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小野の妹萌語  作者: John B.Rabitan
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第二章

 この年の初午は、二月の八日だった。

 今年のそれは大学寮の一大行事(イベント)である釈奠(せきてん)の二日後だった。

 初午とは伏見稲荷の創建に関係する大祭で、都がまだ奈良だった頃、それもどっか他の場所から奈良に都が移ったばかりの頃っていうからかなり遠い昔の話だ。詳しく知りたい人は自分で調べて(ググって)くれ。

 とにかくこの日は猫も杓子も都の南東の伏見稲荷に参拝に行く。

 俺は旬暇の日ではなかったけれど、特別に休みをもらった。裏で親父が手をまわしてくれたらしい。

 それにしても釈奠(せきてん)の直後が初午で本当によかった。

 釈奠では儒教の経典からその年の選ばれた題目について論議をする。終わると酒宴だ。酒宴といってもこの時は博士に質問したり、詩を作ったり討論したりで、宴を楽しむなどというものではない。

 何しろ学問の祖ともいえる孔子様を祭るのが釈奠(せきてん)なのだから、数日前から準備とかなんとかで大忙しで、もし釈奠(せきてん)よりも初午の方が前だったりしたらどんなに妹の頼みでも、またどんなに親父が手をまわしてくれたとしても、俺は大学寮を休むことなんか絶対にできなかっただろう。

 ま、妹殿とご一緒するといっても、さすがに俺と妹との二人で手を取り合って出かけるわけではない。

 まずは大人の侍女が二人、少女のお供が二人、少年のお供が四人、これだけの人数をつれてである。みんな思い思いに着飾って、まさにお祭りだなと思う。

 朝桐もいろんな色を重ねた着物の上に桜色の上着、花染めの背子(ベスト)という姿で、めっちゃ色が映えていつにも増して輝いてた。

 しかも、朝桐だけは車に乗って出発だ。車は昔からあったことはあったそうだが、都が平安京になってから急に流行(はや)りだした牛が引く車だ。でも、まだまだ珍しく、そうそう見かけるものではない。これまではずっと偉い公卿といわれる貴族専用の乗り物だったけれど、やっと最近になって俺たちのような下っ端貴族も乗れるようになった。こんな車を、親父が持っていたなんて意外だ。

 ばかでかい車輪が二つ、その間に屋根のついた乗る場所があって、長く突き出た日本の棒の間に牛が入って引いていく。牛の隣には、牛を操るのが専門の少年がいて、牛を引いている。

 早さは歩いているのと同じくらいで、別に時間の節約にはならないが、ただ座っていればいいのだから楽だということだ。もちろん、乗っている人は、ということだけど。

 その乗っている人というのは朝桐だけで、ほかのものは皆徒歩。

 俺に至ってはお供の一行の中にも入っておらず、まるで関係者ではないような感じでその一行の後ろをちょっと離れてついて行っているという感じだ。

 車は四人くらい乗れそうな大きさだが、供のものを乗せることなんかできない。俺でさえ乗れない。なぜなら、朝桐のような異母妹でなく純正の血を分けた同母兄妹であったとしても、あるいは夫婦でさえも、男女が共に乗ることは許されていないのだ。……未来人の君たちが誤解するといけないので、「今の時代ではまだ…」と言っておこう。男女関係なくともに牛の車に乗れる時代が来るのも、そう遠くはないと思う……。

 まだ薄暗い早朝に出発した車まずは西大宮大路を柳の街路樹が続く真ん中の川にそって一気に南下し、都の最南端の九条大路を東に行き、五重塔がそびえる西寺の門前を通過すればすぐに巨大な羅城門が見えてくる。門は建てられてからもう三十年近くなるというのにまだまだ真新しく、朱塗りの柱も緑の瓦屋根も春の日差しを浴びてきれいに輝いている。

 その羅城門とは反対側の、道の左右に柳並木が続くだだっ広い朱雀大路がずっと見えなくなるまで遠くにまっすぐに続いている光景は圧巻だ。

 広いだけで全くといっていいほど人通りはない。

 ようやく昇り始めた日の光が、そんな光景を温かく包んでいる。

 そう、もう春なのだ。まだまだ寒い日が続くけれど、日差しの中には明らかに春が感じられた。

 車は羅城門の脇にある小門から出る。羅城門自体には何段かの階段の上なので、その段差のせいで車は通れない。面倒だから段差なし(バリアフリー)にしろよ……と思う。

 しかも門といっても、その築地塀は門の左右数間(数十メートル)くらいしかなく、あとは塀も何もない。

 聞くところによると、唐の長安城はその周辺をものすごい高さの城壁で囲まれているということだそうだけど、ま、我が国は巨人が進撃してくることもなさそうなので城壁はいらないのか……え?(なんのこっちゃ)

 それはいいにして、そのまま車とその周りを歩く供の人たちは田舎道をなんかし、やがて大きく左に曲がって東の方へと進む。

 そのあとを俺がぽつんとついていく形は本来なら傍からは妙に見えるだろう。でも、今日は大丈夫。なぜなら同じ方向へたくさんの人がぞろぞろと歩いていて、道は人でいっぱいだからだ。

