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山を降りる

 咲良と大樹はお互いの弁当の中身を交換しながら食べた。一つ一つに感想を交わしながら食べ進めたせいで時間はあっという間に過ぎていく。汗をかくぐらい暑かった体も春風にすっかり冷やされていた。咲良は小さく身震いをすると、「ちょっと寒くなってきたね」と、空の弁当箱を閉じながら、大樹に言った。


「もう、十六時だからな。じきに日が暮れるんだろう」

 大樹はそれだけ言うとごろりと地面に寝転がり目を閉じた。咲良はその行動に、大樹の帰りたくないという気持ちを読み取る。

「ストレッチ、教えてくれるんじゃなかったの?」

 咲良はそう大樹に言ってから、心の中で付け足す。本当はもう山を降りはじめないといけないけれど、と。でも、今すぐに山を降りてしまうのが惜しい気持ちは咲良も同じだった。


「そうだった」

 大樹はパッと目を開くと体をしならせ、寝そべった状態から一気に立ち上がった。着地点の地面がわずかに傾いていたためバランスを崩してよろける。

「格好つけちゃって」

 おっとと……と慌ててバランスを取る大樹に、咲良があきれたような声を出して笑う。

「目測ミスった」

 大樹は照れたように頭を掻いた。その頭に落ち葉が付いているのに気付いた咲良が手を伸ばして払ってやる。

「ありがとう」

 まっすぐ目を見た大樹から真剣な声でお礼を言われて、今度は咲良が照れる番だった。


「じゃぁ、簡単なところから……」

 大樹は仕切り直すように言うと手首と足首をぶらぶらと揺らしながら「一、二、三、四」とカウントを始めた。咲良も大樹の動きを真似て、それに続く。ストレッチをする二人の声だけが心地好く山に響いた。しばらく大樹の後に続いてアキレス腱を伸ばしたり、腕の筋を伸ばしたり、首を回したりしていた咲良は、一連の動きの共通点に気づいた。


「ねぇ、これ、中学校の時にやらされた準備運動でしょ?」

 咲良の言葉に大樹は、動きを止めぺろりと舌を出すと頷いた。

「どこで気づくかなぁって待ってた」

 目を細めた大樹は、「名付けて、大樹すぺしゃる!」と続ける。

「いや、ただの中学校の時の準備運動でしょ。それを大樹すぺしゃるとか自分のものにしてどうするのよ」

 咲良は裏手で大樹の胸にツッコミを入れ、呆れる。

「……でも。忘れない、だろう?」

 スッと音がしそうなぐらい瞬時に真顔になった大樹が咲良を見つめる。

「……どうかな?」

 その変化に戸惑った咲良が視線を逸らし、その先にあった景色に感嘆の声を上げた。

「ねぇ、大樹、見て」


 咲良は景色から目を離さずに指差して大樹を促す。眼下に広がっていたのは咲良と大樹が住む街。その端にある池にグラデーションの空がうつっていた。水面を境に赤、ピンク、白、水色、紺色と徐々に変化する色と影絵のような建物。波のない池には、ありのままが写し取られていて、まるで水中にも都市があるかのような感覚を呼んだ。

 咲良の隣で大樹が息を大きく吸う音が聞こえた。その吸った量に反して消え入りそうな声が後に続いた。


「なぁ、明日も……」

 大樹が最後まで言い終わるのを阻止するように咲良が言葉を返す。

「ゴメンね。明日は鹿子と約束があるの」

 咲良は大樹の顔を見ずに答える。ずるずると一緒に過ごしてしまったら、この街に惹かれる力を振り切れなくなるのは分かり切っていた。だから咲良は続ける言葉に力を込める。

「ここで、本当にさようなら。だよ」


「……そっか、そうなのか」

 そう答えた大樹が俯いたのが、咲良には見なくてもわかった。やけに綺麗な景色が目に染みて、咲良は何度も瞬きした。

「綺麗だね」

 咲良は景色に意識を向けるようにと、大樹に言葉を投げかける。その時、咲良の両腕に衝撃が走った。咲良は驚いて自分の腕に視線をやる。視線の先には大樹の両手があった。大樹が咲良の腕を痛いほどの力で掴んでいる。咲良は問い掛けるように大樹の顔を見る。大樹の真剣な表情が咲良を捉えた。


「俺と、付き合ってください」


「大樹」

 咲良は状況の変化を必死に自分のなかで整理しながら、不機嫌そうな声を返す。約束が違う。そういう気持ちを蒸し返さない約束したでしょう、と批難の視線を大樹に向ける。だけど、咲良の声にも、視線にも大樹はひるまない。


