ある青年の願望と独白
「 独白・2 」
月のない夜でした。
わたしと息子は猿川に連れだされ、煉瓦のひかれた例の場所へと向かいました。
先の人間同士の大戦の時。ここには砲台があったそうです。
今はもう砲台は取り払われ、がらんと寂しい場所になっています。
猿川はここを「砲台跡地」とか、「跡地」と呼びました。
ぼんぼり提灯を片手に、猿川は我らを解き放ちました。
提灯の灯りは、極ごくほのかです。
懐中電灯のように、目をやくことはありませんでした。
「もう少しだけ待っていてご覧」
猿川はご満悦な口調です。
ですがどういうわけでしょう。わたしはその口調の裏側に、暗い翳りを感じたのでした。
猿川は神経質そうに、指先で何度もそのうすい唇をなぞっております。
我らはする事もないものですから、提灯の灯りが届かない暗がりに寝転がりました。
麻袋のちくちくとした、不愉快な感触から解放され、わたしはせいせいとした気持ちになっておりました。猿川に捕まって以来。わたしと息子は麻袋のなかに入れられっぱなしになっていたのです。
ですが一方でわたしの胸は妻を。
同胞を恋しがって、しくしくと痛んでおりました。
妻の暖かな笑顔を思い浮かべ、わたしは目を閉じました。
「 ある青年のささやかな願望をこめた会話 」
ああ。この頃ろくな飯を喰ってない。
大学生ってさあ。もうちょっとこう、ぱああっと華やかだと思ってたんだけどさあ。
全然だよな。
バイトバイトバイト講義。で、バイト。
まあ、うちさ。母一人子二人で、贅沢言ってらんねえけど。
ああ。お袋の飯喰いてえ。肉じゃがの余りで作ったコロッケ。あれ、キャベツ山もりにして、無性に喰いたくなるんだ。いっつもさ、兄弟で取り合いになって喰ってたんだよな。
「 独白・3 」
わたしは夢をみておりました。
わたしはひとり。
小舟に乗っています。
夜の川に、わたしはいるようでした。川面はおもたくうねり、小舟はぐらぐらと揺れます。わたしは必死に舟のへりにしがみついております。
夢のなかでわたしは、何かを待っておりました。
それは真っ黒くみえる川のなかにいるのです。もうすぐです。それは川面へと顔をだすことでしょう。
わたしはそれを待ちながらも、怯えておりました。
小便をちびりそうになって、震えておりました。
もうすぐです。もうすぐ……そら! そこに!
水音が高らかにあがり、飛沫がわたしの躯を濡らしました。
わたしは恐ろしさから、目を瞑りました。もう無我夢中で手足をばたばたと、みっともなく振り回します。
そんなわたしを諌るかのように、見えない手がわたしの身体を乱暴に揺すったのでした。わたしは抵抗しました。しかしわたしを揺する手の動きに容赦はありません。わたしはーー
※ ※ ※
「おっとう」
起きると、躯中びっしょりと汗をかいておりました。
目の前には川の流れも小舟もありません。息子がわたしを揺さぶっています。
「おっとう」
月のない夜だというのに、息子の目がやたら光って見えるのは、気の迷いでしょうか。
息子は興奮しているようでした。
「寝てしまっていた」
「そうだな。おっとう、それよりあれを」
そう言って、息子が砲台跡地の中央を指差しました。そこには猿川に付き添われ、年をとった女性が杖をついて立っています。
サーモンピンクのワンピースに、若草色のスニーカーを履いています。
夜だというのに、つばの広い帽子をかぶっていますのが、なんともちぐはぐに見えるご婦人でした。
ふっくらとした頬にえくぼを浮かべ、ご婦人は辺りを見渡しています。
猿川をすっかり信頼しているのでしょう。
夜の山中にいるにしては、にこやかです。
「さあさあ、こちらです」
そう言って猿川はご婦人の背をかるく押します。
そうしながら我らを手招きました。
用心しながらそちらへ向かいますと、猿川が明るい声で、のたまったのです。
「ほら。ご覧なさい。あそこにいますよ。わかりますか?」
「ええ、ちっちゃい子たちねえ」
ご婦人はおっとりとした笑みを浮かべながら、我らを眺めます。
