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07. 馬鹿だけど、馬鹿じゃない

 よっこらせ。書類の詰まったダンボールを抱え上げると、無意識に色気のない声が漏れる。借りて来た台車に箱を積むと、わたしは書庫の鍵を持って事務所を出た。世間ではペーパーレス化が進み、この会社でも推奨されてはいるけれど、わたしが所属する経理課はどうしても紙ベースになってしまう。だから二ヶ月に一度は帳票類を整理して、保管義務のある書類を書庫へ運ばなければならないのだ。月次処理を終えて業務に一段落ついたわたしは、朝からキャビネットから溢れ出しそうな書類の束をダンボールに詰め込んでいた。

 ごろごろと台車を押してフロアの端にある資料室の前まで行くと、わたしは軽くノックをして扉を開ける。手前は様々な資料が閲覧できるようにファイリングされていて、その奥にある書庫で経理書類を保管しているのだけれど、わたしが資料室に入ると先客がいた。


「何だ、あんたか」

 分厚いファイルを捲っていた男が、ちらりと視線だけこちらに向けてそう言った。橋本だった。

「何だとは何よ」

 社歴で言えば彼は当然先輩にあたるのだけど、わたしはとっくに気を使うことを放棄していて、愛想の欠片もない対応をする。そしてそのまま台車を押し進めると、資料室の突き当たりにある扉に鍵を差し込んだ。書庫は通常施錠されており、基本的には管理部の人間しか立ち入ることができない決まりになっているのだ。三畳程の矮小なスペースに箱が積み上げられている書庫の中には台車を入れることができず、扉の前で台車を止めると、わたしは腰を屈めて箱を持ち上げようとした。

 その瞬間、資料が詰め込まれたダンボールがふわりと浮いた。橋本がわたしの横から手を伸ばし、軽々と運び上げたのだ。

「あ、ありがと」

「こんな重い物運ぶなら、男に頼れよ」

 橋本は積み重ねられていた箱の一番上にひょいと置くと、呆れたように言った。

「だってうちの部署、おじいちゃんと腰痛持ちしかいないんだもん」

 経理課長は定年間際で、主任は腰痛持ちらしく腰痛防止のクッションを愛用している。ふたりとも手伝うと言ってくれるのだけれど、ぎっくり腰にでもなられたら怖いから、いつも丁重にお断りしていた。

「いや、そうじゃなくてさ。たまたま俺が居合わせたんだから、俺を使ったら良いじゃん」

 そんな簡単なことも分からないのかという表情で、橋本が言う。これはわたしの仕事だしそこまで無茶をしているわけでもないので、当たり前のようにそう言われて、わたしはぽかんと彼を見つめ返した。

「男の方がどうしたって力はあるんだから、そこは使えよ。その方が合理的だろう?」


 あっけらかんと言い放つさまは自然体で、一瞬へえと感心したくせに、けれども可愛げのない言葉がわたしの口から飛び出した。

「合理的だからなんだ。女子にカッコつける為じゃなく?」

 嫌な言い方をしてしまったと、口から言葉を発した瞬間に後悔する。可愛げのない女だとか、おまえには別に良いところを見せる必要はないだろうとか。そう言われるのを覚悟したけれど、橋本は気分を害した風もなく軽口を叩いた。

「そうさ。というわけで、貸しひとつな」

「何よ、男の方が力仕事に向いてるから手伝ってくれたんでしょう? そこで見返り求めるの?」

「もちろん。俺はあんたを手伝ったから、対価として俺に手を貸すこと。な、合理的だろう?」

 当然のように言い放つのが少し偉そうに感じたものの、女だから手伝ってやるではなく、むしろ手を貸した分を返せと言われた方が対等な感じがして気持ち良い。わたしにできることなど知れているのに、一体何を求めているのやらと思いながら、ふざけてわざと混ぜ返してみる。

「わたしは入社したばかりのぺーぺーなんだから、不正の片棒担げる程の権限は与えられていないからね」

「俺は真面目に仕事をしているのに、あんた最低だな。今俺はコンペに参加する準備をしていて、採用されればできるだけスムーズに事を進めたいから協力して欲しいという、超真面目な依頼なのにさ」


 やっぱり馬鹿だな。わたしは何だか可笑しくなった。捕らぬ狸の何とやらで、この男はまだコンペの準備段階にも関わらず、もう契約後のことを考えているのだ。

「何だよ。今回はでかい案件だから、決まればあんたにも奢ってやろうかと思っていたのに」

 営業の給料は売上に伴う歩合制だが、橋本はコンペに勝ってインセンティブを貰う気満々らしい。ついに我慢できなくなって、わたしはぷっと吹き出した。

「頑張って。経理関係のことなら手伝うから」

 努力しないと得られないし、信じないと始まらない。分厚いファイルから抜き取った資料をコピーしている橋本の横顔は、己を信じている顔だった。笑ってしまったけれど、かけた言葉は素直な気持ちだ。

