日記
咲良は近くのごみ箱にトレーを捨てて大樹の側に戻ってきた。咲良の動きの一部始終を見ていた大樹は、何も言わずに大樹が座っているベンチの隣を手で指し示す。咲良は静かに首を振った。これ以上一緒にいたら、また気まずい話題が二人の間にでてくるかもしれない。だから、大樹の隣に腰を下ろすことなく、咲良は手を振る。
「じゃぁね」
そう言葉にして、大樹の返事を聞かずに咲良は歩き出した。後に残された大樹の姿を考えないようにして。咲良はそのまま歩調を変えずに自宅を目指した。
自宅に続く道を歩きながら咲良は考えた。引越しまでの七日間の過ごし方について。想像していたのは、何も考えるひまがないぐらいの忙しさ。なのに、実際は荷物を片付ける以外、やることがなかった。せいぜい散歩する程度。その散歩も大樹に会ったことで気晴らしどころか、胸に鉛のような重苦しい気持ちが追加されただけ。咲良は気持ちを持て余し、そこから逃げる方法を模索する。
「どうしようか」
咲良はそう言って、いつもの癖でスマホを取り出す。手持ちぶさたになるとついついスマホを見てしまう。悪い癖だと記憶の中にいる母親が咲良に向かって小言を言った。咲良は苦笑いを浮かべ頭から小言を追い出すとスマホ画面を見た。淳の日記、そのページが読みかけにしたまま表示されていた。やることができてホッとしたような表情で咲良は続きを読みはじめる。意識はスマホ画面八割、残りの二割で周囲に気を配った。マナー違反だと咲良の良心が咎める。それを住宅街だから人とすれ違う可能性も低いだろうと、ズルイ気持ちが打ち負かした。
『宇宙船は全部で千機程作られた。それぞれの宇宙船の中には、人が五十年は生きられるように物品や食料が備付けられている。また、消費するだけの時間を過ごすと人はだんだんと精神的に追い詰められるらしい。専門家がシミュレーションで導き出した銀河鬱のリスクを回避するために、農業をできる環境も各宇宙船に備付けられた。銀河鬱とは、宇宙船で長期間過ごすことによって起きるであろうメンタル不調全般を指す。発症より先に病名がつくなんてことも俺は初めて聞いた。実態のない名称に意味があるのかと疑問が湧いたが、人は未知のものを恐れる生き物だから、名前がはっきりしているだけでも安心するらしい。
宇宙船が完成し、いよいよ人類が二つの立場に別れる時期が近づいてきた。地球に残る口の悪い連中の中にはこの宇宙船を”豪華な棺桶”だと揶揄する者も当然いる。これからこの宇宙船に乗る者は、地球に代わる星を見つけるまで地面を踏むことはないのだから。宇宙船による探索は賭けだった。勝率は、低い。そう地球にいる誰もが分かっていた。宇宙船に乗り込む者を見送る者の目は、哀れみ半分、せめてもの幸せを祈っているようなのが半分といったところだった。そのどちらも根底にあるのは、この地球を旅立つ者への憐れみだ。そこまでわかっていても、俺はこの宇宙船に乗る。それは資格があったからだけではない。地球に残される者もまた、”巨大な墓穴”に自らが入っていくのだ。なにせ、今後死ぬまで土の下で暮らすことになるのだから。……もし、俺達が第二の地球を見つけられたならば、巨大な棺桶からも墓穴からも這い出せる。そんな夢物語みたいな使命感に燃えていた。憐れみ合って共に滅ぶよりも、一縷の望みに手を伸ばしたいじゃないか。』
「へぇ、淳さんは前向きなんだ。これから、一生をかけて存在してるかも分からない星を探すのに」
咲良は胸のあたりがチリっと痛むのを感じた。ウジウジと整理のつかない思いを押し込めてもなお、上手に振る舞えない自分とは違う思考。咲良はその思考ができる淳に嫉妬のような物を感じていた。淳は自分の心に整理をつけながら一歩ずつ前に進んで行くように言葉を重ねている。それなのに、咲良自身ときたら……物語の登場人物に嫉妬するなんて滑稽だと咲良は自分を笑いたい気持ちになった。どうにもうまく気持ちの整理がつかないなと咲良は思考を手放す。その勢いで、スマホから顔を上げた。数メートル先に自宅の外観が見えている。咲良は足を止めて迷う。このまま家に帰ってしまえば、片付けが待っているから。
なにか、逃げられるものはないだろうかと、咲良は周囲を見渡した。咲良の自宅を越えた少し先で、九十センチ程度の大きさをしたロボットがアスファルトを剥がしている。モーター音を響かせ、生身の成人男性であれば数人掛かりで持ち上げるであろう大きさのアスファルトを軽々とめくり、脇におく。線を埋めて、アスファルトを戻し、固める。一連の動作が無駄なく繰り返され、ハイスピードで進んで言った。手前におかれた看板には電線を地中に埋める作業中と書かれている。
