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積もる感情

 咲良が目を覚ますと父親も母親もすでに寝室から立ち去った後だった。咲良は冷え冷えとした寝室をしばらくの間見つめる。キッチンからみそ汁の匂いがしない朝。その寂しさに咲良は自分の両頬を叩いて気合いを入れる。

「大丈夫。予定よりほんの少し早くなっただけ」

 咲良はそう自分に言い聞かせるように呟いた。キッチンに移動した咲良は、ケトルでお湯を沸かす。みそ汁ぐらい自分で作ればその香りを感じるのは難しくないはずだった。味噌と乾燥具を汁椀にいれ、お湯を注ぐ。その香をかいだ咲良は、気持ちが安らぐどころか急速に冷えて石のように固くなっていくのを感じる。


「何かが違うんだよね……」

 咲良の気持ちと対照的にほこほこと湯気を立てる汁椀。それに口をつける気が失せて食卓テーブルに置く。咲良は汁椀を見るともなく見つめながら考えた。何をして過ごせば良いんだろう。何をして過ごして生きてきただろう。

 咲良は自分のこれまで立っていた地面がまるでスポンジか何かに変化したみたいに頼りなく感じた。どんなに力を入れて立とうとしても、その力を地面が分散させ、ぐらぐらと揺れているような錯覚。咲良は自分の両足が床にきちんと付いているのか不安になった。咲良は何度も目で自分の足元を確認する。覚悟はしていたはずだ。何度使ったか分からない言葉を咲良は自分に刺した。それでも、覚悟は脆くも崩れ去り、するすると指の隙間を抜け落ちて行く。そんなイメージが咲良の頭の中でくっきりと描かれて、止まらない。


「えっと」

 咲良一人の声が、からっぽの家に響く。咲良が次に起こすべき行動はなんだろうかと、綺麗に片付いたリビングを見渡す。シンクは銀色に清潔な光を放ち、食器棚の足元には咲良が幼い頃に貼ったシールが今も残されている。所々シールが剥がされているのは、幼い頃の咲良が気に入るまで何度も貼り直したせいだ。インスタントみそ汁がその存在を主張するように湯気を立て、窓の外からは雀の鳴く声がする。


「飲まなきゃもったいないよね」

 咲良は汁椀を手に持った。だけど母親の作ったみそ汁と明らかに違う香りにどうしても一口目がつけられない。こんなに繊細じゃなかったはずなのにと、咲良は自分を笑った。ハハハと、声を出して見れば気持ちが切り替わるかと思ったが虚しさがくっきりとその輪郭を現しただけだった。分かっていた別れ。準備だって重ねてきた別れ。会えなくなったって、母親はどこかで生きているのだ。父親にいたってはきっと仕事だろう。だから、今日も一緒に夕食を囲むのだ。


「あぁ、夕食どうしよう」

 咲良は口をつけないまま再びインスタントみそ汁を机に置く。咲良が宇宙船に乗るまであと三日。父親がいつ旅立つのかは分からないが、いつ最後になってもショックを受けなくても良いような、そんな食事の準備をしたい。そこまで考えて、咲良はレシピノートをもらったことを思い出した。咲良は部屋からノートを持ってきて開く。


「……これでお母さんと同じ味の料理を再現するのは、無理かなぁ」

 一ページ目に書かれた内容を睨みつけるように読みはじめた咲良は苦笑した。横書きノートのページには大きめの文字で料理名が書かれていた。その下小振りな文字で食材と調味料が箇条書されている。箇条書の右側部分には分量の表記。上の行下の行までびっしりと適当、の文字が並んでいた。


「もう、お母さんたら」

 笑い声で咲良は呟く。次のページを開いてみる。料理名と食材、調味料の箇条書。そして適当の文字。咲良がページをめくりつづけて半数を過ぎる頃には、料理名よりも大きな文字で「適当!」と食材や調味料の隣に一括で書かれていた。

