さんぽ
「もう限界、もうやだ」
スカスカになった自分の部屋を見渡して咲良は言った。あと、残り一週間。周囲への挨拶時間も必要だとはいえ、ここまで作業を進めておけば何とかなりそうだと咲良は自分を慰める。何ともならなかったとしても、今日はもうこれ以上作業を続ける気力が残っていなかった。
「お母さん、私ちょっと散歩に行ってくるね」
咲良は一階で作業していた母親に声をかける。靴を履き、トントンと靴を馴染ませていると、母親の見送る声が背中に届いた。
咲良が家を出た途端に風が吹き、咲良の長い髪を乱して、空気と混ざって消える。煩わしそうに手でかきあげ、雑に髪を整えた咲良は足の向くまま一歩踏み出した。
咲良は歩きながら景色を流していく。いたるところに咲き誇る桜がハラハラと散っていた。地面にたどり着き安心しているような花弁を風が再び持ち上げて弄ぶ。出会いと別れの季節、振り回される花弁はまるで人のようだと咲良の頭をよぎる。
「別れましょう!」
突如耳に飛び込んできた悲鳴のような声。それに咲良が振り返る。すこし先にある公園の中から、咲良に向かって走って来る女性が見えた。俯き加減に走る女性は咲良が見えていないのだろう。まっすぐ、咲良に向かって突進して来る。咲良は、慌てて体をずらし、ぎりぎりのところで避けた。ぶつからなかったことにホッとしたような空気が二人の間を流れる。女性は一瞬立ち止まり、咲良に向かってぺこりと頭を下げた。咲良が曖昧な笑みを返してみせると、女性は無言でもう一度頭を下げてそのまま走り去っていく。咲良はその女性の小さくなっていく背中を視線で見送った。女性の目には涙が光っていたな、と咲良はぼんやり考え、まぁ関係ないかと心を切り替える。
咲良が再び歩きだそうと視線を前に向けると、男性が悲痛な面持ちで立ち尽くしていた。その男性のほかに人影はない。その様子を見て咲良は、自分が別れ話の場面にたまたま出くわしていたことを知った。この時期だ。別れの理由といえば一つだろうと想像する。きっと遠距離恋愛を嫌ったのだ。それでお互いの気持ちより先に区切りをつけたのだろう。
「わざわざ、ご苦労なことで」
咲良は自分にだけ聞こえる声量で言う。別れ話のために会うなんてどうかしてる。一昔前ならともかく、今は会わないでも気持ちを伝える手段がいくつもあるというのに。例えば立体映像での通話とか。泣きそうになればカメラから少し離れるだけで良い。涙を見せるとわかっていて、わざわざ対面で別れ話する。そこに自己陶酔以上の意味があるとは思えない。咲良は、寒々しいドラマを見せつけられたような気持ちになった。男性にもう一度視線をやる咲良。どこにも撮影カメラなどないのに、悲痛な面持ちのままぴくりとも動かないその様子は、マネキンを彷彿とさせた。何か巨大なシナリオに組み込まれた人間、実はそこに意思なんてないんじゃないだろうか。咲良はそのゾッとするような想像を首を振って否定し、再び歩き出した。
しばらく歩きつづけると商店街の入口が咲良の目に止まった。少し寄っていこうかと思い、アーチをくぐる。
「欲しいもの、ないなぁ……」
連なるお店のあちらこちらに目をやりながら、咲良は呟く。少し前まではウィンドウショッピングが大好きだった。かわいい雑貨や小物を見れば心が躍る。咲良は過去の思い出を思い出す。両手に持った素敵な小物。どちらも甲乙つけがたい魅力を持っていて、でも予算では一つしか買えない。長く見つめ合ってようやく一つに決める。苦労して選び取った雑貨達を家につれて帰る道中はにやける顔を抑えるのが大変なくらいだった。自室で開封して、一番素敵に見える場所に小物を飾る。そうして一歩下がって全体のバランスをみた。所狭しと並んだ小物類に心が満たされた。自分自身を抱きしめてもらっているような部屋はそうやって咲良自身の手で作り上げて生きてきた。
今、その雑貨達はすべてゴミ袋の中にある。目立つところに飾り、大切に同じ時間を共有した小物達。引越先が狭い。ただそれだけ。それだけで早い段階のうちに咲良自身の手でゴミ袋に詰め込むしかなかった。
「好きだとか、ワクワクするだとか。生きていく彩りにはなるんだけれどね」
かつての自分が立ち止まり、じっと見つめたであろうショーウィンドウが視界の端を流れていく。自らに与えられた狭い自由空間に押し込めるほどの物はそこにない。あったとして、それを持ち帰ってしまえば咲良はまた別の物を捨てねばならなくなる。とても何かを新たに買い足そうという気持ちにはならなかった。
さて。かつての自分はどういうふうに散歩していただろうかと咲良が悩みはじめた頃、ソースの良い匂いが鼻をくすぐった。
見れば、数歩先にタコ焼き屋。おばさん型のロボットがタコ焼きを踊らせるように調理している。威勢の良い呼び声。その声に咲良の腹の虫が返事した。周囲に聞こえたのじゃないかと思うぐらい大きな音に咲良は一人赤面しながら、その店に歩み寄る。