 みんな伏見大社の初午のお祭りに行く人たちのようだ。

 やがて東山からの続きの峰ではあるが、ちょっとした山が東へ向かう俺たちの前方に居座るようになった。人びとの群れはその山へと吸い込まれるように続いている。

 あの山が稲荷山で、その中腹から山頂にかけて社殿が点在しているのが伏見稲荷だ。上ノ社まで行こうとすると、ちょっとした登山となる。当然、車では行かれないので、麓で車から降りて歩いて登ることになる。

 朝桐は頭脳は確かに明晰だけれど、体力は果たしてどうなのか……未知数だ。

 山の麓にちょうど車を停めておくのによい広場があったので、その適当な所で車を置いた。まだまだこの牛が引く車は普及しているわけではないし、一般庶民には関係のない乗り物なので、停めてる車も数えるほどしかない。

 そして、車に積んできた朝食を朝桐たちは適当に石などに座って食べている。

 小豆と煮込んだもち米の屯食(握り飯)だ。俺も、少し離れたところで、自分で持ってきた同じ屯食(握り飯)を食べた。

 「お兄様! こちらでご一緒に」

 朝桐がそう呼んではくれたが、俺は遠慮して手を横に振った。なんか俺の中で照れがあったのだろう。朝桐だけならまだしも、その供の大人の侍女たちも一緒というのがどうにも照れくさい。

 食事が終わると朝桐たちは、牛を扱う(少年)を一人残して山へと向かっていった。もちろん、俺もそのあとを少し離れてついて行った。

 ここから山を見上げるとその高さに、これからあれに上るのかと思うと足がすくんでしまう。この広場、遠い未来にはこの場所に本殿が建って、山に登らずとも参拝できる日が来るといいな。

 そんなことを思っているうちに、朝桐たちはもう山へと向かっているので、俺も置いて行かれないように急いだ。何しろものすごい人出である。ボサーっとしていると見失ってしまう可能性もある。この人混みの中ではぐれたら、探すのはかなり大変そうだ。

 まずはなだらかな坂道だった。だが道幅はそんなに広くはなく、そこを大勢の人が登るのだから自然とゆっくりの足取りになる。しかも、登る人だけならまだしも、参拝を終えて下って来る人も同じ道ですれ違うのだから、時には立ち止まらなくてはならないこともあるほどの人の大渋滞だ。

 え? なんだって? 伏見稲荷といえば延々と続くおびただしい数の赤い鳥居のトンネル? 俺たちの時代には、そんなものない!

 坂道を登る人混みは多くは庶民だが、ここでは貴族も庶民もなく、全員が一蓮托生だ。

 俺はここでも朝桐たちとは少し距離をおいて登っていたので、朝桐に直接話しかけることは困難だった。

 そんな感じで時間をかけて登っていくうちに木立の中の道はだんだんと急になり、ただの坂道から山に登っているという感じになってきた。

 この辺まで来ると渋滞も解消し、すいすいと登れるくらいにはなっている。それでも人は多い。

 そうなるとやはりきつい斜面の登山とだけあって、俺の周りの人々は肩で息している人も多いし、ほかの人たちに着いて行けなくてゆっくりになっている人の姿もある。

 でも、俺の少し前を歩いている妹はというと、意外と軽い足取りで上を目指して進んでいる。お供の侍女の方がまいっているようで遅れがちだ。やはり若いだけあって体が軽いのかもしれないが、それなりに鍛えてあって、ただの才色兼備の深窓の令嬢ではなく、さらにそれ以上の二物を天に与えられている。

 俺も陸奥の山野で弓馬で慣らした頑丈な体のつもりでいたけれどこの正月で二十一歳、今まで通りにはいかないようだ。

 そうして四つ辻の見晴らしのきくところまで登ってきた。

 登る人は右に曲がる。直進の道は下って来る人ばかりで、ここで右に折れて頂上を目指し、ぐるっと回ってまっすぐな道へと降りてくることになる。

 つまりここから先は一方通行となるので、すれ違う人という妨げがなくなるだけに、進もうと思えばこれまでよりも順調に進めることになる。でも、道はますます急になってきつくなり、たいていの人は足取りが遅くなっている。

 振り返るとここだけ森が途切れ、都の南は環に当たる盆地と、その向こうの山が一望できて素晴らしい眺めだ。手つかずの原野と水田が混在し、その中を鴨川が大きくうねりながら横たわり、かなりの川幅になっているところも見える。

 もうこんな高さにまで登ってきたのかと思う。

 ここで休憩する人も多いけれど、朝桐たちの一行はさらに森の中の道を上へと進むようだ。

 これまではすれ違う人がいたから、思い思いにこれから行く先の道の情報を得ることができた。

 「この先は道が急ですか?」

 「あとどれくらいでお(やしろ)ですか?」

 などと、下って来る人にすれ違い際に尋ねている人々の光景が周りでよく見られた。

 そういった情報によって、この四つ辻を過ぎると最初のお社である下ノ社(しものやしろ)はもうすぐだということが分かっていたので、妹たちも休まずに進むことにしたらしい。ここまで聞こえてくる従者たちの会話からもそれが分かる。

