あるおとこの子の愛情と独白
「 あるおとこの子の呟き 」
おかあさん。だあいすき。
ぼくはおかあさんが大だいだい好き。
おにいちゃんもすきだけど。おかあさんが好き。
せかいでいちばん好きなのはおかあさん。
「 独白・1 」
うし鬼と申します。
妖怪の牛鬼ではありません。
躯はちいさく、子猫ほどです。
頭には角をひとついただいております。
頭が大きく、躯は頭部に比例しますと細くちいさい者が多いです。
なにせ我ら食すものが、影でございますから、栄養満点とはいきません。
しかし遠いとおいご先祖からの、綿めんと続く食生活です。今さら田畑を耕すことなど考えもつきもしません。
服などは着ておりません。みな素っ裸で一年中過ごしております。
貧相な躯つきの割には、丈夫でございます。
ひとから見ますと、成りはあまり可愛らしゅうありません。しかしこれに関しましては、こちらにも言い分がございます。
ひとと、我らの美醜の基準というものは、かなり違っております。
うし鬼仲間のなかでは宅の家内などは、それはもう美しい顔立ちなのですが、ひとから見ると十把一絡でございます。
先日も地面から頭をだしまして、通りがかりのご夫人の影をひと舐めしておりますと、「きゃあ」と叫ばれ、哀れ妻は尖ったヒールの踵で踏まれたのです。
無論これは事故のようなもの。
なにせ向こうにとっても、唐突に影を舐められているのですから、正当防衛でございます。それをどうこう言うつもりはございません。
しかしよりによって、我が愛おしい妻を踏みながらこのご婦人、「おお、気味悪い!」と罵倒するではありませんか。
なんという恥知らずの物言い!
妻ときましたら、これより数日。心労の余り、地表に顔をだすのを恐がりまして、しまいには空腹のあまり、ぺたんこになってしまったのです。なんと哀れな事でしょうか。
※ ※ ※
さて、そんな我らにも革新の時がまいりました。
今まではそれぞれの家族。
或は近在のもの達でかたまって暮らしておりました。そして地表に顔をだしては、通りがかった、ひとだの動物だのの影を舐めておりました。ですがこれですと、実に効率が悪いのです。
しかも我ら水気がないと、うまく動くことがかないません。
その点水辺などはうってつけです。
池や川付近の地中には、うし鬼集合住宅がこぞって建てられているのもその為です。ですが都市部に住むうし鬼にとっては、なかなかにこの条件に当てはまる物件を見つけるのが、大変なのが現状です。
そんな時です。
転機はやってまいりました。
雨上がりの早朝でございました。
石畳の隙間からわたしが息子と共に、顔をだしておりますと、畳んだ傘を手にした男が通りました。
中年の背の高い男でした。
黒いジャケットに、まっしろのシャツを着込んでいます。足元はぴかぴかに磨きあげた革靴です。
ひとのなかでは随分と洒落もののようですが、我らからしたらなんの価値もございません。
必要なのは影なのですから、洋装であろうが和装であろうが。果てはふりちんであっても構やしないわけです。
さっそく腹ごしらえとばかりに、男の影に近づきました。
するとこの男。待ってましたとばかりに、傘で地面を突き回します。
しかも懐から取り入だしたる懐中電灯で、ぴかりピカピカ。我らを照らすのです。
これには目がくらみます。強い光りで影も見えません。
なんと忌々しい男でしょうか。
男の暴挙はこれですみませんでした。
なんとしゃがみこむと、懐中電灯でぽかりと息子を殴ったのです。
わたしでしたら、すっと地面に潜りますが、息子はなにぶん経験も浅く若輩者。しかも目がくらんでいるものですから、男に捕まってしまったのです。
地面からずるりと、息子が引きずりだされます。
慌てて手を伸ばしましたが、駄目でした。
息子はすっくと立ち上がった男に、持ち上げられてしまいました。男は息子の片足をつまみ、非情にもぶらりぶらぶらと揺すります。
息子はつんざくような悲鳴をあげました。
なにせ我ら地表近くにいるのが習性。
高さなど、我らの概念にはございません。
うぎゃあうぎゃあと、あまりにも息子の悲鳴がすごいものですから、隣近所のもの達も、すわ何事かと顔をだします。するとそれ目がけて、またもや男はぴかりピカピカ懐中電灯の目つぶしをします。