「まいど、ありがとうございました」プログラム通りにお辞儀するロボットから湯気の立つタコ焼きの入ったトレーを受けとった咲良。あたりを見渡して一番近いベンチに座る。
タコ焼きの上で踊る鰹節をぼんやりと見つめ、その中の一つを口に運んだ。咲良はその熱さに危うくトレーをひっくり返しそうになり、慌てて持ち直す。そのせいで白っぽいカーディガンの裾にソースが跳ねた。
「ん、もう」
咲良は自分の失態を叱るように声を出し、裾についたソースをぺろりと舐めとる。
「……お行儀が悪いぞ」
心地のよい低い声が咲良の耳に届き、顔を上げた。
「よっ」
片手をあげておどけるような顔で大樹が言う。そのまま咲良の隣に座ると湯舟にでも浸かるような深くリラックスした息を吐く。咲良の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
「食べる?」
咲良は食べかけのタコ焼きを差して言い、しまったというように顔をしかめた。何百年も前に感染症が流行った時、公的な場で食べ物の共有することはマナー違反になっていた。ただ、親子や恋人など一部の関係性に限り、黙認されている。これは専門家が唾液の交換によって免疫力があがる可能性があると指摘したためで、食べかけの食材を相手に勧めるのは、告白にも近い行為だった。
「濃厚接触。感染対策に対するリスクマネジメントの欠如」
大樹がからかうように言った。それでも口を開き、咲良の手からタコ焼きを受け入れる姿勢を取る。咲良は自らの失態が招いた結果を複雑そうに見て、一瞬悩んだ後、大樹の口にタコ焼きを押し込んだ。
「迂闊だったなぁ……」
思ったより熱かったらしい、はふはふと慌てて冷ましながら食べる大樹をみて咲良はつぶやく。
「なんだよ?」
何とかタコ焼きを食べ終えた大樹が咲良の頬を人差し指で突く。大樹と咲良は中学生のころからの付き合いのある幼なじみで、恋人だった。咲良の引っ越しが決まってすぐに咲良が別れを切り出し、関係性はそこで途切れたと咲良は思っている。実際にはその話を聞いた大樹は肩をすくめ、今と同じように咲良の頬を突いた。それだけで、了承する返事も、拒否の返事もされていない。咲良は、無理に返事を聞き、喧嘩になるのが嫌だった。咲良の出発まであと一週間。わざわざもう一度お互いの関係性を確認する手間を取る必要もないと咲良は、逃げの考えを強化した。
生きる場所が違えば自然と心は離れるだろう。そして、心が離れた時、咲良が切り出しておいた別れ話がちょうどよく心におさまればいいと願っていた。
「ところでさ……準備は順調か?」
トレーにあったタコ焼きを大樹と咲良は交互に食べた。タコ焼きの入っていたトレーが空になる頃、大樹が咲良に向かって口火を切る。
「……順調」
咲良は空を見上げて言う。うっすらと雲のかかった空が大樹と咲良の関係性を表わしているようだった。オブラートに包んだ言葉を交わしあい、中に含まれる苦みから逃げている。
「そうか」
大樹はそう言うと、咲良の肩に頭を乗せた。咲良の首筋に大樹の細い髪がかかる。咲良は手にしたトレーを脇に置いて大樹の髪を撫でた。
「どうやって過ごしてきたんだっけ」
咲良は大樹に問い掛けたのか自分に問い掛けたのか分からない位の声で言った。
「幸せに過ごしてきたな」
大樹が咲良の手の感触を味わうように目を閉じ、静かに答える。
「うん。何もドラマチックなことは体験してないけど。幸せだったね」
咲良が答えた。2人の目の前を人が忙しなく行き交っている。こうして穏やかに会話を交わしている時間がとてつもなく贅沢に感じられた。
「中学生の頃さ、”無人島に持って行くなら何を持ってく?”って質問流行ったじゃない?」
咲良がぽつりとこぼすと、大樹は黙って頷いた。咲良は大樹の頭を撫で終えるタイミングを計りながら続けた。
「あれ、大樹は何もってく?」
咲良の言葉に返ってきたのは静寂だった。ひょっとして眠ってしまっただろうかと大樹を見やる咲良。大きく息を吸い、ゆったりと吐き出している大樹。オデコの方から見ているせいか、閉じた瞼を縁取る睫毛が長く見える。
「……かない」
やがて、息を吐いたのと勘違いするほどの声量で大樹が答えた。かろうじて聞こえた言葉を咲良は聞き返し、同時に大樹の頭を撫でていた手を止める。
「ん?カナイ?なにそれ」
「行かない。無人島には、行かない」
大樹が咲良の肩から頭を起こし、すがるような目で咲良を見つめた。
「そういう選択はずるいよ」
大樹が本当に言いたい言葉を聞かないようにして、咲良は目をそらす。脇において置いた空のトレーを手にしてごみ箱を探すように視線をさまよわせながら立ち上がった。