 たしかに山の中腹の森の中に、立派な社殿が見えてきた。

 あれが下ノ社のようだ。

 日が昇る前の早朝に出発したのに、もう日は中天近くまで昇っていた。すでに巳の刻(午前十時)くらいにはなっているだろう。

 社殿はまだ真新しい。朱塗りの柱も鮮やかだ。その柱に、今日が初午の日である印の杉の木で作った青山飾りがつけられていた。

 この稲荷の社自体は創建から百年以上たつけれど、今の社殿が建設されてからはまだ五、六年しかたっていない。だから目新しいのだ。

 ここまで登ってきた人はようやく一息つける。まだ春なのに汗ばんでいる人も多い。だが、休んでいるうちに本来の空気の冷たさを感じ始める。

 朝桐たちも社殿の前の一角に座って、体を休めていた。

 俺はようやく朝桐のそばに行った。侍女の大人たちも俺はもう顔見知りで、二人とも俺の姿に愛想笑いで軽く会釈してきた。

 俺は座っている朝桐の脇に立った。

 「どうだ? 大丈夫か?」

 健康そうな笑顔で俺を見上げた朝桐は、さらににこりと笑った。

 「お兄様こそ、お丈夫なのですね。陸奥で鍛えておられたということですものね」

 「ああ、都に戻ってからも弓馬ばかりたしなんでいて勉学をしないので、帝からお叱りを受けた」

 「ええっ? 帝から直接? たとえお叱りであったとしてもそれってすごいことですわ、驚きました」

 「いや、目の前で(じか)に叱りいただいたのではないさ。帝がそうおっしゃっていたということを親父が人づてに聞いて教えてくれた」

 そう言いながらも俺は苦笑して、朝桐の近くに座った。たしかにそれがきっかけで、俺はまた勉学に目覚めたのだ。

 「まだこれで最初、さらに中ノ社、上ノ社と登っていかなきゃならんぞ、大丈夫か?」

 「ええ」

 また朝桐は、にっこりと笑った。

 考えてみればこれが、今日の朝に屋敷を出てから朝桐と交わす最初の会話だった。道中は朝桐は車の中だし、俺も少し離れた所を歩いてきたので会話を交わすすべもなかった。朝桐が車から降りたらすぐに登山道で、またものすごい人混みであったし、ここでも俺は少し離れて歩いていたので話しかける余裕もなかった。

 だから、こうして今やっと、会話を交わすことができたのである。

 ここからは森の木立に阻まれて、山の下の景色はほとんど見えなかった。

 広場にひしめき合っている人々はある程度休むと、社殿の前に行って立ったまま参拝する。それもすぐにできるわけではなくなく、順番待ちの行列だった。

 我われは社殿の脇から玉垣の中に入り、取次の神官に侍女の大人が我われの身分を告げていた。

 俺と朝桐はすぐに社殿の中へと案内され、板間に敷いた円座の上に座って参拝し、神官が大幣(おおぬさ)を振ってお祓いもしてくれた。

 それが終わって我われが退出する時に、次の貴人の参拝者とすれ違う形になった。でも、参入口と退出口は別なので、直接にすれ違ったわけではない。その参入してきた貴人の顔を見て、俺ははっとした。

 俺の知り合いだった。

 だけど、大声で呼ばなければならないくらいの位置にいたし、そうすると体裁が悪いので俺は声をかけずにいた。

 でも、向こうは俺には気づいていないようで、むしろその視線は朝桐をじっと見つめていた。

 ――美濃介(みののすけ)か、やばいな……

 そう、やばいやつなのだ。女に手を出すのが早いことで、仲間うちでも有名だから。

 そもそも友達が少ない俺だけど、その数少ない友達の一人がああいうやつなのだから困ったものだ。

 とにかく俺たちは参拝を終えたので退出し、さらに山を登って次の中ノ社を目指した。

 もうほとんど頂上近くまで登っているので、これからの道は上へ登るというよりも横ばいだ。むしろ少し下っているようにも感じる。

 もう、こんな山の上だし遠慮もいらないので、俺はほとんど朝桐と連れ立って歩くようになった。

 「下の景色は全然見えませんのね」

 朝桐は少し不満そうだ。たしかにこんな高い山の上なのに木立のせいで山の下の景色もほとんど見えず、単調な風景の森の中を道は続く。

 「確かに、山の下から見た時も、お(やしろ)の屋根は全然見えなかったからなあ」

 多くの人は先ほどの四つ辻でもう限界を感じて、断念(リタイア)してしまう人も多い様子だった。それでも、まだまだ大勢の人たちが同じ道を進んでおり、それに混ざって俺たちは歩いた。

 しばらく行くとまた道は上り坂になった。三つのお社はそれぞれ三つの峰の頂上にあるので、一つのお社から次のお社の行くにはほんの少しだけ下ってまた登ることになるが、まあ意識的にはほぼ平らな道で歩きやすかった。

 でも、中ノ社近くになるとまたかなり急な上り坂となって、これはかなりこたえた。

 中ノ社でも同じように、外で立って参拝する庶民を横目に、俺と朝桐だけは昇殿して参拝できた。御祭神は宇迦之(ウカの)御魂(みたまの)大神(おほかみ)。聞くところによると、そのウカ様という神様はめっちゃ美人(美神(びじん)?)の女神様だそうだから、目に見えるものならばお会いしてみたいものだ。

