序章
妹は推定十五歳くらいである。名前はまだ知らない
でも、名前を知りませんでは話を進める上で不便なので、とりあえず朝桐姫と呼ぼう。
俺はその日初めて妹の朝桐に会った。会ったといっても実は直接会ってはいない。俺と妹との間は簾と、几帳という布の衝立で隔てられている。なんでも、朝桐がそうしてくれと言ったそうだ。
「お兄様、はじめまして。よろしくお願いします」
簾越しに妹の声を聞くのも当然初めてだ。か細い声だけれども、賢さが感じられた。
まだ簾だけだったら何となく顔の輪郭くらいは分かるだろうけど、さらに几帳の向こうだから妹がどんな女の子なのか知るすべは声だけだった。
俺はまず何から切り出していいか分からなかった。
俺が妹とこの日初めて会ったそのいきさつはというと……俺は妹の家庭教師として妹の母親から雇われたのだ。教科は漢文……俺の大学での専門だ。
余計なことは抜きにして、とりあえず勉強を始めようと思った。この気まずい雰囲気から逃げる道は、それしかないと思ったからだ。
「まずは『史記』の項羽本紀、有名な四面楚歌の話。ここから読んでいこうか」
俺は持ってきた『史記』の本を、簾の下から中へと入れた。
俺は買いかぶってた。妹は歌、手習い、絵、琴など女のとしての教養はすべて身につけてると親父から聞いてはいたけど、漢文は初めてのはずだ。そもそも女で漢文がすらすら、いや漢文どころか漢字が読める人などそうざらにはいないはず。
ところが驚いたことに、たどたどしくではあったけれど、朝桐はしっかりと漢文の文章を読んでいた。
俺、口ポカン……絶句。
――こんなとんでもない妹を俺は持っていたのか……知らなかった……。
俺と「俺の妹」の物語はここから始まる。
※ ※ ※
ちっす! 未来人の諸君!
俺、小野篁、二十歳。君たちから見れば昔の人。だから君たちは未来人。
君たちの時代に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者にしか興味ないとのたまった娘がいるそうだが、俺から見れば君たち全員が未来人だ。
未来人の君たちには、俺たちの時代の言葉で語ったら分からないだろう? だから、未来人の君たちに分かるように俺にとっては未来語で語ってあげてるんだ。どや、親切やろ。
ここまでの話で、何か質問は?
って、あるよね。たくさん。
まずは、小野篁なんていうけど、あんた誰?って……
ま、詳しい自己紹介はあとにして、次の質問を先にいってみよう。
え? そもそも、なんで妹が十五歳くらいにもなって初対面なのかって?……正確な年も名前も知らないなんて……簾を隔ててのご対面?……妹の家庭教師?……妹の母親って、ちょ、おま……
なんか複雑な家庭環境にあるんだなって、君たちは思っただろ?
それが実は、この家庭環境は俺たちの時代としてはそんなに特殊ではない。
今は都がこの平安京に遷されたばかり。
っていっても、俺が生まれた時はもう都は平安京で、遷都から七年くらいはたってた。
貴族かって? まあ、親父の位は従五位下だから、一応、あくまで一応下級貴族のはしくれだけどな。
まだ奈良に都があった頃、何代か前のご先祖様、正確には俺のひいおじいちゃんが中納言までいったっていうけど、じいちゃんはそこまでいかなかったようだ。
あ、貴族っていうのは遊んで暮らしているお金持ち特権階級のことじゃなくて、政治家のことだよ。三位以上は君たちの時代の国会議員と内閣閣僚、つまり特別職国家公務員。四位と五位は事務官の官僚ってとこかな。六位以下は役人。
え? 俺のしゃべり方が平安貴族の印象に合わないって? 「まろ」とか「おじゃる」とか言えって?
あのう、それって、君たちが勝手に作り上げた印象だろ? どうして君たちの勝手な妄想通りの言動をしなきゃならないかなあ。
「まろ」というのは言わなくはないけど、「おじゃる」なんて言葉、使ったことはおろか耳にしたことすらない。
だいたい、本当の俺たちの時代の言葉で話したら、君たちには分からないだろう?
なに? それでも、もっと優雅に話せだと?
