『セガンティー二とチョコレート』。
倉敷美観地区。
白壁の蔵屋敷。なまこ壁に倉敷川の両側は枝垂れ落ちる柳の並木。
この川は江戸時代に運河として作られ、多くの荷を積んだ渡し舟が行きかったが、その役目を終えた後、一時市民の生活からは かけ離れたものになっていた。
しかし、戦後の高度成長期の観光ブームの流れに乗り、今では多くの観光客が押し寄せていた。
桜田という男は、このお堀の様な川を懐かしむように横切ると、その石垣の門をくぐった。
古代ギリシア建築と同じイオニア式の柱。それが入り口。
大原美術館だ。
向かったのはイタリア画家セガンティー二の『アルプスの真昼』の油絵の前だ。
太陽が降り注ぐアルプスの真昼、そこに木を背もたれに麦わら帽子を被った羊飼いらしき女。
80cm四方のキャンパスに描かれたこの絵は、この画家の代表作だ。
彼はどうしてもこの絵が見たく、出張中の合間を抜けてここに来た。
絵の前まで赴くと、そこには一人の女性客が立っていた。
前を塞ぐかの様に、ジッと眺めていた。
ファー付きの黒いレザージャケット、濃紺のロングスカート。
彼も近くで見たかったのだが、彼女は中々動かない。
桜田は意を決して、声を掛けた。
「お好きですか?セガンティー二」
その女は振り向くと、少し引いたようだったがすぐに返事をした。
「ええ」
そして頭の上に乗せていた淡いグラデーションのサングラスを掛け直した。
「初めてですか?」
桜田は続けて聞いた。
「いえ、高校生の頃に修学旅行で。それ以来」
「えっ、僕もです。修学旅行。この絵に魅了されて、いつかまた来ようと。それが今日」
「ええッ、私もですわ。」
「けどね。」
彼女は人見知りをしないのか、桜田が聞いていないのに話始めた。
「ほら、ここに来るまでの倉敷川の堀にね。班行動って言ったかしら?友達と夢中になっておしゃべりしてたら、お堀に落ちちゃって。ここに来たときはびしょ濡れ。先生に「体操服でいいからどこかで着替えて来い」と言われて、この絵の前に来た時はその格好」
「あれま。溺れなくて良かったですね」
「ええ、他の学校の修学旅行生かな?男の子が手を差し伸べてくれて」
何気に聞いていた桜田だったが、思い出した。
「その高校って、大きな真っ白なカラーのセーラー服、、白いリボン?」
「そうよ。そう。えっ、なぜ?なぜお分かりに?」
「助けたの僕のようです。渡橋の手前ですよね? 前見てなかったから欄干にぶつかって落ちたとか言ってた、、」
「私です。その節は、、」
彼女は恥ずかしそうに下を向いた。
「けどびっくりですわね。それ以来初めてここに来た二人が、またここでお会いするなんて」
「どきどきします。あなたのおかげで、僕も体操服でした。あの日、この絵の前。」
二人は軽く笑うと、並んで「アルプスの真昼」を見た。
彼女はまたサングラスを頭に乗せた。
「私、この絵とチョコレートが好きなんです」
「チョコレート?それは画家の名前ですか?作品のタイトル?」
「あっごめんなさい!食べる方。お菓子。ハハハ」
その横顔をチラと見るとあの時の高校生ではなく、気高いくらいに美しい目をしていた。
「また来ます?」
「ええ、一週間ほど出張で滞在するので、時間があれば。あなたは?」
「私は東京なんですけど、一か月くらいはいるかな? ここに来れる時間が取れるかはわかりませんけど、、」
「またお会いできるかな?」
「じゃ、こうしましょうっ。この次お会い出来たら三度目。三度目の正直。三度目が運命」
「運命?」
「容易い運命かもしれませんけどね?」
ーーーーーーーーーーー
翌日、桜田は夕飯をと、この倉敷美観地区にあるアイビースクエアというホテルに向かった。
赤煉瓦に蔦が絡まるアーチ型の門。アーチの内側の灯りが足元を照らす。
修学旅行は贅沢にもここに泊まった。
その中にある「レストラン・蔦」
ここも懐かしい場所だった。このレストランでテーブルマナーを教わった。
そこで夕飯を終えた桜田は、ロビーで珈琲を頼んだ。