 なんて、その必要はないな。俺の隣には、たぶんもっと美人の女神様が……いや、なんでもない。こんなこと言うとウカ様がそっぽを向かれて、ご利益がなくなってしまう……。

 参拝を終えて退出の時、俺はまた気を配った。あの美濃介がまた現れるんじゃないかと思ったからだ。でも幸い、やつの姿は見かけなかった。

 そこからまた道は少し下ってすぐに登りになる。今度はかなり急な坂だ。何しろ最後の上ノ社はこの稲荷山全体の山頂に建っていて、それなりの高さがあるようだから今度こそ、景色が一望に見えるかと期待していたけれど、やはり何も見えなかった。

 さすがに朝桐の足取りも重くなっている。息も荒い。かなりきつそうだ。

 大人の侍女が護衛(エスコート)してくれればよさそうなものだけど、大人二人ももうかなりまいっているようだ。元気なのは朝桐よりももっとすっと若い少女二人と少年たちだけ。これでは護衛(エスコート)できまい。

 仕方がない。俺の出番だ。

 「朝桐、大丈夫か?」

 「ええ」

 歩きながら俺を見上げたその顔は少し赤くなっており、疲れを隠せないでいるようだった。

 まあ、よく歩いたものだと思う。

 俺は朝桐の前に出て朝桐に背を向け、少し身をかがめて右肩を朝桐の前に突き出した。

 「俺の肩につかまれよ。だいぶ楽だぞ」

 朝桐は歩を止めた。

 「え? そんな……」

 振り向くと、朝桐はこれまで以上に赤い顔をしている。

 明らかにはにかみ、困惑していた。そんな様子がまたちょー可愛い……じゃなくって、朝桐は本気で困っているようだったので、悪いこと言ってしまったなあって思った。何気に言った言葉だったけれど、かえってそれが妹を困らせる結果となってしまったようだ。

 「あ、ありがとうございます。で、でも、だ、だいじょうぶです」

 朝桐は気丈なところがあるようで、それでいて実はかなり内気(シャイ)(ハート)の持ち主のようだ。

 「いや、わ、悪かった」

 なんだか俺の方も急に照れてしまって、もしかしたら俺の顔も赤くなっていたかな? そんな俺たちの立ち止まってのやり取りに対して中ノ社へと向かう人々の群れは瞬間だけ意識を向け、不審、好奇、その他いろんな目で見て通り過ぎていく。

 「行きましょう」

 無理に笑って、朝桐はまた歩き出し、山道を登る人々の群れの中に入っていった。

 もし、俺の考えなしの申し出を朝桐が素直に受け、俺の肩につかまって歩いたりしたら……俺の心の方が爆発していたかもしれない。

 ほどなく、稲荷山の頂上の上ノ社に着いて、ここでも同じように昇殿して参拝した。 


 下りは楽だった……と、普通は思うだろう。でも、

 さんざん歩いて、苦労して頂上まで登ってからの下りは、かえって足ががくがくしている。膝が笑うというのは、こういう時のことをいうらしい。

 俺らが車を停めてある広場まで降りてきた時は、もう日は盆地の向こうの西の空に傾きかけていた。

 「結局、景色が見えたのはあの四つ辻の所だけでしたわね」

 朝桐がとりあえず休憩ということで座った石の上で、少しだけ不満な顔を見せた。でも、すぐに笑顔を見せる。

 「でも、お参りが目的であって、景色を見に来たわけではありませんものね」

 そう言う妹の手には、杉の声だがしっかりと握られていた。朝桐だけでなく俺も、お供の者たちも、そしてこの広場を通過してぞろぞろと帰宅を急ぐ多くの参拝者も皆、一様に杉の小枝を持っていた。

 誰が言い出したのか最近になって急に言われ始めたことだが、初午の日に伏見稲荷に参拝した人は、その参拝の記念として山中の杉の小枝を折って持ち帰り、常に身に着けていれば御利益があるということだ。

