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山を登る

 ただ平坦な道を歩くのと違って、斜面を上っていくのは一歩一歩に気合いが必要だ。

 まるで山の斜面に自分を打ち付けて行くみたいにして歩を進めながら、咲良が呻いた。

「運動不足って、こういう時に後悔するのよね」


「その後悔は、山頂にたどり着いた途端に忘れるやつだな」

 大樹は涼しい顔で登りながら軽く言ってのける。半歩ほど先を行って、咲良を軽く引っ張り上げるように歩いているのにその額には汗の一つも浮かんでいない。引っ張ってもらっている咲良と比べ、大樹の方が体力を使っているはずなのに。咲良はそう考え、バスケットボール部だった大樹の基礎体力と、帰宅部だった咲良の基礎体力。その体力ベースの差を見せつけられるように咲良は感じた。鼻の頭にしわを寄せ咲良は何か言い返せないかと考える。


「バスケ部の体力は流石だねぇ」

 結局ろくな反論が思いつかず、ありのまま口にした咲良の言葉に、大樹が一瞬振り返った。暫く言葉を探すように口元を歪ませ、複雑そうな心境を表した顔で返事する大樹。

「元バスケ部だよ」

 大樹は言葉を区切り、山頂をキッと睨んだ。

 目測ではすぐ近くに見えるのに、二人が歩を進めてもちっとも距離が縮まらないのは斜面が急であるせいだった。

「学生の頃はさ、周りの皆似たような生活リズムだろ。学校が生活の最優先スケジュールで。それに大会とかの目標もあったからかな」

 大きく息を吐いて振り向いた大樹は、自分の言葉が咲良にどう伝わったのか確認するように見た。そこで気持ち目を開いた大樹は休憩しようと咲良に宣言するように言う。咲良はそこでようやく自分が息切れしていることに気づいた。

 顔色一つ変わっていない大樹に気遣われて、恥ずかしくなった咲良は、「大丈夫」と意地になって歩を進めようとする。


「無理して登っても山頂で弁当が食べられなくなるからな」

 咲良の無茶しようとする言葉に反論した大樹は、道の端にちょうどよく備えられたベンチを指差し、腰掛ける。リラックスするように背もたれに体を預け、続けた。

「ここにベンチがあるんだから、休んであげないと、ベンチが寂しがるだろう?」

 大樹が笑う。その言葉に意地を張るのが馬鹿らしくなった咲良は、隣に腰掛けた。そして、リュックからペットボトルを取り出して大樹に渡す。


「ありがとう」


 受けとった大樹はしかし、そのペットボトルを開けることなく、道を挟んだ向かい側の茂みをじっと見つめている。


 咲良は自分の分のペットボトルを開けながら大樹の様子を伺った。大きくため息をついて寂しげに揺れる大樹の瞳をじっと見つめ、どう言葉をかければいいのか考える。どうすれば、その心を引き出せるだろうかと、答えを見つけられないままお茶を口に含んだ。


「野球部だったヤツとかサッカー部だったヤツよりは、……マシなんだけどさ」

 大樹が茂みの向こうに何かを探すように目を細めて慎重に言葉を紡ぐ。

 外で行うスポーツの部活は数年前からの異常気象のせいでほぼ廃部になっていた。それは一年の半分を建物の中で過ごし、限られた時間しか使えないグラウンドの争奪戦が激化したためである。努力先にある大会出場、その権利を目標にして練習に励んでいた生徒の悲しみは大きい。どうしてもあきらめきれない生徒が、体育館で野球をしようと言いだし、窓ガラスを割った事件が全国の学校で起きた。プロの世界でも屋根のある球場の使用料金が跳ね上がり、連日ニュースで報道されたほどだ。全身全霊をかけてうち込んで来たものを急に奪われる痛みは想像を絶するのだろうと咲良は思っていた。

 しかし、普段の大樹なら何か別のものと比べて「マシ」なんて言葉は使わないはずだった。相当参っているんだなと咲良は自分のペットボトルをリュックにしまいながら考える。相槌すらも大樹の言葉を邪魔してしまいそうだ。ただ黙って大樹の口から言葉が出てくるのを待つ。


「学生を卒業してしまえば、皆忙しくなって集まれなくなるなんて最初から分かってたさ。それでも社会人チームに残るヤツだけでやればいいと思ってたよ」

 咲良に聞かせると言うよりは、自分自身に言い聞かせるように大樹が言葉をぽつりぽつりと口にした。

「無理に、チームをつなぎ止めようとしたって、楽しくプレーできるわけがないんだよな。分かってる。分かってるけどさぁ」

 咲良はただ黙って大樹の背を上から下へと撫でる。別れは誰にだって繰り返し訪れるものだ。だけどその痛みに慣れることはきっとない。別れの痛みに向き合おうとする背中を撫でる以外何もできなかった。


