006 マーマ
版図を広げたプシ国で、事件が起きた。先王后が病に伏したのだ。
姫王閣下となりし朕が、先王后と合うことは、この最近、少なくなっていた。王たるもの政事が忙しい、ということはある。ただ、精霊の掟とか定めとかいうものについては、大老をはじめやたらと詳しいものが臣下には多くいたので、数多ある政事において、朕の役割は、基本的には、満足気に頷くことだけ。むろん、よく分からぬ時や納得ができぬ時は頷かないのだが、その時は臣下の者がオロオロして、よきに計らってくれる。なので、朕が、先王后と過ごす時間を作ることは、そう思えばできることなのだ。
朕はその時間を作らなかった。大老や総婦長などは、そのことを朕が王らしくなった、すなわち、母離れしたものと受け取り、ご立派な姫王閣下などと囃していたが、それは当たっていなかった。
【大抱っこ】様に抱かれ、プシチャクの地を見据えた朕は、やがて、この地を救う決意をするようになった。それは、あの玉座の間におられた先王との温もりを原父として供養してしまうことでもあった。今の朕には、かつての温もりの思い出を先王后と心から懐かしむことは、もうできない。
もちろん、先王后のことは、気になっていた。2年以上お会いしていない先王后は、その間どう暮らしていたのか? 今の病のご様子は? そして、こうした当然の思いに加えて、朕は、ここのところ、もう一つのことが気になっていた。なぜ、朕は、先王のお后を『マーマ』と呼ぶのか。
先王后は、朕の産みの母ではない。先王と同じく体の線が細かったという先大王后は、朕が物心がつく前に亡くなられていた。先王もその事実を知る配下の者たちも、先大王后ではない先王后を、朕がマーマと呼ぶことを、幼心には辛かろう、そのことに結びつけ、受け止めていた。
それは違うのだ。朕は確かに先大王后を知らない。けれども、それと関わりはなく、朕は、先王后をマーマと呼んできた。先王后をそう呼ぶ時、朕は、微かに切なかった。
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そして、ついに、朕は、朕の成人の儀を前に、姫王閣下として先王后を見舞うこととした。大老たちは、政事の一つとして、それを大事にした。幸福の季節の、毎年の決戦で望外の勝利を続けたことで家臣たちは、朕を精霊のご加護の現前者として、崇めるようになっていた。それにともない、何やら、政事もいちいちが大仰になっていった。朕と大老の後ろを、侍医と大医務隊の呪師たちがぞろぞろと続く。朕が、高台に寝かされた先王后のもとへと向かいはじめると、100名ほどの呪師たちによる大合唱が始まった。【大抱っこ】様に抱かれてから先、精霊の加護というものに一切の興味を失っている朕は、その大合唱に何らの感情を抱くことなく、ただ前のみを見て階段を登っていく。
先王后の枕元に朕はひざまずいた。王たる朕がひざまずくことを許されるのは、王より年配の王族のみ。この数代、夭折が続くプシ王家では、朕がひざまずくことができる存在は、王后しかいなかった。
枕元のマーマは、先王后とは別の人になっていた。かつてあった何かを聞き取りにくい声色でつぶやいている。朕はひざまずいたまま耳をそばだてた。そのつぶやきの中には、朕が知らぬ言葉や言い回しが数多あった。朕は、それらの言葉を理解することはかなわぬと思いつつも、マーマのつぶやきを聞き続ける。
かくして、後ろから流れる呪師の合唱を下に、朕は、マーマのつぶやきを永く聞き続けた。そして、朕は自ずと、ある事実を思い出した。かつて、朕も、プシの言葉とは別の言葉を話し生きてきたのだ、ということを。そして、その言葉とは、成人になる前の王族のみが聞かされることになっているという夜伽に記された神聖語のことなのだった。夜伽として、朕がメイドたちに聞かされていた、炬燵での御伽噺の数々は、朕がかつて生きていた世界で話していた言葉なのだった。
それからも朕は、先王后のつぶやきを聞き続けた。マーマのつぶやきはやはり大多数が理解できない。マーマはかつて、朕とは別の世界にいて、別の言葉を話していたのかもしれない。朕は、なぜ朕が、原父の后をマーマと呼びだしたのかを思いだろうとし続けた。それから呪師たちの大合唱がなおも続く中、かなり長い時間は、朕はそうして過ごしたが、『マーマ』という語がどこから来たのかは分からなかった。
階段を降りる朕は、しかし、ひとつ分かったことがある。あの御伽噺で使われている言葉を、朕は話して良いのだ、と。それは朕に、自由、というものをもたらすのだ、と。
大老と侍医と、身分高き呪師たちを前に、朕は、宣言した。
「ご苦労。先王后はこれより、ここでこのまま過ごさせよ。これは大切な儀である。
そして、朕は、これより成人の儀の準備をなす。
大老、明日朝に、朕が親衛メイド6名を玉座の間に呼べ。」
晴れ晴れとした顔で、しかし、厳かに朕は告げた。
「「「ははーっ!」」」
朕が告げた、ひとつひとつは当たり前のこと。しかし、既に精霊のご加護の現前者として崇められている朕が、全身全霊を込め呪いを唱じ続けた呪師たちの声が枯れるまでの長い時を、先王后の前でひざまずき続けた後になしたそのお告げを、皆、重く受け止めていた。
☆
すでに近隣の国々からは大国と目され始めているプシ国は、朕の成人の儀を機に大きく動き出すことになるのだろう。朕には、その儀の前にいくつか確かめておくべきことがあった。