その工事を見ながら咲良は、淳が書いた日記の文章を思い出した。地下で過ごすことを墓穴に入ると例えていた文章だ。実際のところ今、咲良が送っている生活も大差ないのではないかと咲良は思考する。ここ数年異常気象が続いているせいで、夏の気温は40度を超え、冬は小指の先ほどのヒョウが降りしきっていた。人は春と秋以外の季節を家で過ごすことを余儀なくされている。幸か不幸か、数百年前に流行った病のおかげで、外出をしないでも生きられる環境は整っており、自然現象による生活の変化は最小限で済んだ。先人達がすでに完成させてあった文化にほんの少し手を加えるだけで対応できたことは混乱を最小に抑えるのにも役立った。数年前から問題になっていたヒョウによる電線の障害も、地下に埋めてしまえば問題ない。ニュースで、あと数時間で国中の埋め込み作業が終わる見通しだとやっていた。皆、多少の不便を感じてはいるものの、自然相手では文句を言うわけにもいかない。多くの諦めが咲良の生活には滲んでいた。
「外でご飯食べようかな」
咲良は誰に宣言するでもなく呟く。電線の極端に減った空がそんな気持ちにさせた。ピンクと水色がマーブル模様を描き、そろそろ夕焼けに移る頃合い。
咲良は歩きながら親に夕食は必要ないと連絡を入れた。そのまま淳の日記に戻る。読み終えていた文章をもう一度視線で追い、ちくちくとした痛みを心で感じた。景色を見ながら歩く方が心穏やかに過ごせるのだろうか。だけど電線が取り払われた以外は見慣れた町並みに、強く心を惹かれ続けるほどの力はなさそうだ。逃げようとすればするほど追いかけて来る心の痛みに、咲良はどうすれば良いかわからなくなってきた。
「歩きスマホはご遠慮ください」
咲良の耳に飛び込んできた耳慣れた低音。咲良は、はっと顔を上げる。
「なんでいるの?」
大樹を視認した咲良が問い掛けた。そのままスマホをポケットにしまう。
「なんでって、もっと咲良と過ごしたいから?」
大樹が肩をすくめて片方の眉毛をあげる。
「そんなにのんびりしてていいの?」
「案外、やることってないよな」
大樹は咲良もそうだろう?というように右手を差し出した。
「どこか行きたいところでもあるの?」
仕方なく咲良がその手を握る。大樹は少し考えて、「山?」と言った。
「自分たちが過ごした場所をふかん?で見るとか、ロマンチックじゃね?」
「俯瞰……ねぇ」
咲良がため息混じりに返した。遠くの空が赤く輝いている。今から出発したら登り切る頃には夜だろう。
「今からだと危ないよ。私、夕飯食べようかと思ってたところなんだけど……」
「それもそうか」
大樹は困ったように一瞬口を一文字に結び、よい案を思いついたと嬉しそうに笑って言った「明日も咲良の時間を俺にくれるか?」
咲良は、頭を抱えたくなった。タコ焼きの件で期待させてしまっているのは明らかだった。気は乗らないがお互いの関係性を確認しあう必要があるだろう。恋人未満として過ごすのか、友人として過ごすのか。せっかく伝えた別れの言葉がただの記号になってしまうのは避けなくてはいけない。それは、咲良だけでなく、大樹の幸せをも蝕むだろうから。
「……ねぇ」
意を決して開いた咲良の唇を大樹が人差し指で封じた。
「例えばここで。咲良にキスをするようなことは、しない。大丈夫」
今にも泣きそうに顔を歪めて大樹は言い、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「明日は、弁当持ってピクニックにでも行こう?」
「……うん」
咲良は大きく息を吐いて、返事を返した。分かっているのなら、大樹の思う”別れの形”に付き合おうか。情に負けていることを心のどこかで自覚しながら咲良は考えた。
「さてと、夕飯どこで食べようか」
話題を変えるように大樹が言い、咲良はどこでも良いと答えた。
「じゃあ、咲良が前に、行ってみたいと言ってた店へ行こう?」
大樹が言い、咲良の手を自然に引いて歩き出す。その感覚に取り戻すべきではない懐かしさを感じながら咲良は言う。
「あそこかぁ。でも、ちょっと良いお値段するよ?」
咲良はニ人でいつも行ってたラーメン屋さんにしようと提案しかけて、口を閉ざす。行き慣れた場所に行くのはためらわれた。そこに染み込んだ思い出が蘇ってきそうで怖かった。
「門出の祝いにな」
おごってやるから安心しろと大樹が笑う。その笑顔に咲良は好きになった理由を思い出した。いつだって大樹は笑顔。だから不意に見せられる真剣な眼差しや捨てられた子犬のような瞳が引き立つ。その痛みを少しも逃さずに撫でてやりたいと思っていた。本当は、この先もずっと。
「ありがとう」
心で抱えていられなくなって、咲良は大樹にそう言った。世間的には祝われる門出に抵抗があると、今ここで甘えてしまいたい気持ちが湧いてきてた。咲良は滲んできた涙を大樹にばれないように拭う。
「良いってことよ」
大樹は嬉しそうに笑って咲良の頭をポンポンと撫でた。