楽しいから野球を、心地よいから座禅を
宮本は、座禅堂に入ると、壁の方に向かって座ることになった。となりの寺坂の方を見ながら、座禅のために、座布団の上に座り、足を組んだ。幸い、見様見真似でやりながらも、両膝は浮かず、両の足裏も上を向いて、安定感を感じることができた。組んだ手も、両方の手の親指の先が触れ合うところで、それがちょうど臍の下あたりに来た。
さらに、横を見ると、寺坂は、グッと腰を前に入れるように座っており、背骨もピンと立っていて、カッコいいなと宮本は思う。
宅野和尚が、後ろの方に立っておられるらしく、背後から、腹式呼吸の仕方を話された。どうやら、息は鼻から行い、口から徐々にゆっくりと長く息を吐いていくらしい。
和尚の声が耳に入る。
「はい、鼻から息を吸って。1、2、3、4。はい、息を止めて1、2。はい、口からゆっくり息を吐いて。1、2、3、4、5、6、7、8と八つぐらい数えながら息を吐いていきますよ。さぁ、息を吐き切りましたね。ではもう一度、四つ数えながら鼻から息を吸っていきましょう・・・」
それを何度も繰り返す。何となくではあるが、宮本は口から息を吐き切ったら、鼻から息を吸うのも楽になるし、しっかり鼻から息を吸っていたら、長く静かに口から息を吐くことができるようになると思われた。
宅野和尚が、「できるだけ長く時間をかけて息を吐きましょう。それによって、体の中にたまっている毒素や無駄なものがすべて吐き出されることになりますから」と言われる言葉が、宮本の耳に快く入ってきた。
「では、これから座禅に入りましょう。もし、雑念が入って、瞑想ができないようであれば、胸の前で手を合わせ、合掌をしなさい。そうすれば、警策で肩を打ってあげますから」
宮本は、深呼吸を繰り返すところで、もはや睡魔に襲われそうになっている。でも、最初から警策で肩を打ってもらうのは、いくら何でも早すぎて和尚さんに失礼にあたると思った。それに、こちらが心の準備が整っていないときに突然木の板で叩かれたりするのではなく、こちらから合掌という合図でもって、叩かれるのだと知り、なぜか安心できる気分になった。
不思議なことがあるものだ。
宮本武雄は、中学校の校庭で、野球をやっている。しかし、なぜだろう、マウンドに立つ宮本はストライクが入らなくなっている。ストレートがすっぽ抜けて右バッターの胸をかすめるようになったり、カーブがホームベースの手前でワンバンドをしてしまうのだ。
「たけちゃん、肩に力が入っているよ」
横を見ると、ファーストを守っている、けいちゃんが立っていた。
「たけちゃんの球なら、誰も打てんから安心して投げたらいいよ」
けいちゃんが笑っている。
すると、セカンドのさだちゃんが、
「打たれても大丈夫。どんどん打たせろや。わしらが捕ってやるから」
と言い、ショートのとよちゃんも、サードのけんちゃんも、
「打たれてもええよ、僕らがちゃんと守ってやるから」
と声をそろえて言う。
キャッチャーのシゲちゃんは、黙ってボールを手渡してくれた。
「よし、わかった。打たせていくぞ」
宮本はそう言いながら、何だか肩が楽になったような気がしたし、みんなと野球をするのは楽しいな、と思った。
ホームプレートを見る。いつの間にかシゲちゃんが座っていて、キャッチャー・ミットを構えている。なんや、えらいホームプレートまで近いな、と思う。宮本は振りかぶって投げようと、少し身をかがめながら、キャッチャー・ミットを見た。身を起こそうとする。しかし、何だか、からだが思うように動かない。
すると、宮本は自分が立っていなくて、座っているのに気が付いた。しかも、足は組んでいて、両足とも足の裏が上を向いている。どうしたんだ、ここはどこだと思った。目の焦点が合う。すぐ手前に、こげ茶色をした壁板が見えた。
(何だ、試合じゃなかった。座禅をしていたんだ)
宮本は振り返る。誰もいなかった。和尚さんや寺坂先輩はどこに行ったんだろう。座禅堂から出て本堂に戻る。そして、本堂の中で、右か左か迷ったが、右に行ってみることにした。本堂を出て廊下を歩いていると、かすかに水の流れる音がした。その音の方に向かう。広い板の間の部屋があった。戸は開け放たれていて、真ん中に大きなテーブルがある。そこには、包丁やしゃもじなどがたくさん並べられていたので、厨房のような気がした。と、そのテーブルの向こうに、こちらに背中を向けた、長い髪をした人がいた。女の人のようだ。洗い場で何かを洗っているような感じだった。
なぜ、こんなところに女の人がいるのか、不思議だった。こういう禅寺で修行しているのは男の人のみ、という先入観があるからなのだろうか。
と、その人が振り向いた。きれいな人だった。宮本はそのとき、男性トイレと女性トイレを間違え、女性トイレの方に入ったような、とても恥ずかしい気持ちになった。
「すみません」
宮本はそれだけ言って、急いで踝を返し、その場を立ち去った。もう一度本堂に戻る。今度は、左方向に進む。廊下を進むと、右手に居間があって、そこのふすまが開いていた。覗くと、そこに和尚と寺坂がいた。よく見ると、二人で将棋を指しているではないか。
「なんだ、ここに居られたんですか」
宮本はちょっと咎めるように、二人に言った。
「宮本君、よく寝ていたね。起こすのがわるいくらいにね。だから警策も使わなかったったんだ」
和尚がこちらを向いて笑っている。その笑顔の中には、怒っているという雰囲気は少しもなかった。
「すみません」
「いいんだよ。眠たいときは眠る。やるときはやる。自然に振る舞ったらいいんです」
和尚の顔は穏やかで、その近くにいてこちらを向いている寺坂の顔も柔らかく微笑んでいた。
宮本は、和尚の少しも咎める調子のない言葉にあっけにとられていた。
和尚が、将棋の駒を置いて、正座をしている宮本に向かった。
「楽しいから座禅をする。心のしこりが取れて気持ちよくなるから座禅をする。そういうことが大切なんです。無理をして、いやいやながらにやることはありません。ただ、一度座禅をしたからといって、それですべてが解決するわけではありません。雑念を払ったとしても、すぐにまた、雑念は生まれてきます。日々雑念との戦いになるでしょう。もっとも、煩悩があっての悟り、雑念あっての座禅とも言えましょうがね」
宮本は、禅問答のような宅野和尚の言葉を聞いていたが、その言葉の意味はなかなか理解できなかった。ただただ、和尚の顔の柔和さを見るにつけ、和尚が発せられる言葉を聞くにつけ、心の中に気持ちよいものを感じていた。(つづく)