「彼等は親子でね。それはもう仲が良いのです。君たち、そんな隅っこにいないで、もうちっとこちらへ来たまえ。紹介しよう。こちら容子さんだ」
うし鬼というものは、世間一般的には日陰者の立場におります。いえ、なにも卑屈になっているわけではございません。
ですが人様が気がつかないうちに、ひょいと現れ影を舐めるわけですから好かれてはおりません。こうも堂々と紹介されるということがございません。
息子など、どうしてよいものか分からずに、わたしの背なにぴたりと張り付いたままです。
そうしてぐいぐいと押すものですから、たまったものではありません。
父親という立場もあいまって、わたしがかの容子夫人へ挨拶を致しました。
「こんばんは、でございます」
「はい。こんにちは」
はて、夜はこんばんは、だったはず。そう思いましたが、わたしが間違っているのでしょうか。
慣れぬひととの会話に、すっかり頭がのぼせてしまって、わたしは口をぱくぱくと開け閉めするばかりでございました。
猿川はといえば、そんな緊張の際にいます我ら親子のことなど露にも気にかけず、さらにこっちへ来いと手招きます。
鯱張ばって動けないでいますと、舌打ちをして恐ろしい目つきで睨みつけます。
「さ、来たまえ。きたまえ。……さっさとここに来るんだ! この愚図めがっ!!」
最後は怒号となりました。
我ら親子は弾丸のようにそろって、彼等の前に飛んで行きました。
「まあ、あなた。こんなちいさな方々に、乱暴な口をきいてはいけませんよ」
やんわりと容子夫人が咎めます。
「ええ。すみませんねえ」
猿川はお愛想笑いを浮かべます。
「どうにも彼等ときたら随分シャイでね。こうでもしないと、あがっちまって、まともに歩けやしないんです。しかしぼちぼち彼等も慣れてきますから。ま、気にせず、きにせず」
そう言いながら、猿川は持っていたぼんぼり提灯で容子夫人の足元をぱっと照らします。
若草色のスニーカーから、夜の闇に隠れていた影法師がくっきりと照らし出されました。
我ら親子は浅ましくも、思わず喉をきゅううと鳴らしてしまいました。
なにせ三日前。猿川に麻袋に閉じ込められてから、まともに食事をとっておりません。
どうしてもひもじい時などは、互いの影を舐めあいっこして、空腹を誤摩化していたくらいです。
「さあさあ。君達。楽しい晩餐会の始まりだ」
芝居がかった動作で、猿川が両の腕を高くあげます。
容子夫人は、にこにこと微笑んでいるばかりです。
彼女の影が我らの前で、魅惑的に揺らめきます。
これが我慢できようはずもありません。
たとえかの婦人の手にある杖で、二三発殴られたとしても、ひと舐めしたくてたまりません。それは息子も同じだったとみえます。
我らは臆病な小鳥のごとく、用心しながら影のなかへ身を沈めました。
やがて容子夫人が全くの無抵抗なのを確認しますと、思う存分舐めまくったのでした。
これが全ての始まりでした。
※ ※ ※
猿川との出会いから半年。
様々な変化がうし鬼世界を襲いました。
まず息子は、衣類を身につけるようになりました。
衣類といっても、ひとのようにうえから、したまで着込むわけではありません。
簡単な布切れを腰に巻いたりしているだけです。それであっても、我らの営を考えれば、天変地異の変化です。
これを息子たちの年代は『うし鬼ぱんつ革命』と呼んでいます。
うし鬼がぱんつなどと、馬鹿ばかしい事この上ないです。
ですが笑っていられませんでした。
何故なら我が妻でさえ、ぱんつなる腰みのを身につけ始めたのです。
しかし最大の変革とは、ぱんつごときではありませんでした。
かの男のもたらした、最も重要かつ、奇抜な改革こそが『食』であったのです。
我らはもはや影を舐めるために、ひとだの動物だのが、通りかかるのを待ちません。
猿川は定期的に砲台跡で、晩餐会を開きます。
最初は容子夫人だけでしたのが、段々と多くの人間達が集まるようになってきました。
するとわたし達親子の話しに、猜疑心まるだしでした同胞たちも、ぽつぽつと参加するようになったのです。
『食』こそが、我らうし鬼を、うし鬼たらしめるイデオロギーです。
