僕だけがみる世界
足元に散らばったコンクリートの欠片を、ボロボロのスニーカーで蹴り飛ばしてみる。ころんと転がったそれは、深く避けたアスファルトの深淵に吸い込まれて消えていった。閑散とした空に鳥は飛ばず、ただ不器用に千切られた雲がたなびく。日射はそこそこ強いが、別に酷い暑さという訳でもない。どうせ空調も扇風機も動かないのだから、外で風を浴びる方が少しはマシだ。
僕は、この夢が決して嫌いではない。明晰夢、と言うのだったか。夢と自覚できるこの夢で、僕は自由だ。日常の喧騒を切り落としたぶっ壊れたセカイ、僕だけに許された空間。この夢にいる間の僕は、現実のサブアカウント。許されないコト、邪魔されるコト、面倒ななんやかんやから解放される。
どうしようもない日常ってワケじゃない。まぁそれなりに恵まれていると思うし、楽しみと苦しみが4:6くらいで襲ってくるのだから悪くない。「下」を見ようと思えば見られるし、それで安心する術も身に着けている。「上」を見れば素直に嫉妬できるし、それを糧にする術もなくはない。平凡で、愚かで、一般的な「僕」がうまくやってくれる。
だから、初めてこの夢に来たときは正直訳が分からなかった。僕は別に、世界に滅びて欲しいと思うほどひねくれていないし、それなりに大事な、死んで欲しくないと素直に言える人も何人かいる。もちろん、死んで欲しいと言える人間も何人かいるけれども。
コレが夢だと気づくのに時間はかからなかったし、大した理由もない。あ、夢だなと思ったらそれが正しかっただけのこと。醒めても尚覚えていられるし、ある程度好き勝手に時間を潰せるコレが、僕は気に入っている。下らない日常を丁寧に消化している特典とでも言えばスッキリするだろうか。
だから炎天下も死ぬほどの苦しみではないし、多分この裂け目に飛び込んでみたって起きれば全部リセットされる。デスペナルティのないオープンワールドゲームみたいなモノ。サバイバルっぽい何かを楽しめる、最高で安全なアトラクション。何をしなければいけないわけでもないし、何をしたって咎められることもない。
ガラスの破片を避けて、ボロボロになったコンビニに入る。いつも通りカロリーメイトやらライターやらを物色し、片手に齧りながら外へ出る。別に腹を下す心配もないのだけど、こういう物を食べていたほうが何となく雰囲気があっていいと思う。そう、これは誰にも見せないロールプレイ。
「前回」の記憶を呼び起こして、道路の片隅に置かれたスケートボードを手に取った。ご丁寧に手回し発電機で充電したiPodから延ばした白いイヤホンを耳に突っ込み、そこの擦り切れた靴で大地を蹴る。ぎこちない動きで乗っていれば、風が顔に当たって心地がいい。目的地も帰る場所もなく、ただ走るだけ。良いと思う。毎日毎日、帰る場所と、行くべき場所に縛られて生きているんだから。
何度かバランスを崩しながら、ちょっとトリックでもやってみようと思って転んだ。擦り切れた膝の痛みが、少し懐かしい。ポケットからすっぽ抜けて転がったiPodの液晶にヒビが入り、まぁいいかと踏み潰してみる。足元で最期の雑音を残して消えたテクノロジーの塊を尻目に、煙草を咥える。