「見とけよ。絶対に採用されるからな」

「期待してるよ。何食べようかな」

「あんたなあ……」

 橋本は呆れたように溜息を吐きながらも、ふと思い出したように言った。

「あの店、毎年秋になると限定メニューで秋刀魚の刺身を出すんだ。なめろうや漬け丼も旨いし、日本酒がすすむぞ」

「へえ、秋刀魚のお刺身は食べたことないな。楽しみにしてるよ」

 秋刀魚は塩焼きのイメージが強いから、生で食べるメニューは珍しくて味の妄想が膨らむ。お腹が空いてくるなと思いながら、わたしは書庫を施錠した。台車を押しながら、じゃあねと言って邪魔しないように退散する。橋本は何かを思いついたのか、資料のコピーに何やら書き込んでいて、わたしの挨拶に、軽く上げた左手だけが反応してくれた。




 橋本が失恋したあの日、駅のホームで偶然見かけた彼をわたしは飲みに誘った。

 けれど、反射的に誘いの言葉を口にしていたので行先など考えておらず、結局前に一度ふたりで飲んだ店に行くことになった。そこは夏のはじめに行った時と同じく満席に近かったが、相変わらず落ち着いていて、客はそれぞれに酒と料理を愉しんでいた。馬鹿な男だけど、良い店を知っているな。口にすれば何様だと絶対に怒られそうだが、わたしは密かに上から目線で橋本のことを評価する。そして、どうやって失恋の傷を慰めてやろうかと頭を悩ませていた。

 そんな風にわたしが色々と考えを巡らせているのを知ってか知らずか、橋本はわたしに食べ物の好みを尋ねてきた。その次に酒の好みを尋ねてくる。経理の仕事内容について興味津々で質問し、営業の仕事を面白おかしく語った。やがて酒がすすむと更に舌が滑らかになり、学生時代の話にまで遡って、子供時代の思い出話にまで行き着いた。同い年だから見ていたテレビ番組や流行した音楽など、共通の思い出には事欠かなくて盛り上がる。


 馬鹿な男だと、優花を傷つけた発言の内容にも発言をした経緯にも、わたしは大いに憤っていたのだけれど。橋本は優花が評したとおりにムードメーカーだった。拗らせるだけ拗らせた想いは伝えられないままに破れたくせに、そんな素振りは微塵も見せず、その飲みの場を盛り上げてくれた。

 きっと心の中では、罪悪感と後悔と色んな感情がないまぜになっていただろう。結局、橋本は優花の名前を一度も出すことはなく、だからわたしもそのことに触れるのはやめた。


「馬鹿だよな、俺……」

 やがて、幼稚園の頃の話にまで遡ってついに話題が尽きた頃、冷酒を飲み干しぽつりと呟いた。

 そうだね、とはさすがに言えなかった。確かに橋本の言葉は許されないし、実際に、大切な同期であり片想いの相手である優花を傷つけた。あの発言がなければ彼の恋が成就したかと言えば、それは分からないけれど、あの発言のせいで自ら可能性をゼロにしてしまった。これまでも似たような会話で傷ついてきた優花は、冗談でもそのような言葉を一度も口にしなかった同級生の手をとったのだ。

「馬鹿だけど、馬鹿じゃないよ」

 橋本は優花に謝罪をして、彼女もそれを受け入れたけれど、自分が壊してしまった関係がまるで何もなかったかのように元どおりになるとは思っていないだろう。目の前で自虐的な笑みを浮かべている男は、そんな馬鹿ではない。自分の不用意な言動が招いた結果を自覚している人間にとどめを刺すことは躊躇われ、だけどチャンスがないのに励ますなんてできる筈もなく、わたしは苦し紛れにそう答えた。


「あんた、肯定するのか否定するのかどっちだよ」

 慰めるつもりだったのに、探し出した言葉は自分でも呆れるくらいに慰めになっていなくて、だけど橋本は気が抜けたように笑った。だからわたしは少しほっとして、わざと憎まれ口を叩いた。

「どっちもだよ」

「追い打ちをかけるのか慰めるのか、どっちかにしろよ」

「じゃあ、お茶漬け食べよう」

「何でそうなるんだよ。あんた、俺には旨いもの食わせておけばそれで良いと思っているだろう」

 拗ねたようにぶつぶつと文句を垂れる橋本の目の前に、わたしはメニューを広げて見せる。そうやって悪態をついたくせに、この店はだし茶漬けがおすすめだと言いながら橋本は店員さんを呼んだ。

「まあ実際、旨いものを食っていれば元気が出るんだけどな」

 そうぼそりと呟くので、わたしは思わず吹き出した。そんなわたしの様子を見て、橋本もにやりと笑う。成り行きで飲むことになったけれど、あの時声をかけて良かったと、わたしは少し酔ってきた頭の中でそう考えていた。

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