再び禅寺の厨房で彼女に会うが
2018年のシリーズにおいて、8月の10日から19日まで、10連戦が行われる。せっかく日本から吉原トレーナーがやってきてくれたのに、宮本はこの間の試合においてまだ結果が出せないでいた。
8月23日には吉原氏も日本へ帰国される予定になっている。8月21日と22日に二連戦がある。この二日間で、何とか結果を出して、吉原氏に喜んでもらい、ロサンゼルスの空港で快く見送りをしたい。
8月19日の試合後、宮本は、マネージャーの寺坂のもとに歩み寄った。
「寺坂さん、明日は試合がないので、僕に付き合ってもらえませんか?」
「いいですよ。明日の朝、迎えに行きましょうか?」
寺坂の機嫌は決してわるくない。むしろ、吉原氏が来られて、寺坂の気分は良さそうに、宮本には思えた。もっとも宮本にすれば、うらやましいほどに、寺坂と吉原氏のつながりは強いように感じられた。
自分も早く良くなりたい。宮本は意を結っして、寺坂に申し出た。
「ロス郊外の、あの禅寺にもう一度行きたいのです」
「ああ、いいですね。あそこは空気もいいし、食べ物もおいしい。是非、行きましょう。昼食時までに、あちらに着くようにこちらを出ましょうかね」
寺坂は笑っている。宮本はしかし、ちくりと胸が痛かった。あの禅寺の厨房に居た、女の人に会いたいのだ、いや、あの時の自分の不躾な態度を彼女にあやまりたいのだ。でもまだ、彼女はあの禅寺に居るのだろうか。急に不安になる。だが、その時はその時でしかたがない。ともかく、行ってみなくては話にならない。
禅寺に着くと、宅野和尚が笑顔で迎えてくれた。宮本はホッとする。
「お邪魔します」
「いらっしゃい」
日当たりのよい、日本庭園の見える八畳ばかりの日本間に案内され、そこで休むことになる。畳の上に座布団を置き、そこに座る。石灯籠が見え、一番上の傘のところが、緑色になっていた。そのそばの池も緑になっている。あれは浮草なのだろうかと宮本は思う。鯉はいないのだろうか。鯉がいたら餌をやりたいなと宮本はとりとめもないことを考えている。
お寺の精進料理を、和尚自らが運んで来られる。足を組んでいた宮本は思わず、腰を上げ正座をする。
和尚、寺坂、自分と、三人での食事が始まる。
ご飯の蓋を捕ると、湯気が上った。真っ白なお米。でも、ふっくらと炊きあがっている。お汁茶碗の蓋も取り上げる。が、なかなか取れない。
「少し、ずらして、上げてみたら?」
寺坂の言葉で、寺坂の手許の方を見る。見様見真似で、蓋をずらし、斜め方向に、少し隙間を開け、ゆっくりと斜め上方向に蓋を取り上げる。中からやはり、ほんのりとした湯気がもやもやと湧いてきた。
「出来立てなんですね」
「ああそうだよ」
和尚が笑って答えてくれた。
「今日は、豆腐ハンバーグを出してみたよ」
「あっ、本当ですね。焦げまで付いている。色々と、心遣いをしていただいて、すみません」
「いや、大丈夫だよ。うちの厨房には、立派な助っ人がいますから」
「そうですか?」
宮本はそう言いながら、顔を赤くしている。まだ、あの人はここにおられるのだ。
吸い物を味わう。黄色をした薄いもの。何やら卵の黄身が広がったようなものが上に浮いている。おいしかった。何やら、あの人の指先の匂いが感じられるような面持ちさえした。
「このあいだ、僕がここに来た時のことです。
座禅をしながら居眠りをしてしまった時ですが。目が覚めて、どこに行ったらいいのか迷ってしまって。本堂から厨房の方に紛れ込んだみたいでした。そこの洗い場で、洗い物をされている人がおられまして。その人なんでしょうか、料理づくりの助っ人という方は……」
「ああ、そうかもしれないね。いや、そうでしょう。あの日もこの寺にいたのは、私と彼女だけだったから、きっとそうなんでしょうな」
和尚が笑っておられる。
「実は、迷い込んだ犬のようなものでして、あの時の僕は。ろくろくあいさつもせず、その場を立ち去ってしまいまして。何やら、悪かったような気がし、心残りがしています」
宮本は率直に、自分の心の内を話した。
「それならば、食事が終ったら、このお膳を持って、厨房に行ってみましょうかな。その時、食事のお礼なども行ってもらったら、彼女も喜ぶのではないでしょうかな」
和尚は何事もないような顔をして、そう言われたが、それを聞いた宮本は、胸がドキリとした。たぶん、彼女の前で、きちんと、食事を作ってもらったお礼や、このあいだの失礼な態度についてお詫びの言葉がきちんと言えるか、不安になったような気がするのだ。
再び彼女と会える、それが宮本をひどく当惑させている。それにこの目の前の、うなぎの蒲焼きもどきとか、豆腐ハンバーグが、彼女の手料理かと思うと、何やら食べにくくなっている。宮本はお茶を口にしながら、料理を飲み込んでいる始末だった。
食事が終わり、和尚が席を立たれ、寺坂も立つ。それぞれお膳を抱えて。宮本もそれに習った。和尚が先頭で、寺坂の後に、宮本が続いた。長い廊下を二度曲がったような気がする。と、厨房に出た。あわてて、宮本は顔を俯ける。
「ごちそうさまでした」
和尚の声だった。
「ごちそうさまでした」
寺坂の声だった。
「・・・・・・」
宮本はどうしたことか、声が出ない。
「お膳はここに置いたらどう?」
宮本は、やっと抱えていたお膳を、寺坂のお膳の横に置いた。ああ、これで仕事が終わった、と安心した。さっきの日本間に戻ろうとする。後ろから来た者が、今度は、先頭に立って戻らなくては、と宮本は考えた。
「あれっ、宮本さん、用事があるんじゃないですか?」
振り向くと、寺坂が真剣な顔をして、こちらを見ていた。
「えっ、何?」
宮本の驚いた顔に、寺坂が顔を近づけてきた。小声だった。
「だって、さっき、言っていたじやないですか。お礼とか、お詫びとか、言いたいって」
宮本は、顔が赤くなっていく。
「どうしたら?」
「近くまで行って、きちんと自分の言葉で、相手の人に伝えられたらいいと思いますよ」
そうだよな、と宮本は思う。寺坂の言うとおりなのだ。離れたところからだと、大きな声になってしまう。やはり、ここは、近寄って、適切な音量でお詫びやお礼を言うべきではなかろうかと宮本は考えた。
目の前に女の人がいた。眉が黒々としていた。そして、眉の下の目は大きく見開かれていて、キラキラと輝いていた。
「ごちそうさまでした。どうもすみませんでした」
そう言って宮本は一礼した。踝を返し、厨房を出る。出ながら、何か、また、変なことを彼女に言ったような気がした。
急いで、寺坂に追いつく。
「寺坂さん、僕、座禅堂に行っていていいですか?」
「いいですよ。終わったら、あの食事をした部屋に来てください」
「わかりました」
本当は、座禅などできそうもなかった。しかし、野球以外のことで動揺した姿を和尚や寺坂に見られたくなかった。そして、できれば、単(座禅をする畳一畳分の場所)に上がり、壁に向かって瞑目することで、今の心の動揺をすべて消し去ってしまいたかった。(つづく)