いいかい。俺たちの時代っていうのは血なまぐさい戦争こそなかったけれど、一言で表すとドロドロねちねち、陰謀と策略渦巻くジメジメした時代なんだ。雅やかなイメージなんてかけらもないぜ。
それから断っておくけれど俺たちの服装、まだ都が奈良や長岡にあったころからそのままだからな。
今のところ服装も建物も、何もかも唐風。遣唐使も時々派遣されているし、とにかくまだ遣唐使の影響が色濃く出ている時代……そこを忘れないでほしい。
遣唐使についてはいろいろ文句もあるんだけど、今の若僧の分際で言ってもしょうがないからまだ言わない。
先祖が先祖だけになんかあるのかなあ……
それってどういうことかっていうと、俺の先祖はあの有名な小野妹子。『小野妹子がこんなに可愛いわけがない。』ってか? 当たり前だ。妹子様は男だ。さっき話に出た俺のひいおじいちゃんの中納言小野毛野の、そのまたおじいちゃんが妹子様だから、妹子様は俺のひいひいひいおじいちゃん……って、もっと簡単に五代前のご先祖様っていえばいいのか。
ご先祖様が遣隋使として有名だから、どうも嫌な予感がする。
話がそれたので元に戻すぞ……って、何の話をしてたんだっけ?
あ、そうそう……なぜ妹が十五歳にもなって、俺と妹は初対面なのかって。
早い話が朝桐とは、妹とはいっても母親が違う。でも、血がつながっていないわけではない。父親は同じだからだ。父の再婚相手の血のつながらない連れ子とかでもないし、朝桐の母親も俺のお袋もどちらもまだ健在で、どちらも親父の妻だ。
妻っていうのはその親と一緒にそれぞれの家に住んでいるから俺と妹は別々に育てられたわけで、だから妹が十五にもなって初対面なのである。
さて、お約束の自己紹介か……。
俺はさっきも言ったように小野妹子の血をひく小野家の息子で、名前は……教えない。そんな、真名は軽々しく人に教えるものではない。だから、俺の真名は親しか知らない。
だって、さっき小野篁って名乗ったじゃないかって?
篁というのはあくまで通称。竹藪って意味。俺が住んでいる屋敷は平安京の外、鴨川を渡って東山までのわずかな平地の竹藪の中。だからそう呼ばれている。
親父でさえ俺のことをそう呼ぶんだ。
なぜならこの屋敷は親父のものではなく、お袋の親の屋敷だからな。都が平安京に来る前からこの辺りに住んでいた鳥部一族がお袋の実家で、この屋敷で俺は生まれた。
竹藪の中の屋敷で生まれたから、俺の通称は篁で通っている。決して竹からパッカーンと生まれたわけではないので、間違えないよーに。
おい、誰だ? 俺がタケノコと醜女との間に生まれたなんてネットでガセネタまき散らしてんのは……名誉棄損で訴えるゾ……
ゴホン(咳払い)! えー、そういうわけで俺の名前はとりあえずは小野篁。大学に通う学生だ。
俺たちの時代の大学は正式には大学寮という。心配なので言っておくが、大学そのものを大学寮っていうんだ。君たちがいう学生の宿舎という意味での大学の寮ではないので、念のため。
また、学生も「がくせい」ではなく「がくしょう」って読むんだけど、ま、それはめんどうだからどう読んでもいい。
専攻? 漢籍について学ぶ文章科。だから、未来人の君たちに分かりやすくいえば文学部漢文学専攻ってとこかな。
どこの大学かって? あのねー。まだこの国に大学は一つしかないの。一つしかないから名前なんてついていなくて、「大学」っていえばそれでことが足りるの。わかる?
大学は全寮制だから、今は大学に住んでいる。大内裏の正面の朱雀門の下に南向きに立てば目の前がめっちゃ広い朱雀大路だけど、そのすぐ左側一帯が大学。
実を言うと、俺はまだ正式な学生ではないんだ。大学が実施する寮試に受かっただけの擬文章生といって、正式な学生になるための勉強中の身。本当の大学の入試は式部省が実施する省試っていうんだけど、まずはその試験の受験資格を得たってとこかな。
次の省試は来年の春。でも必ずあるってわけじゃなくて、欠員があれば実施って感じだからすっごく狭き門なのだ。実際、今年はあるとしたら八月だったけれど、もう八月は過ぎようとしているのに結局はなかった。来年受けるので、応援してくれたまえ。
文章科の擬文章生はちょうど二十人。激しい競争率の試験を勝ち抜いた選りすぐりである。みんな天才なのだ。その中でも、際立って天才なのが俺なんだけど……。
誰だ? 天才と狂気とは紙一重なんて言っているのは……? まあ、俺のことを小野の狂人、略して野狂とか言っているやつもいるのは知っているけどな……まあ、それこそ紙一重だから……。
そんなことで、鴨川の川向こうの田舎屋敷から大学寮の文章院に移り住んでから約半年が過ぎ、間もなく秋も終わりの九月を迎えようとしていた。