「運命かぁ」
「前を通りまーす!すみませ~ん!前を通りま~す!」
ロビーをパタパタと横切ったのは、ホテルのスタッフに囲まれた真っ白なウエディングドレスを着た女であった。
「あっ!昨日の!」
秀でていた彼女の美しさはすぐにその人と分かった。
彼女はここにある結婚式場「洋館メタセコイヤ」にスタッフと共に吸い込まれていった。
「なんだよ、、騙しやがった。なにが運命だよ。結婚式で滞在してたんじゃないか。旅行も兼ねてか知らないけど、、そりゃあ近くたって美術館に来れる時間なんか取れないよな。」
桜田は出て来たばかりの珈琲を喉の火傷かまわず飲み干すと、仕事へとお堀端に向かった。
「こんな物!」
桜田は彼女にあげようと買って来たチョコレートを上着のポッケットから取り出すと、そこに投げ捨てた。
「おいちゃん。ダメだよ。ここにゴミ捨てたら」
母親に手を引かれた子供に諭された。
桜田はそれを渋々拾うとまた上着のポケットに捻じ込んだ。
(マナーって問題じゃないんだよ。子供にわかるかい)
それ以来、一度も美術館に向かわなかった彼は、出張を終えるその日。
セガンティー二の油絵をどうしても見たくなり、足を向けた。
(どうせ、いないだろうし)
館内に入った。
(いた!)
セガンティー二の絵の前。彼女は立っていた。
桜田は素知らぬ顔をして、彼女の後ろから絵を見つめた。
彼女は人の気配に気づいたのか、後ろを振り返った。
「あっ!」
「、、、三度目だけど運命じゃないね」
「え、なぜ?」
「結婚式をしに来たんだろ?おめでとう。」
「え、アイビースクエアにいらしたのですか?」
「ああ、食事をしにね」
「見られたんだ、、それで来なかったのね。時間作ってあれから毎日来てたのに、、会えなかった」
「毎日?なぜ?新婚なのに旦那さんを放っておいてはいけないよ」
彼女はニコと笑った。
「ねえ、あなた。テレビや映画は観ない?」
「僕の家にはテレビはない。映画もたまに見る場末の映画館でやる古い映画くらい」
「じゃあ若木涼子ってご存じないわね?」
「字ずらはどこかで見た事がある様な、、けど知らない」
「やっぱりね。すごく自然だったから」
「自然?」
「私がその若木涼子。職業は女優。」
「え!じゃあもしかして?!」
「そ、撮影よ。あのウエディングドレスの花嫁は私の役よ。」
「そうだったんですねぇ、、」
「私もまさか見られているとは、、けどこれが三度目よ」
「どうする?」
二人は顔を見合わせず、「アルプスの真昼」を見たまま会話を交わした。
「あ、閉館の時間だよ。もう出なきゃ」
二人が美術館を出ると、雨が降り出していた。
「傘もってないわ」
「僕も」
「もう帰る?」
「僕は駅の方、君はホテルだろ?」
「ええ」
「じゃ、途中まで。ほら!」
桜田は彼女と自分の頭の上に脱いだ上着を被せた。
「少しは濡れずにすむかな?」
「ありがとう」
二人は黒と白の排他的な街並みを小走りで駆け出した。
バシャバシャバシャ
「ね、まだ新幹線の時間ある?」
「ああ」
「じゃ、このまま」
「このまま?」
「一緒に」
「え、どういう事」
「三度目が運命だと言ったじゃない!」
「言った!言った!」
「そのまま予約しちゃいましょうよ!」
「予約?」
「アイビースクエアよ!式の予約よ!」
「あ~仕方ない!運命って言っちまったからな!」
二人は強く降り出した雨の中を赤煉瓦のホテルに向かった。
「濡れたら、体操服だ!」
「そうね!それもいいわ!」
その二人を覆った彼の上着のポッケットから、あの時捻じ込んだままになっていたチョコレートが零れた。
白いなまこ壁の蔵屋敷。黒い雨雲。
そこに新たな黒いチョコレートがお堀に溶け込むように雨と共に流れ落ちた。
そこは二人が最初に出会った溺れたお堀の角であった。
しばらく甘い香りが漂った。
※短編『赤煉瓦の喫茶店』
この純文学ジャンルに近い小説です。
長期に渡りご好評頂いております。
宜しかったら是非ご覧になって下さい。