 「さあ、早く食事をしてしまって、帰ろう。早くしないと帰るころには真っ暗になってしまう」

 俺はそう言って立ち上がり、車に積んである破子(弁当)を取りに行こうとした。

 その時、広場の山に近い方から一台の貴人の車がゆっくりとこちらに向かってきた。

 ま、そのまま通り過ぎて都へと帰っていくのだろうと思っていたら、俺たちが座って休んでいるそばで車の中の人が牛を扱う少年に命じて車を停めさせたようだ。

 車には側面に小さな窓があり、普段は障子が閉められているけど、この時はその障子がすっと開いた。

 「よお、篁じゃないか」

 ――うわっ。

 小窓の中は見えなかったけれど、その声でもう十分車に乗っているのは誰だか分かり、俺は顔をしかめた。

 こんなところでぐずぐずしてたのが悪いんだけど、でもなんでよりによっていちばん会いたくないやつに会うかなあ。

 すぐに車の前の簾が押し上げられて、そいつは顔を出した。下ノ社で見かけた美濃介だ。

 俺が陸奥に行く前から、父親同士が親交があったせいで顔を見知っている。俺より三つほど年上だけれど、まるで大兄貴のように上から目線でしかものを言わないやつだった。

 「おまえも来ていたのか。いや、奇遇だな」

 美濃介はどうしても愉快になれないような笑みで話しかけてくる。俺は立場上邪険にもできないので、しぶしぶ頭を下げる。

 「このたびは、ご昇進おめでとうございます」

 一応は丁寧に言う。でもその言葉に不快感は十分に込められていたと思うけど、相手は何も感じないようでにこにこ笑っているのがまた癪にさわる。

 「やっと俺も貴族の仲間入りさ。それで今度は美濃くんだりまで下向することになったからな。今、準備で忙しい」

 そう、この男はこの正月に従五位下に叙せられた。俺の親父と同じいちばん下っ端の貴族になったわけだが、親父とはわけが違う。

 なぜなら、この男の父親は公卿、今をときめく大納言。大臣に次ぐかなり偉い人だ。藤原の式家の流れで、亡くなった祖父は太政大臣だったし、同じく亡くなった伯母は柏原の帝の妃で今の皇太子様の母親だった人である。

 つまり、皇太子様の従弟(いとこ)なのだ。

 俺の親父が五位になったのは三十代半ばだったと聞いているけど、こちらは二十代そこそこでもう従六位上から一気に三段階飛び越えての従五位下。やはり生まれが違うとこうも差が出るのが今の社会の仕組みだ。

 「ではまたいずれ……んんっ?」

 一度は車を動かしかけた美濃介は、驚きの表情とともに車を再び停めさせた。その視線の先には、はにかんでうつむいている朝桐がいた。

 「おや、こんなところでお会いするとは」

 美濃介は、さらに車から身を乗り出してくる。そういえば下ノ社で、この男の視線が朝桐にくぎ付けになっていたのを思い出す。まあ、当然といえば当然で、俺の妹ながら今時こんな絶世の美女はそうざらにはいないと思う。

 いやいやいや、そんなことを得意がっている場合ではない。

 下ノ社の時も感じたけれど、これはやばい状況なのだ。

 「知り合いなのか?」

 俺は朝桐の耳元で、囁くように尋ねた。朝桐は首を横に振った。

 「おやおや、あなたのような姫君が歩いて参拝とはおいたわしい」

 ずうずうしくも美濃介は、俺の存在をも無視して朝桐に話しかける。

 「よろしければ私があなたのために、新しい車を調達してまいりましょう。東宮様は私の従兄(いとこ)。后の地位も調達して差し上げられるけれど、いや、でもあなたにはもっとふさわしい方がおいででは? はて、それはどなたか……」

 何をキザなこと言ってるんだと、俺はますます腹が立った。それでいてそこそこのかたち清げ(イケメン)だったりするから、余計にムカつく。

 そういえばこの伏見の初午詣では、純粋に参拝や物見(ものみ)遊山(ゆさん)ばかりでなく、こういった軟派(ナンパ)目的の貴公子も多数出没するとは小耳にはさんでいたけれど、本当だったのか。

 「あいにくですが、車はちゃんとありますから」

 たまりかねて、俺は話に割って入った。朝桐はもう赤面してうつむいたままだ。

 「あれ、おまえまだいたの? それとも、この姫君となんか関係でもあるのか?」

 「あのですね、俺、その()の兄なんですけど」

 「へ?」

 美濃介は、実に意外そうな顔を見せた。

 「おまえの妹?」

 俺と朝桐の顔をかわるがわる見ていた美濃介だったけれど、突然笑いだした。

 「なあんだ。そっか。それはよかった。『俺の女に手を出すな』とかいうことだったら力尽くでも奪ってやろうと思ってたけど、妹さんならそんな手荒なことは必要ないよな。よろしくお願いしますよ、兄君!」

 「あなたに兄と呼ばれる筋合いはありません!」

 俺も少々興奮してきた。

 しかしそれからというもの、美濃介は俺のことなんかガン無視だ。そしてついに車から降りてきた。

 「さあ、早く食事して、帰ろう。そうだ、破子(わりご)だ、破子(わりご)!」

 俺も美濃介を無視することにした。でも、美濃介は朝桐のそばまでもう歩み寄っている。これはやばい。無視している場合じゃあない。

 そもそも、朝桐には俺にでさえ最初は顔を見られたくないと、簾越しでしか話もしてくれなかったのだ。それを今は朝桐にとっては初対面の男に直に顔を見られている。

 朝桐の心は興奮状態(パニック)になっているに違いない。

 「あのう、我われはここで食事をしていきますので、お気遣いご無用、美濃介殿。お先にどうぞ。もうすぐ日も暮れますよ」

 俺はそう言ってなんとか美濃介を先に帰そうとしたけれど、またしてもガン無視だ。

 「この稲荷山の神様はお美しい女神様だっていうけれど、私はその稲荷山で確かにこんなにも美しい女神様と出会った。あなたが女神様ならば、どうか私の心の中の、この燃えるような想いを分かってほしいのだけれど」