17歳の僕に、本来許されるべきではない味が口の中に広がり、煙に咽る。まぁ向いていないらしい、だけど雰囲気を楽しみたかった。思いっきり退廃に慣れ親しんでみれば、多分あの退屈で整然とした日常の味も楽しめるはずだから。口の中の苦味を唾と一緒に吐き散らして、火のついたままの煙草を放り投げる。燃えるなら燃えちまえ、と目を向けた先でそれは、コンクリートを燻して消えた。つまらない。
アルコールも持っておくんだったな、と思い返して歩く。スケボーはそのまま捨ててきた。残念ながら向いてないんだろう。大体、綺麗なモノしか近づけられなかった僕には遠い存在なんだから仕方ない。いい経験になったさ。
沈みかける夕陽を背に、適当な方向に歩き続ける。息抜きの時間がもうすぐ終わろうとしていた。
※
混み合う電車を流行りのJ-POPで乗り切った。別に面白くも好きでもないが、差し当たり聞いておくに越したことはない。知識の貧困は会話に支障をきたすのだから。合わせるべき現実があって、知っておくべきコトが幾つもあって、多少ズレのある僕はそこに大した興味は持てないのだけど。
他愛もない一瞬を、凡人として過ごし続ける。人混みの雑音の中で、一つの雑音に成りきっておくために。耳に残るノイズではなくて、背景に溶け込んだただの自然音であり続けるために。つまらない? 知っているけど、行き過ぎたノイズは消されやすいから。
辛いか、辛くないかで言えば辛くないのだ。装うこと、誤魔化すこと、逃げ続けること。いつしかそれがデフォルトになっていて、装う自分がナチュラルになる。それはもう、装っていると言えるだろうか? とにかく僕は、自分がズレているのを上手く隠せているつもり、だ。
クラスメイトの会話。特に惹かれもしない授業の内容。やらねばならない、と分かっていても乗り気になれない受験対策。日常はちまちまと僕を削り、ニヒリズムに走らせたがる。そんな時こそ、荒廃した夢に思考を走らせて軌道修正。常に優秀な僕を保つ。誰だってそんなもんだろう。秘めてる汚いモノ、見せられないモノ、それをどれだけ丁寧にクローキングできるか。結局凡人の僕ら何てその程度の駆け引きで生きている。
僕は、それが人並み以上には上手だっただけ。色んな所に押し上げられそうになりながら、謙遜のカタチを見せて壇上から遠ざかる。本当はクソッタレた感情に塗れていることを知っているから、周りのバカと、何一つ違いはしないと知っているから。そうやって生きた僕は嘘の塊で、心の奥底で純粋さを羨む。
色んなモノを失くした。いつから? それも分からない。皮を被り続けて生き続けて、その隠れ蓑は何時しか身体の一部へと変わっていた……のだろうか。明確な答えは見いだせないし、別に見つける必要だってない。自分の中に、自分だけが知っている百万個の矛盾を抱きしめながら今日も嘘を重ねる。
談笑の渦から一歩引いた自分を自覚はしている。周りから浮かない程度に、誰かに敷かれた丁寧なレールを進み続ける。意味などない。今日の夕食、明日の朝食、それに困る日々に追い込まれないために今、できることをしなければならない。傲慢だろうか、その未来を掴める自信を持ち歩いているのは。
仕方ないじゃないか。
毎日毎秒、次の瞬間に死ぬかもしれないなんて考えていられるハズがない。現実的じゃない。今を犠牲により良い未来を手にしようとすることが悪いことか? 僕は、希望のある未来を生きたいのだから。誤魔化しに甘えていても、今は諦める。きっといつか、素のままで生きられる時が来る──その時、僕の『素』はどうなっているのだろうか?
