2話
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森へ入ってどのくらいの時間が経っただろうか。明け方に村を出てからまだ何も食べていない。二人の腹は朝食を欲して、どちらともなくぐぅと鳴いた。
「失敬。俺の腹の虫が飯を欲しがってる。朝食にしましょうか」
ハンスは自分の腹が鳴った事にして話を進める。
「喋ったのは私の腹だ。そうしてくれると助かる」
ハンスの気遣いを無碍にして、フレイアはそう返事をした。
「そうでしたか。小鳥の囀りかと思いましたが。荷台の鞄に御者台でも食べられる軽食の包みが入っているから取ってください」
フレイアの言葉をさらと受け流してハンスは朝食を受け取った。
「あんたもそこから取って適当にすませてください。水は皮袋に入ってる」
ハンスは鞄をひょいと荷台へと放った。
「干し肉とチーズを挟んだサンドイッチか。欲を言えば野菜も欲しかったな」
フレイアが硬いパンを噛みちぎりながら言う。
「お尋ね者の癖に贅沢を言わないでくださいよ。本来なら俺の食い分だ」
「それは失礼した。大事に頂こう」
フレイアは口の端を引き上げてそう言った。
ちょうど朝食を摂り終えた頃、二人が来た方向から音が聞こえてきた。
森の中をドタドタと蹄鉄が土を踏みしだく音が鳴り響く。複数の馬を急いで走らせている音だ。穏やかではない。
「おそらく追手だな。馬の走らせ方がどこか確信めいている。荷馬車に私がいるとバレていると考えて良いだろう」
フレイアは少し緊迫した口調で言った。胴の皮装備を整え、剣を抜刀する。
「頃合いを見て荷台から仕掛ける。騎士団が話しかけて来たらそれなりに振る舞っていてくれ」
「ひえ〜簡単に言うなぁ。まぁ任せてください。それなりにやるのはそれなりに得意ですよ」
ハンスは右手でぽりぽりと頭を掻いて手綱を握り直す。
騎馬が近いてくる。数は三頭。荷台がない分駆ける速度は速く動きも機敏だ。
二頭の騎馬が速度上げて森道を外れて行くのが見えた。おそらく死角から攻撃を仕掛けてくるのだろう。
残った一人の聖騎士が御者台の横に馬を付けて声を掛けてくる。
「そこの行商人!お前コギト村から出てきた男だな!馬車を停めろ!」
「俺も検問でワインの蓋を開けられて急いでるんです。無茶を言わないでくださいよ」
ハンスが横目に聖騎士を捕らえながら答える。
「荷馬車に女が居るな?馬車を止めないと斬る!お前以外に今日村を出た商人はいない。あの村をひっくり返すほど捜索したが女は見つからなかった。どうやったか知らんが女を連れ出したな!」
騎士は剣の柄を握りながら馬を寄せる。
「言いがかりはよしてくだ……」
ハンスが喋っている間に幌からヌッと刀身が飛び出して、瞬く間に聖騎士の首を落とした。
中途半端に斬られた幌が風を受けてバタバタと音を立てる。
フレイアは荷馬車から聖騎士が間合いに入るのを待っていたようだ。
「もっと早く斬ってくれ。中々助けてくれないから、俺の首が胴体とさよならするかと思いましたよ」
ハンスは安堵しながらフレイアに声を掛ける。
「次が来る。前だけ見ていろ」
つれない返事に肩を落としながらも、ハンスは馬を走らせる。
「貴様よくも!」
森から二対の馬が飛び出して来た。聖騎士はハンスの御している馬を狙って馬を速く駆けさせた。
ハンスは荷台から商品の反物を引っ張り出すと騎馬にめがけて投げつける。
バサッ!