 「あのう、私は……」

 うつむいて、手に持った(さしば)という団扇(うちわ)で顔を隠して、か細い声で朝桐は返事をした。

 「女神なんかじゃなくって、神主さんも巫女さんもいない石神ですわ。そんなのでどうして他人(ひと)の心なんか分かるものですか」

 「さ、さ、朝桐。車に乗って」

 本当はここで食事のはずだったけれども、とんだ邪魔が入った。

 美濃介はまだ朝桐に何か言いかけたけれど、それよりも早く俺は朝桐の手を取り車の方へと連れて行った。

 とにかく俺は無我夢中だった。やっと車の後ろから朝桐を車に乗せてしまってから、俺ははっとして自分の手を見た。

 あの満月の夜に、触れたくても触れられなかった朝桐の手を、今はいとも簡単に握っていた。

 何はともあれ俺は、牛を扱う少年に早く車を出すように言った。お供の人たちも立ちあがってぞろぞろと車に従ったので、美濃介もあきらめてまた自分の車に戻ったようだった。


 やはり西大宮邸に到着したのは夜だった。

 心配して親父は門の近くまで出て、俺たちの到着を待っていた。

 結局食べ損ねた夕食を屋敷であらためて食べていると、もう遅いから泊まっていけと親父は俺に言った。

 ま、どんなに遅くても大学寮はすぐ目と鼻の先なのだけど、もう門も閉ざされているだろう。

 だいたい日没とともに大門は閉じられ、誰ひとり出ることも入ることもできない。

 こんなくたくたになっている日に、まさかさらに夜道を半時も歩いて鴨東の自宅に帰る気はさらさらない。明日の朝も大変だ。

 ちょうどこの屋敷では曹子が一部屋空いているというので、俺は親父の言うとおり泊まっていくことにした。

 部屋こそ違え、朝桐と同じ屋根の下だ。

 でも、とにかく疲れの方が勝って、そんな感傷にふける暇もなく俺は眠りに落ちていた。 


 翌朝、俺は早々に大学寮に戻らないといけなかった。妹はもう起きているかどうか分からなかったけれど、とりあえずあいさつにと妹のいる部屋に行ってみた。

 すると妹はもう起きていて、簾の中で何かを読んでいる。簾の外には明らかに文の使いと思われるような少年が一人、おそらく朝桐が書く返事を待っているのだろう。

 もちろん、びんびんに悪い予感しかしない。

 ふつうはこんな朝早くに懸想文(ラブレター)なんか届ける男はいない。これじゃあ、後朝(きぬぎぬ)の文やんか。って、昨夜は朝桐は俺と一緒に遅くに帰ってきたのだし、まさかそれから忍んできた男なんているはずないし、いたら俺が気づいてるし……ッテ、感傷ニフケル暇モナク眠リニオチタノダッタケド……とにかく、昨日の状況を考えたら、今この時機(タイミング)で手紙をよこすやつなんていえば……そう、あいつしか考えられない。

 美濃介……どこまでしつこいやつなんだ。

 「おい!」

 俺は何ら思考することなく、使いの少年の肩をつかんでいた。少年はビクッと体を震わせてから、恐る恐る俺を見たので、俺は思い切りにらみつけてやった。

 「何か物音がするのでなんだろうと思って来てみたら……父上の耳にも入っているぞ。どこの女たらしの使いだ?」

 俺はそれを、わざと親父にも聞こえるくらいの声で言った。少しだけ間をおいてから、果たして親父の声が奥から聞こえてきた。

 「どうした? なにかあったのか?」

 少年は俺を振り払って、一目散に逃げていった。

 「どうしたんだ?」

 またしばらくしてから、声だけではなく本当に親父が出てきた。

 「いや、何でもないです」

 俺は親父を言いくるめて、奥へと返した。でも実際は何でもなくなかったのだけど。

 親父が奥に戻ったのを確かめると、俺は妹のいる部屋の簾を一気にかきあげた。はっと驚くような、そして怯えるような顔で、朝桐は俺を見た。手にしていた手紙を(なか)(かば)うかのように。

 やはり、貴重な紙に(ふみ)を書いてよこすなど、そんじょそこいらの男ではない。でも、あの大納言の息子ならばあり得る。

 俺はその手紙をひったくった。そうすることによって朝桐が自分のことをどう思うかなどということを考えている余裕はなかった。そうはさせまいと朝桐も抵抗したが、手紙はほんの一瞬、俺の手の中に入った。

