寺坂と禅寺に行き精進料理を
試合が終わった。その試合、宮本は8番DHで出場し、ノーヒットには終わったが、それでも第一打席では四球を選ぶことができたし、最終の四打席目はレフトライナーに終わったものの、軸足である左足に重心を残しながらバットを振り切れたので、左右に揺れながら落ちるツーシームの捕らえ方としてはよかったような気がする。もう少し、ボールの芯から下を叩けば、レフトオーバーもできそうに思われ、内心ホッとしている部分はあった。
ダッグアウトを出ると、マネージャーの寺坂が立っていて、ゆっくりと近づいてきた。
「明日は休養日だし、お寺の精進料理を食べに行きませんか?」
宮本は驚いている。めずらしいことだ、寺坂さんが食事を誘ってくるなんて。
「いいですよ。何時にしますか?」
「ロサンゼルス郊外のお寺なんで。午前11時に、お宅のレジデンスに車で迎えに行きます」
「すみませんね。じぁ、そういうことにしましょう」
寺坂のうれしそうな顔を見て、宮本も気分がよかった。寺坂は自分より七つ年上。実際、自分にも七つ年上の兄貴がいる。兄貴も口数の少ない人だが、寺坂もそうだった。それに、兄貴の自分を見る目はいつも優しかったが、寺坂の目もそうだった。寺坂と付き合うようになってから早や8カ月が過ぎる。近頃は寺坂が言うことなら、何でも聞かなくては、という気持ちになっている。
寺坂が運転し、宮本は隣りの助手席にいた。
「宮本さん、実はね、これから行くお寺さんの住職というのが、僕の叔父なんですよ」
「へぇー、それは驚きだね。でも、それは楽しみだし、うれしいですね」
「そう言ってもらえると、僕もホッとします」
「寺坂先輩は優しいから、その住職さんも、きっとそうだろうね、そうだといいな。僕は仏教のむずかしい話はわからないから」
「うーん。でも、僕の叔父さんはちょっと変わっていてね。にもかかわらず、宮本さんを誘ったのは、料理だけは叔父さん、上手だからですよ」
「へぇーっ、そりゃ、ますます楽しみだ」
宮本は宅野和尚と対面した。禅のお坊さんと聞いていたので、目つきの鋭い人かと思っていたが、そうではなかった。とても優しい目であった。誰かの目に似ているな、と思ったとき、それは父親のものだと知った。お盆には日本に帰れなかった。正月には会った父や母がなつかしかった。
8畳ばかりの畳の部屋に案内された。庭は日本庭園らしい。池があり、小ぶりの松の木があり、石灯籠があった。床の間には花が一輪飾られていた。出された精進料理を見た。ひとつのお膳の上には、胡麻豆腐、ハンバーグ、うなぎの蒲焼き、烏賊の刺身、茶碗蒸し、吸い物などが並べられていた。ご飯の蓋を開けると、白い湯気が上った。真っ白で、しかも艶のあるお米だった。
一口、頬張る。
「おいしいですね」
宮本はそう言った。
見ると、宅野和尚がにこやかに笑っていた。
「これはね、島根県の奥出雲町で採れた仁多米というんですよ。日本のお米で有名な銘柄といえば、やはり新潟県魚沼産のこしひかりだろうね。でも、これは島根県仁多産のこしひかり。マイナーでもおいしいものはおいしいだろう?。なにせ、奥出雲町の仁多町というところは、島根県の内陸部なので、昼と夜とで気温の差が大きくてね、おいしいお米が採れるんだよ」
「これは?」
「ハンバーグもどき」
和尚が笑っている。
「ひき肉は使っていないんですね」
「そうだよ。たけのこの根っ子を擦り下ろしたものなんだ」
「ずいぶんと手間がかかっていますね」
「いやいや、今は修行中の子がいましてね。その子に今日は料理を手伝ってもらいました」
そのほかにも、ぷるんぷるんした胡麻豆腐、温かい吸い物、香ばしい精進うなぎの蒲焼きと、どれもおいしく、宮本は乾いた心に霧雨が降り注いでくるような気がした。
食事が終わると、茶室に移動することになった。本堂の前の縁側を通る。戸が開けられていた。
「あれっ、本堂の中に、仏さまがおられますね」
宮本の声に、案内役の宅野和尚が振り向かれた。
「ええ、うちの寺のご本尊さまです。禅宗といえば、座禅のみが修行と思われがちですが、朝はわたしもこの本尊さまの前でお経を唱えます。般若心経とか修証義といったお経を読むのです」
「そうだったんですか」
「むろん、お経を読むだけでなく、阿弥陀経、般若経、法華経などの経典の本も勉強しますよ」
「そうなんですか?」
「はい、そうですよ。生涯一書生。常に仏典をひもどくのです。それは教学ともいい、大切な修行のひとつなのです」
宮本はびっくりする。お坊さんというのは、若い修業中の身はともかく、住職ともなれば、すでに悟りを開かれていて、もうお経本の勉強などは卒業されているとばかり思っていたふしがある。
茶室で、お茶をいただく。抹茶の前にお菓子を食べなさいと言われ、お菓子に手を伸ばす。表面に白い薄皮が付いたお饅頭だった。頬張ると、中にはこしあんの餡子が一杯詰まっていて、しかし、その甘さは甘すぎず、抑えてあった。
そのお菓子は、『朝汐』という名の和菓子と教わる。和尚には島根県の松江市に住んでいる友人がおられて、その友人から送られたものだという。
緑色をした抹茶を、隣りに座っている寺坂のまねをしながら、両手を使って飲む。少し苦かった。でも不思議なことに、前に食べた和菓子のせいか、口の中で、そのお茶の苦味は何かしら、まろやかなものになっているような気がした。
宮本は何やら心が落ち着いたので、思わず口から言葉がすべり出た。
「僕は、座禅などやったことがありません。僕なんかでも、座禅ができるのでしょうか?」
「できますよ。物は試し、やってみますか?」
宅野和尚の言葉に、宮本は心がはずむ。
「是非、お願いします」
宮本は、寺坂とともに、禅堂へ案内される。寺坂も付き合ってくれることになり、宮本は座禅が初体験ながら、胸の内に安心感が広がっている。寺坂の隣に宮本は座った。寺坂は平素からあまりしゃべらない。でも、何か不安になったとき、寺坂の顔を見ると、宮本は安心する。そして、寺坂の穏やかな顔に、実兄の優しい笑顔が重なるのだった。(つづく)