「これ、レシピじゃないよ」

 咲良の目から涙がこぼれた。それを拭い、すっかり冷えきったみそ汁に口をつける。喉元を過ぎていく、塩辛く冷たい液体。


 残り少なくなった未読のページに、母親からの言葉を読み終えてしまうことが惜しくなった咲良は読むペースを落とした。そのタイミングを待っていたかのように食卓に置いたスマホが震える。咲良がスマホを手にして確認すると大樹からの連絡だった。そこには一言だけ。「画像見た?」と書いてある。


「あ」


 咲良は小さく声を上げた。昨日からバタバタと感情が忙しかったせいで、大樹からの連絡があったことをすっかり忘れていた。


 一つ前の画像を見る。いつの間に撮ったのだろう、そこにはあの日の夕焼けと二人の名前があった。

「随分と、オシャレなことをするんだね」

 咲良は大樹にそう返す文面を打ち込みながら考えた。どうして皆、別れ際に何かを渡していこうとするのだろう。咲良の中には今までもらったものが既に抱えきれないほど詰まっているのに。


 大樹からの返信を待つ間に、咲良は疑問の答えを誰かが持っているかもしれないと、SNSを開いた。個別に連絡を取るほどではないけれど咲良の人生に交差した人々の生活が切り取られてずらりと並ぶ。例えば、学校の先生、クラスメイト、親戚……そんな人たちが確かに過ごしている日常を流し見る。きっと誰の身にも起きる別れ。そこにともなう痛みの感情をどうやって乗り越えようとしているのか、咲良は知りたかった。

 SNSの中では誰もが、楽しそうに生きていた。話題は大切な人への感謝だとか、旅行に行ったとか、プレゼントしただとかが多い。特に、手作りのものを贈っている人が多いようだった。どこを見ても皆の行動は似たり寄ったり。別れ際に何かを贈りたくなるのは、人間の遺伝子レベルに刻み込まれた本能なのかも知れない。と咲良は考える。だけど、受け取ったものをどう扱っているのかについて書いている人はいなかった。咲良が知りたいのはそこなのに。


「皆どうやって、別れを受け止めてるんだろう」

 咲良はソファーに寝転びながら大樹にもらった画像を眺めた。空でさえ、あるべき色を分かっているように見えるのに。咲良は世界中で自分だけが別れを嫌がって駄々をこね続けているように思えて仕方なかった。


「まぁね。写真があれば記憶は薄れにくいかと思って。ところでさ、卵焼きのレシピは?」

 咲良のスマホが震え、大樹の言葉が踊る。咲良は約束を思い出してぽつぽつと文章を打ちはじめた。大樹に対してレシピを教えるという行為もまた、咲良が大樹の中に何かを残したいと思う本能なのだろうかと考えながら。

 大樹とのやり取りを終えた咲良は空になった汁椀を洗いにシンクの前に立つ。昨夜ここに立ったときはあんなに心踊ったのに。たった二人引き算されただけの変わらない光景。咲良はにじんできた涙を笑った。幼子ではないのだ。泣いたところで現実を誰かが変えてくれる訳ではない。


「ちゃんと、準備できているはずなのにな」

 そうつぶやいた咲良は何度も汁椀の内側をスポンジで擦る。みそ汁を飲んだだけの食器を洗うには過剰な量の泡が汁椀に付着していた。それを流水で洗い流しながら、咲良はこれほど簡単に心もすっきりさせられたら良いのにと思う。皿洗いを終えた咲良は意味もなく家中を歩いた。歯抜けのように物が抜かれている。地下で暮らす者の方が持って行けるものが多い。ロケットの降り注ぐ時間は決まっているから、その時間を避けて、尚且つ奇跡的に品物が壊れていなければ後で取りに戻るのも理論上は可能だった。


 泣いたって現実は変わらないと咲良は痛いほど自覚しているのに、誰もいない家は、咲良の両目からこぼれる雫を拭ってはくれなかった。


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