 普通、懸想文(ラブレター)は歌だと決まっているのに、そこにあったのは真仮名(漢字=万葉仮名)で書かれた散文だったから思わず笑ってしまった。

 「あなたの家がここだと、伏見の神様は教えてくださいました。あの石神のもとでぜひ今日もう一度」

 「お兄様! 返して!」

 手紙は、もう一度妹にひったくられた。

 手紙を届けた少年はもはやいない。

 そして妹は、きりっとした顔で俺をにらんだ。

 「いくらお兄様でも、やっていいことと悪いことがございましてよ」

 こんな形相で俺を睨む朝桐の顔など、全く初めてだった。俺はの頭に衝撃がかたまりとなって落ちた。

 俺はとんでもない失態をしてしまったのではないかと、この時初めて気が付いた。でも、あえてそれは表に出さなかった。

 「あんな男からの(ふみ)を、おまえは嬉しがるのか」

 もう、こうなったら引っ込みがつかない。

 「いいえ、私だって、あんな人とお付き合いするつもりはありません。でも……」

 一度目を伏せてから、また顔を挙げて涙目で俺をにらむ。

 「いくらお兄様だからって、やってはいけないことのけじめってものがございませんこと?」

 もう一度同じことを言って、それきり妹は奥の部屋に入ってしまった。

 俺は、ばつの悪さをいっぱい抱えたまま、とにかく大学に行くしかなかった。

 大学では、みな昨日の初午にの日の伏見参りのことばかり聞いてきた。だけど実際、俺はそれどころではなかった。

 客観的に見たら、今朝の俺の朝桐に対する態度は常軌を逸していたかもしれない。

 そんなことを、大学の講義も上の空でいろいろ考えた。

 だいたいあのくらいの娘なら文をよこす男、通ってくる男などざらにいて当然だ。なにしろ、俺の妹はあんなに可愛い。世界で一番かわいい妹だ。

 だが、所詮は妹なのだ。兄ならば、たとえ妹に懸想(恋を)する男がいても黙って見守るのが普通かもしれない。

 兄が口出しすべきことではないし、すべて妹の自由だ。

 でも、それはあくまで理屈の上で、なんだ。

 黙って見守るのが普通とはいっても、俺は普通じゃあないのかも。そして妹も普通じゃあないと、どこかで俺は期待しているのか……。

 仮に妹は普通にほかの誰かに恋する少女だったら、それならば少量の嫉妬は感じるにしても、兄としては祝福し暖かかく見守るべきだろう。

 でも今回は、俺の方ばかりではなくその相手の男に状況的に譲れない点がある。

 手紙をよこしたのがあの男……美濃介だということだ。大納言の息子であることを笠に着たあの女たらしの毒牙にだけは妹にかかってほしくはない。あいつだけは絶対にダメだ。

 少量の嫉妬どころではない。父親が俺の親父とは断然違う。財も身分もある。そしてあの容貌(イケメン)だ。それだけで、(はらわた)が煮えくりかえってしまう。

 そう決まったら、俺の特殊感情など関係ないのだから話は早い。全面的に美濃介から妹を守るだけだ。どんな手を使ってでも……。


 その二日後が旬暇で俺が朝桐の所へ講義に行く日だった。

 本当なら朝から出かけて行ってもいいのだが、なんだかんだでこの日は夕方近くになってしまった。

 いつもの『文選』を抱えて、俺は西大宮邸へと向かった。

 そしていつもの通り、その門に入ろうとした時である。あたりをうかがうように、こそこそした素振りで同じ門に入ろうとしている少年がいた。

 俺はまたもや怒りが込み上げてきた。

 あの美濃介の使いの少年じゃないか。性懲りもなく……。

 俺はそいつの襟首をつかんでやった。

 「ひええええっ!」

 白昼鬼でも見たかのような形相をした少年は、慌てて逃げようとした。

 「ほう、今日もお使いか。ご苦労なことだな。手紙は俺が妹に渡して返事を書かせるから、こっちによこしな」

 震える手で恐る恐る手紙を差し出す少年から、俺はそれを奪った。大人しく差し出すなんて、ほんまにガキの使いやで、こいつ。もしかしてはじめてのお使いなのかな?

 俺は屋敷の中に入って、朝桐の部屋に行く前にそれを読んだ。朝桐に渡す気なんか毛頭ないのはお約束だ。

 「あなたとの通い路がはかなく消えたなんて誰も信じませんよ。その道にいらっしゃったではないか」

 まずはそんな散文が真仮名で書かれており、今度は歌もついていた。

  ――何回も 消えてしまったというけれど (おんな)じ道でまた会いましょうよ

 ださい歌だ。でも、俺はピンと来た。

 この歌は前に妹から一瞬だけ奪って読んだ手紙と、内容が続かない。つまり、俺がいない二日間の間に、美濃介と朝桐との間に歌のやり取りがあったことになる。

 俺はいつもと同じ顔で、妹との講義に臨んだ。すべてが淡々とした事務的なものだった。

 その間も俺は、手紙のことを妹に問いただそうかどうか悩んだが、今日、少年から手紙を奪ったことは内緒にしておこうと思った。

 そうなると、自然と手紙のことは話題にできなくなる。

 手紙をやり取りしていたといっても、頭のいい妹のことだ。しつこい美濃介の言い寄りをうまくかわしていただろう。妹があんな(ストーカー)に心を寄せるわけがない。それをやきもきするなんて老婆心だ。それを問い詰めて白状させようなど、逆効果だと俺は思ったのだ。

 でも、これ以上手をこまねいてばかりいるわけにもいかない。

 だが好都合なことに、機会は向こうから飛び込んできた。

 講義を終えて大学寮に戻ろうとすると、例の使いの少年がまだ西大宮邸の近くをうろうろしているのだ。

 そして、俺の姿を見ると半べそで駆け寄ってきた。

 「お兄さん! うちのご主人様がものすごいお怒りで、男からの手紙を男に渡すやつがあるかって。それで、どうしても返事をもらって来いってことなんです」

 この少年も、よほどアホだな。

 前にあれほどの剣幕で怒鳴りつけて返した俺に手紙を(ことず)けるし、おそらくあの伏見稲荷にも一緒に来ていた気がする。だから、あの時胡散臭そうにじっと俺が睨んでいたのも見ていたはずだ。おそらくはそのことをも含めて叱咤されたのだろう。