「俺、やっぱりさ。やっぱり無理だよ。終わりが分かってるからって、お利口に幕引きなんてしたくない。……そんな、賢い人間になりたくない」

 大樹のその言葉には、バスケの苦い思いも含まれていることを咲良は感じた。


「例えば今、私がその気持ちを受け入れたとして、この先。大樹が誰かを好きになったらきっと後悔するでしょ」

 静かに咲良は説明する。

「しない」

 駄々をこねる幼子みたいにイヤイヤと大樹は首を振った。

「……きちんと終われなかった恋を抱えて生きるのは、良くないよ。未来で大樹を好きになった人が辛いと思う。ずっと過去の恋人と比較しながら生きるつもりなの?」

 まるで、母親にでもなったような気持ちで咲良は穏やかに言葉を紡ぐ。大樹に聞かせている言葉は咲良自身が何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。


「大丈夫。二人共を同じように好きになる、なれる……から」

 親指を立てて口元だけニカッと形作った大樹が言う。その返事を咲良が良しとしないことは分かっている、と大樹の目が観念していた。

「いい案でしょ?みたいに言ったけど、それ浮気性と何が違うのかわからないから」

 咲良は、容赦なく強い言葉で拒絶する。咲良が受け入れないことをわかっていても、言葉を紡ぐ大樹に少し苛立つ。


「だけど、だけどさ。だけど……だけど……」


 大樹は言葉を探すように、必死で口を動かして咲良の瞳をいっそう深く覗き込んだ。咲良の瞳の中に受け入れてもらえる言葉が映っているんじゃないかと探すみたいに。


「わがまま言って私を困らせないで」

 咲良の言葉は二人の間に冷たく響いた。その言葉は、咲良の心にも深く突き刺さる。泣くな、泣くな、泣くな。咲良は心を大樹に読まれないように顔を逸らした。ドラマやアニメとは違う。泣いてしまえば目も鼻もみっともないぐらいに赤くなるし、鼻水だってでてしまう。そんなぐしゃぐしゃの顔が最後の思い出だなんてどうしても嫌だという思いが、咲良の目から零れる涙をせきとめている。


「物分かり良くなんて、なりたくないんだよ」

 大樹は眉毛を八の字にして、言葉を繰り返し、情けない顔をする。その声を聞いて思わず視線を戻した咲良は後悔した。大樹は今にも泣出しそうな気持ちを堪えてるようだ。それが痛いほどに咲良に伝わってくる。受け入れれば、この痛みから逃れられる、そんな考えが咲良の頭を過ぎった。


「……今日、一緒に過ごしたことを後悔させないで」

 咲良は大樹の両手を振り払って言う。ハッとしたような顔で大樹が小さく謝る。咲良はそれを許すとも許さないとも返事しない。


 どちらからともなく踏み出した足は自然に帰り道を歩きはじめる。綺麗だった空は深くて暗い色に染まり、無言のままで二人は足元の見にくくなった山道を歩いた。道が平坦になってからも二人は顔を上げず、黙々と歩調を合わせて歩く。街灯代わりのアスファルトは淡くオフホワイトに光り、二人の進むべき道を照らしている。いよいよ一緒に進めなくなるところまで来てしまった。分かれ道で咲良と大樹が同時に立ち止る。


「大樹、私、たまに思い出すと思うよ。大樹すぺしゃる」

 二人の間に流れる重苦しい空気をさらって欲しくて、あえてその名前を口にした咲良。インパクトある名前に改造されちゃったからねと、言葉を続けた咲良は、大樹を見て笑顔を作った。


「うん。覚えていてほしい。……卵焼きの味付け、ちゃんと教えてな。たまに思い出して作りたいからさ」

 大樹も咲良を見て力強く頷いた。


「じゃ、これで」

 咲良が手を挙げて振り、言った。帰り道に手を繋がなかったことが胸を刺したがその痛みをぐっと堪えるように咲良は左右に振る手に力を込めた。

「うん、……」

 大樹はただ頷いて、何事かを言おうか迷うように暫く咲良を見つめ、やがて唇をきゅっと真一文字に結ぶ。回れ右をした大樹が進むべき道へ踏み出した。その背中を咲良は見送る。大樹が見えなくなるまで、咲良はただ手を振っていたかった。


 大樹だけが曲がり角にたどり着いて咲良を振り返った。

「ちゃんと、思い出にできるから」

 咲良に向かって大きく手を振る大樹。その声が濡れているように咲良の耳へ届いたが、大樹がどんな顔をしているのかはあまりに遠くて咲良にはわからない。


「そうしてくれると、私も嬉しい」

 咲良は声を上げる。今度は涙を我慢しなかった。大樹にはきっと見えないと思ったから。

 曲がり角に消えていく大樹の服の裾まで見送って、咲良は自分の進むべき道に向き直る。

 日が落ちて急激に冷えてきたせいだけじゃない寒さに体を震わせ、家路へと踏み出した。


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