大きな布は翻りながらも馬の視界を覆うと、馬は錯乱したのか上体を大きく逸らし騎士を振り落とした。
「セイルン産の上質な絹だぞ……!」
ハンスは苦渋を飲まされたような顔で転がった騎士を睨みつけながらもすぐに体勢を立て直す。
右方は最後の騎士がフレイアに斬りかかっている最中であった。
フレイアはワイン樽の蓋でそれを防いで、騎士が操る馬に一閃をお見舞いする。
馬は悲痛な声で嘶いて大きく体勢を崩し、騎士と共に地面に転がった。
「装備を置いてきた割には良くやった方か」
フレイアは荷台で剣の血を拭いながら満足げに言った。
「幌の修繕に大銀貨一枚。セイルン産の絹で大銀貨一枚。おまけにワインとワイン樽で合計金貨一枚と小銀貨数枚は下らない。でも命はプライスレスなんで商人としても上々でしょうか」
ハンスはちょっぴり皮肉を混ぜてお返しする。
「その節は本当にすまないと思っている」
「これで名実共にお互いお尋ね者になっちゃいましたね。これからは二人で愛の逃避行だ」
ハンスは茶化したように言った。
「私の命が尽きるまでお前の命は保証しよう」
「まったく、天下の隊長様はつれないお方だ」
フレイアから返ってきた真面目な答えにハンスは肩をすくめた。
「その鮮烈な朱色の髪は逃亡生活では目立ちますね。あんたは有名人ですし、勿体無いが染めちゃいましょう。もう少し走らせたところに馬も休憩できる水場があります」
ハンスがそう言うと、フレイアは一つに縛った髪をさっと剣で斬り落とした。
「確かにこの髪は目立つな。長さも変えておいた方がいいだろう」
「んなッ……⁉︎染めるだけで十分だったろ!」
ハンスはフレイアの突飛な行動に目を丸くしながら言ったが、当の本人はどこ吹く風で装備を整え出した。
「ご自分を大切にしてくださいよ閣下……」
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ハンスの小言を聞いているうちに水場にたどり着いた二人は昼食の準備をしていた。
ハンスは黒くて硬いパンに野菜を挟みながら焚き木で水を温めていた。
「ご所望の野菜ですよ」
ハンスはサンドイッチをフレイアに手渡す。
「欲を言えば白いパンが良かったか」
「はいはい。女王閣下には恐れ入りますよ」
二人はサンドイッチと茶を早々と腹に入れ、染髪に取り掛かった。
「髪を染めると言っていたが、布の様に髪の色も変えられるのか」
フレイアが先ほどから抱いていた疑問を口にする。
「俺がセイルンに行った時、市井では髪の色を変えるのが流行っていました。染髪には、この薬剤を使うそうです。師事していた人に、これは使えるだろうから持っておけと言われて積荷に腐らせていた甲斐があった」
ハンスは先の戦闘で切れた幌を大きく切り出すとフレイアの肩にかけた。
「御髪に触りますよ」
「許可する」
フレイアは興味深そうに薬剤を見ながら答えた。
「光栄です。閣下」
ハンスは丁寧にフレイアの髪を梳きながら薬剤を塗布していく。
「滲みたりしませんか」
「大丈夫だ」
フレイアは満更でもなさそうにハンスに身を委ねた。
人に髪を梳かれるのは案外心地よい。村を出てからずっと息をつく暇もなかった二人に、ようやくゆったりとした時間が流れた。
「少し臭いな。この薬剤は」
フレイアが鼻をわざとらしく摘みながらそう言うと、ハンスはフッと笑いながら川へと彼女を案内する。
「薬剤を落としても、五回寝て起きるまでは残りますよ。この匂い」
ハンスが染料を落としながらそっと教えた時、フレイアはこれまでで一番素っ頓狂な顔をしていた。
ハンスはイタズラっぽい笑みを浮かべながら、水分拭うための布をフレイアに被せる。
「綺麗な黒髪になりましたね。奥に赤みがあって良い色だ」
ハンスが黒紅の髪を指で梳くと、フレイアも水面に映る髪色を見て満足そうに頷いた。
「悪くない。これからは名を呼ぶ時も気をつけろ。そう言えばお前は染めなくて良いのか?」
フレイアは髪を乾かしながら問うた。
「俺の容貌を知っている者は少ないでしょう。俺は有名人のあんたと違ってしがない商人だ」
「そうか?地味だがそれなりに整っているし、気が付かれそうな気もするが……地味だから大丈夫か」
「何回地味って言うんだ。ちょっとだけ傷つきそうになりましたよ」
「傷ついてはいないようだな」
ハンスとフレイアは目を合わせて、それから二人で笑った。