 俺は本当に咄嗟(とっさ)のことであるが、妙案を思いついた。そしてわざと暗く沈んだ顔をした。

 「実は大変なことになったんだ」

 できるだけ悲痛な表情を装って、俺は少年に言った。

 「実は、あの手紙を届けるべき人が……さらわれた」

 「え?」

 少年はやはりアホだった。たった一言で完全に信じ込んでいる。

 「もしかしたら、鬼にさらわれたのかもしれない……」

 「え? 鬼?」

 少年は、震えだしさえしている。

 「ああ、姫はもう今頃はもう食われてしまっただろうか」

 俺は両手で顔を覆い、半ベソをかきながら迫真の演技を見せた。少年はだただおどおどしている。

 「鬼ではなく、せめて他の男にさらわれたのなら、命だけは助かるけれど……。あ、そうだ! もしかしておまえを使いに出した男が、こちらの姫をさらっていったのではないか? そうであってほしい。いや、きっとそうだ。そうに決まっている。だったら鬼になど食われていない。よし、そのことを確かめよう!」

 俺はどんどんとその少年に詰め寄っていった。少年は何も言えずにいる。

 「おまえの主人の所に案内しろ。今から、一緒に行って確かめるんだ!」

 少年は両手を自分の前で振った。

 「いや、それは、あのう、ちょっと」

 俺なんかをのこのこ連れて行ったらまたどやされるってことは、さすがにアホの少年でも分かっているようだ。訳の分からないことを言いながら、どんどん後ずさりしていく。

 「それはまた、あの、また今度」

 そして身を翻し、少年は一目散に大路を走って逃げていった。

 俺はその後ろ姿にただ苦笑していた。

 これで美濃介は、当分は妹に手紙をよこしたりはしまい。そのうち、美濃へ下向して行く可能性もある。そうなるとしばらくは帰ってこない。

 俺はさらに大きく息をついた。この件はこれで一応落ち着いたなという感じだった。


 それから十日後、また朝桐の講義の日となった。もうすっかり外は春めいてきていた。

 この日も一通りの事務的な講義をして、俺は帰ろうとした。いつものように縁側の端近くまで朝桐は見送ってくれる。

 そこで俺は、何気ないふりを装って、あくまでも軽く朝桐の方を振り向いた。

 「例の伏見の男からは、それからは?」

 朝桐はこの話題を嫌がるかと思いきや、意外にも普通で、しかもちょっと不審そうに首をかしげた。

 「ぱたっとお手紙は来なくなりましたのよ」

 その口調に、ちょっとおもしろくないものを俺は感じた。朝桐があまりにも普通なので、その意外性から気が動転したのかもしれない。

 「どうしたのかしらねえとは思っていましたけど」

 「え?」

 その一言に、俺の中で何かが弾けてしまった。

 「おまえ、あんな通りすがりの男からの(ふみ)をまだ心待ちにしていたのか?」

 「はい?」

 今度は朝桐の方が意表を突かれたという感じで、ちょっと驚いた様子で小首をかしげた。

 「心待ちにしていたなんて……そんな……」

 「いいか。あいつはいつかおまえを妻にしようと企んでいるのだろう。そうなったら、俺なんか格好の仲人だよな」

 俺は苦笑して見せた。俺は自分がなぜこんなことを言いだのか、自分でも分からなかった。

 もしかしたら朝桐の本心を知りたくて、鎌をかけたというのが本音かもしれない。

 「お兄様、どうしてそんなことおっしゃるの?」

 朝桐はひたすら困ったような顔をしている。

 「まあ、双方の親の許しが出れば、俺なんか必要なくなるけどな」

 「そんな」

 朝桐は、やっとか細い声をあげた。

 そして、俺を顔をじっと見て、この間の時のような形相で俺を睨みつけてきた。

 「どうして、私があの方に見初められたなんて思うのです? 私、あの方のこと、何も知りません。あの方のことなんて、心の片隅にも想っていませんのよ」

 意外にも思った以上の抵抗だった。妹は泣き出しそうだった。いや、もう目は涙目になっている。

 ただ……自分が誰とつきあおうと兄である俺は関係ないというような意味のことだけは、この時の朝桐の口からは出なかった。

 俺は、自分の発言を悔いた。でも、ある意味では言うべきだったし言ってよかったとも思う。

 朝桐の涙は真実だと思う。

 朝桐は確かにうあの男のことなんかどうとも思っていないだろうし、あの男とてこの間俺が脅しをかけておいたのでもう二度と妹とかかわってはこないと思う。

 それが分かっているのに、この時の俺はそれでも意地悪な問い詰めを続けようとしていた。

 朝桐と美濃介の間がきれいさっぱり消えたからとて、それで済む問題ではすでにないところまで来ているような感じを俺は受けたのだ。

 「想うとか想わないとか、世間知らずの人はそのようなことは口にしない方がいい。なんだか今までのおまえと違うおまえを見ているようで心配だ。驚いたよ」

 「どうしてお兄様は私の気持ちを勝手に推測して、ありもしないことばかりおっしゃるのです?」

 とうとう泣き出して、そのまま妹は中に入ってしまった。

 いったい何なんだ……俺のこの朝桐に対する気持ちは……。

 そして、何なんだ……俺の勝手な推測ではない朝桐の本当の気持ちとは……。

 俺は茫然と立ちすくんで、その消えていく後ろ姿を見ていた。

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