それがこうも容易く覆るとは! 情けなくも想像を絶することでございます。
これではまるで我らは、餌を与えられるだけの家畜ではないでしょうか。
息子の賛同する革新は、我らうし鬼の堕落ではないでしょうか。
わたしは声たからかに、そう叫びたかったのです。しかし息子をはじめとしました、皆の幸せそうな顔を目の当たりにしますと、言葉は口からでてまいりません。
わたしは不安な気持ちを、こっそりと飲み込んでしまったのです。
こうして暗闇の砲台跡は我らの饗宴の場となりました。そこでは嫌がられずに、好きなだけ人々の影を舐めることができるのです。
猿川は言います。
「このひと達は皆、君たちうし鬼を待っている。必要としているんだ」
必要とされているという、その甘美な響き。
今まで褒められたことなどない我ら一族を、舞い上がらせるには充分でございました。
もはや我らうし鬼に、食料問題は存在しません。我らは衣食住と共に、精神的な充足感をも堪能できる身分となったのでございます。
通学通勤の人々の影を狙う必要がなくなり、朝は好きなだけ惰眠をむさぼれるようになりました。
それもわたしの様な無趣味のものに限った話しでございます。
息子などは空いた時間で、友人達と余暇と称して様々な娯楽にうちこんでおります。なかでもビリヤードが得意らしく、やけに立派な道具まで揃えておりました。
かといって遊びほうけているだけもなく、午後は決まって集会場に顔をだしているのです。
そこで息子は『うし鬼青年会』なるものを立ち上げ、うし鬼の未来展望について、熱く語り合っているらしいのです。
わたしは問題の経緯ゆえに、『うし鬼商会取締役』などという長ったらしい肩書きをいただきましたが、滅多に顔をだしません。皆に比べ興味をほとんど持てなかったからでございます。
では空いた時間で、なにをしているかといえば、わたしは一人きりで街に降りておりました。影を舐めるため、湿った大地から顔をだしていたのです。
古来から続くうし鬼の補食行動にのっとった行いに、『うし鬼 懐古主義グループの筆頭』などという。またしても、ややこやしい名をつけられました。
取締役も。
筆頭も。
わたしにはてんで興味のない言葉でございます。
わたしはげんなりした気分でした。この頃では、同胞達とさっぱり心が通い合いません。
わたしはふて腐れながら、行き交う人々の影をちろちろと舐めます。
運が悪ければ、馬鹿にされ蹴っ飛ばされます。
人々は誰一人。わたしへ感謝の念を持ちはしません。
先日などは、汚らしい唾を吐きかけられました。
しょげ返り帰宅したわたしを、家族はおお汚いと言ったのです。
その時のわたしの惨な気持ちと言ったら!
唾をかけられた以上に、わたしはへこみました。へこんで、そのまま地面に、のめり込んでしまいたかったのでございます。
この落ち込みようには、自分でも呆れる次第です。
これではまるで男性更年期障害のようではありませんか。
いけません。いけません。
ここはひとつ。もう少し明るく、冷静にならなければなりません。
わたしは気分転換にと、真昼の街へと出かけました。
大勢の人々が行き交う駅前に、わたしは出かけました。
無論地上にぬっと出るわけにはいきません。
わたしは時計台の影のなかに沈み込みました。そこには昨夜降った雨が、ちいさな水溜りになって残っております。
わたしはぼんやりと、ひとの足元を眺めておりました。
実のところあちら様が、我らの美醜を理解できぬ様に、我らもまた、ひとの顔立ちには感心がございません。
男か、女か。
幼いか、成人しているのか、年寄りか。
それくらいしか、判断がつきません。
ようはひとが、自ら食するサンマだの牛だのの顔立ちを気にしないのと同じです。
ですがその日は、見慣れた顔を見つけたのでした。
うし鬼ではありません。ひとです。
これは大変珍しいことでございます。珍事です。
わたしのななめ前。駅前噴水を背に立っているご婦人がおります。
そのひとは『うし鬼商会』始まりの夜に、我らを魅了した影の持ち主。容子夫人でございました。