実味を帯びてくるのかもしれない。
だが、エルフリーデには一つ、どうしても解せない事があった。
「対話による平和的解決と言うのは、つまりは復讐を諦めろ、と言うことだろう。
奴らのやったことを……私の親兄弟や、お前の親父さん、大勢の同胞を傷つけ、殺し、故郷を奪った奴らの罪を赦してやる、と言うことだ」
レオナは、静かに首を横に振り、諭すように言った。
「エリー、それは違うよ。彼らのやった罪は、未来永劫消えないし、忘れさせてはいけない。理不尽を、簡単に赦してはいけない。
でも、それと同じぐらい、わたしは思うんだよ。復讐の連鎖を、負の遺産を、後の世代に繋げてはいけない、って」
一息ついて、レオナは続ける。
「血は、血を呼ぶ。復讐は新たな復讐の呼び水になる……目には目をでは世界は盲目に、歯には歯をでは、復讐の連鎖に歯止めが効かなくなる。
ゲッツさん達が言ったような手段では、争いは、どちらかが滅びるまで永久に続いていく」
脳内に、あの夜のゲッツの言葉と、熱に浮かされたような、狂気をはらんで光るあの目がよみがえる。
――かつて奴らが女も子供も見境無しに殺したように……我々の大切な家族や友を惨殺したように、我々も、奴らの家族や友を、女も子供も皆殺しにする。
――そうでなければ、釣り合いが取れません。
(あの時、私は彼らに嫌悪感を覚えた)
だが、結局のところ突き詰めれば、自分も彼らと同類だ。
同じ目をし、復讐に息巻き、血に飢えた獰猛な獣……その牙に掛かるのは、ルートヴィヒかも知れないし、ここの老店主かも知れない。
(私は、随分変わった)
この喫茶店と出会ってから、ものの見方も考え方も、大きく変わってしまった。
もう以前のように、この世のガルノード人全てが極悪非道な大罪人だとは、思えなくなってしまっている。
彼らも、エルフ族や、他の民族達と同じで、善人もいれば悪人もいる。
同じ、人間なのだ。
それならば、きっと――
「…………そう、だな」
長い、長い沈黙の末、エルフリーデは頷き、顔を上げた。
「レオナの言う通りだ。暴力で物事を解決する時代は、私達の代で終わらせなきゃいけない。
……きっと、父さんや母さん達も、許してくれる、はずだ」
言って、ふっと心が楽になるのがわかった。
重い荷物を降ろした時のような開放感。鳥かごから放たれた小鳥がさえずりながら飛び回る気持ちが、よく分かるような気がした。
レオナが、心の底から嬉しそうな、安堵したような笑みを浮かべてこちらをじっと見ている。
見つめ合っていると、こちらの心まで、暖かくなっていくような心地になった。
「エリー、ありがとう」
ようやく、そう口を開いたレオナに、エルフリーデは「ただし」と言って、人差し指をピンと上げた。
「条件が一つ、ある」
「……なに?」
エルフリーデはニッと笑って、言った。
「私と一緒に、住んでもらうぞ。また突然消えられでもしたら、困るからな」
カラン、コロン、と、メロンソーダに浮かぶ氷が音を立てる。
透き通った翡翠色にきらめくその向こうで、レオナがやれやれと苦笑しながら、それでも嬉しそうに頷いた。