「あー格好悪いな」

 俯いていた大樹が急に空を見上げ、大きな声を出して立ち上がった。背中をさすっていた咲良の手が置いてけぼりになって、そっと膝の上に戻す。

「ちょっと走って来ていい?」

 その場で軽く準備運動をしながら大樹は言い、荷物を咲良の腰掛ける隣に置いた。

「いってらっしゃい」

 咲良は苦笑した。いつだったか、悩み事は汗で流すに限るだなんて自信満々に言っていたのを思い出す。手をヒラヒラと振り、変わらない大樹の姿に安堵した。

「ちゃんと帰ってきてね?お弁当は一緒に食べた方がおいしいから」

 そう付け足した咲良の言葉に、大樹が茶目っ気たっぷりにウィンクで返事した。そのまま、山の上に向かって走り出す。小さくなっていく大樹の背中を見送りながら、咲良は伸びをして息を吐く。


「大樹は強いなぁ」

 咲良が一人で呟いたその言葉が頭の中で反響する。傷つくことを考えないようにして逃げるんじゃなくて、ちゃんと見つめた上で回復する術を持っている。数日後、背中をさする咲良がいなくなっても、大樹は大丈夫だろうと思えた。

 突き抜けそうな青空をただ見ていると、咲良の瞼が下りてきた。日の当たるベンチはぽかぽかと暖かい。眠気を誘う温もりに包まれて目を閉じてしまいそうになった咲良は首を振った。寝てしまえば、風邪を引いてしまうだろうと想像できる程度に風は冷たい。


 咲良は眠気覚ましに日記の続きでも見ようかとスマホを取り出した。ロックを外そうと画面に置いた指を止める。お知らせの中に、一件の新着メールがあったからだ。差出人は鹿子かのこ、咲良の親友。今ここで内容を読もうか、自宅に帰ってからにしようか迷う。

 もしここで読んだとして。メールのやり取りをする中で大樹と山に来ているような話にでもなれば、鹿子は怒るだろう。

「別れ話をしたのにズルズル関係を続けて、傷つくのは咲良だよ」鹿子はきっとそう言う。咲良を大事に思うがゆえに、正しいことを正しいとまっすぐ表現する。鹿子はそういう人物だった。その言葉は咲良にとって心強くて、でも時に痛い。


「あ」


 咲良は小さく声を上げた。無意識に触れてしまったメール開封コマンドに戸惑う。

「借りっ放しの小説が3冊も出てきたんだけど、いつ返そうか?」

 書かれた言葉に咲良は短く返信する。返してもらったところで捨てるだけだ、もらってくれるならその痛みから逃れられる。

「いいよ、あげる」

 すぐに鹿子からのメールが来た。

「困る。ずっと手元に置いときたいほど気に入った訳じゃない。ゆくゆくもらったものを処分することになるのは辛い」

 端的な、しかし普通なら濁すような話をはっきりと書かれた文面に、咲良の口元が緩む。鹿子らしさにあったかいものが心に広がった。同時に、自分が痛みから逃げるために鹿子を利用しようとしていたことを自覚させられてチクンと心が痛む。鹿子の言葉に責める意図がないのは長い付き合いで分かっていた。ただありのままに心を表現する人なのだ。


 女子というものは往々にして、多くのオブラートに包んだ言葉で会話をするもの。だけど、鹿子は違う。女子グループの中で「かわいい」と盛り上がっている内容に対してでも、「私は可愛いとは思わない」と言い切ってしまえる。場を見て最適な言葉を選ぶことをしない鹿子は「空気が読めない」と反感を買うことも少なくなかった。だけど、鹿子は、周囲からトゲトゲした雰囲気を纏った言葉にさえ「実態のないものなんて、私、どう読んだらいいのかわからないから」と返す。その顔には、なんの敵意もないばかりか、読み方を教えてといわんばかりの純粋さがにじむ。

 厭味のつもりで放った言葉に、そう返されると周囲も毒気を抜かれてしまう。いつもそんな調子なものだから、鹿子は「空気は読めないけど、憎めない子の座」を狭い女子の世界で獲得していた。その座はとても座り心地が良さそうで、でも咲良には手を伸ばせないくらい遠くの位置にある。咲良は口元を緩めたまま返信の文面を打つ。


「鹿子らしいね。じゃあ、明日。取りに行こうか?」

 そう返信を送って直後、鹿子からの返信がきた。

「いや、せっかくだし、遊びに行く。思い出作り。」

 思い出作りの単語を読んだ咲良は、今こうしている時間も引越しまでのカウントダウンを刻んでいるのだと思い出した。



「了解」

 咲良はそう送るとスマホをリュックにしまう。どう時間を使えば胸を張って出発できるのか。大樹も、鹿子も、淳も、咲良よりずっと精神的に強く見えた。咲良は世界中で一番弱い人間になった気がした。

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