内容の入ってこない参考書を閉じ、立ち上がった弾みに音が立つ。周囲の視線が集まっていないことを確認して、僕は階下の自販機に向かった。下らない感情、感傷に振り回されている場合じゃないはずだ。リアリストでいろ。忘れてしまえ、バカげた哲学なんて。生きろ、今を、未来を、生きることだけを考えていればいい。どうせ死に瀕してしまえば、どんな高尚な思想も学も役に立たないのだから。
舌を焼く炭酸、そんなに好きではない。飲めないのがダサい、という小学生の思考で僕はこいつを飼いならす。冷たさが喉を潜り抜け、充満した二酸化炭素が鼻に抜ける。平静であろうと意識する度に、夢で加えた煙草の味を思い出す。現実を見ろよ、と冷笑する自分を取り戻すため、僕はもう一口含む。
荒くなった呼吸を空に放り投げ、足早に階段を上った。まだ続く、まだ長い日常から、逃げないために。
※
──暑い。
制汗シートで首筋を撫で、痛みに似た冷たさが気持ちいい。そろそろ飽きてきたチョコレート味のカロリーメイト。初めて一人で作り上げた焚火は荒々しく、どうにかこうにか沸かした湯をカップ麺にかける。燦燦と輝く太陽は現実よりも数割増しで美しく、その暑さも多少は許せる。
見様見真似で張ったテントもどきでの休息は、『それっぽく』て悪くない。生きている実感、本来なら背筋を掴んで離さないはずの恐怖が、適度なスパイスとして夢を味付ける。今日こそはと飲んだアルコールはぬるすぎて、一口飲んで後は捨てた。冷えた何かを飲みたかったが、その不自由さも受け入れておこう。
何となく吸いなれてきた……ような気がする煙草を吹かしつつ、ところどころを植物に覆われたアスファルトの道を歩く。自由だった。空の広さも、頬を撫でる風も、同じもののはずなのに何もかもが違う。僕がどちらを望んでいるか? 迷いが生じるのは、コレが夢だと知っているからだろうか。
ココでは僕は、生きている。誰でもない僕として、誰のモノでもない僕として、僕が望むままに、僕の好きなように。不幸で、絶望に呑まれた世界のはずなのに、どうして僕はこれほど満たされているのか。それは、これが夢に過ぎないから──という理由だけだろうか。
どこか知らない所に転がっていったスケボーの行方は知らず、捨ててきた──いや、逃げてきた僕はただ歩く。目的地もない旅は自由だ。風一つ、石ころ一つ、そんなものに左右されてみるのだって悪くない。下らない人の山に狭められない道は、信じられないほどに歩きやすい。
楽器店のガラスを叩き割り、過度に装飾されたギターを手に取る。上品、とは言い難いそのデザインと乱雑な掻き鳴らしから生まれる不協和音は汚く、しかし楽しい。完成されていない、欠陥塗れのメロディをでたらめに引っ掻いて歩いた。よそ見しっぱなしの足はふらつき、縺れて、アスファルトの割れ目の空間を踏んだ。
バランスを崩した、それを自覚した瞬間、硬いものに頭が叩きつけられて視界が回る。ギターを放しきれなかった手は不自然に折れ曲がり、衝撃に耐えられなかった顎が舌を噛む。
都合の良い夢が崩れ落ちて、世界が閉じた。
※
甘ったるいケーキをまた、一かけら口に放り込む。美味いもマズイもなかった。そこに僕の意志はない。これは、イベントなのだから。家族が僕を祝う体を成し、僕は祝われて喜ぶ体を成す。飾り付けに反して、不自然な珍脈の支配する食卓。誰もが笑顔を形作りながら、少しだって楽しんでなどいない。
大きくなった、の定型文を後何度聞いておけば、もう大きくならずに済むだろうか。この不器用で不気味な空間を、蹴り捨てて外に出られるだろうか。僕が僕でいる間に、それを成せるかどうかは分からない。
下らない疑問なんて捨ててしまいなさい、と誰かが言った。それを考えてもあなたは幸せになれず、また答えもきっと得られないのだから、と。だから僕は忘れようと努力した。誰かたちが飾り付ける、普通の幸せな人になるために。なのに、僕の頭の底からその下らない、誰の役にも立たない疑問は消え去らなかった。
遅すぎたのか、はたまた早すぎたのか。もう答えは見つからないだろう。飾り付けられたプレゼントの箱は、中身が詰まっていたって空っぽなのだから。弱弱しくて柔らかい手のひらも、馬鹿の一つ覚えみたいに動き続ける心臓も、全部が全部空っぽのまま。全部、全部、何もない──。
だから、か。
僕が、空っぽの世界を夢見ていたのは。
※
痛みはもう遠のいて、ただ動かない体と狭くなった空だけがそこにある。僕は、最期に『現実』に帰されたらしい。甘っちょろい夢の時間は終わって、次は永遠の眠り──悪い趣味じゃないな、と笑おうとしてももう、唇は動かない。
逃げ場所を探さなくていいのなら、ここにいようか。擦り傷塗れの左手を持ち上げて、太陽に透かした。瞼を下ろして、すがすがしいほどからっぽな夢の様な現実に、そっとピリオドを打った。