もはやそこら中が狂乱の渦。パニックになったうし鬼だらけです。
男はどこから取り出したのか、大きな麻袋の口を開け、次からつぎへと同胞をつめていきます。
我らは余りひとに好かれる質ではございません。だからといって、攻撃されることは稀でございます。
血を吸う蚊なみ。ゴキブリよりはマシ。そのような扱いなのです。
なので男の暴挙に、我らはすっかり肝を冷やしたのです。
息子は男につままれたまま。開いた口からだらりと舌を垂らし、半目になっています。気を失っているようでした。
わたしは恐ろしさもありましたが、すくむ躯を自ら叱咤し、男の足へ身体を巻き付けました。ええ、我ら。どういう仕組みなのか、えらく身体が柔らかいのでございます。
「旦那。息子をどうするおつもりで」
わたしの必死の言葉に男は、「おお。これはお前の息子か」
声高らかに言います。
やっていることは滅茶苦茶ですが、男の目つきは冷ややかでありました。
嗜虐趣味から我らを痛めつけているわけではなさそうです。
ですから余計に、男の計知れぬ性質に怖さを覚えました。けれどここで引くわけにはいきません。わたしは男の足に躯をからめたまま、縋るように手を伸ばしました。
「へい。旦那。影を舐めようとしたのが気にくわないのでございましたら、息子ではなくわたくしめを折檻してくださいまし」
「これはなんと美しい家族愛」
男は喉のおくで、かわいた嗤い声をたてると傘でわたしの背を軽く突きます。傘のきっさきは尖り、銀色ににぶく輝いております。
「では息子を助けるためだ。俺と来てもらおうか」
男はもうひとつ麻袋を取り出しますと、わたしと息子を無理矢理突っ込み、口を縛ったのです。
※ ※ ※
「さあ。ついたぞ」
連れて行かれたのは、見知らぬ場所でありました。
わたしと息子は地面へ、べしゃりと投げ落とされました。
そこは大小様々な雑木に囲まれた、がらんと開けた場所でした。頭上には春のうす青い空があります。見下ろす眼下には、街並が広がっています。どうにも山の中腹であるようでした。
わたしと息子は共に抱き合いました。我らはここでどの様な仕打ちを受けるのでしょう。
見渡す周囲には誰もおりません。
地面は、ところどころが欠けた煉瓦で埋められています。
煉瓦の隙間から見えるまっくろい地面は、湿り気を帯びています。湿った大地は我らを、こちらへ逃げろと手招いているようにも思えました。
ええ。そうです。
この時逃げようと思えば、可能でしたでしょう。
ですがここで我らだけが逃げおおせても、この男は又同じことを繰り返すかもしれません。しかも別の麻袋にはわたし共同様、捕らえられている同胞がいるはずです。
わたしはこの男の真意を追求したいと思いました。
決して義侠心からではありません。
逃げ延びて尚、男の不気味な影に怯えるのがまっぴら御免だったのです。
男は、「逃げぬのだな」目を光らせながら言いました。
「今までに二度。うし鬼を捕まえたが、皆逃げた」
矢張りそうです。準備周到の様子の通り、この男は常習犯です。
わたしは息子のちいさき躯を(実際はわたしとそう変わりませんが、気分の問題です)しっかと抱きしめながら、男へ問いかけました。
「旦那は我らをどうするおつもりですか?」
男がもし。
残虐な目的で連れて来たのでしたら、息子だけでも逃がそうと思いました。息子ならば事の次第を、残っている我らの一族に伝えてくれるはずです。
「なに。そんなに気張話しではない」
そう言いますと、男はしゃがみこみました。
そうして目線を低くします。
「俺はな、常々お前等を凄いと思っている。お前等が思っている以上に、うし鬼をかっているということだ」
なにを言いだすのでしょう。
わたしと息子は同時に首を傾げました。
「いいか。うし鬼の力は素晴らしいのだぞ」
男はここにきて初めて笑ってみせました。
息子をいたぶっている時でも、くずれる事の無かった能面のようなつるりとした顔で男は笑います。
意外であったのは、それが実に爽やかな笑みであったということです。ですがわたしはつられて笑う気分にはなれませんでした。
いくら爽やかな笑みを浮かべようが、この男の本質は出口のない沼のように濁り、淀んでいる気がしてならなかったからです。
男は、わたしと息子にひとつの提案を致しました。
男の交渉相手が我らだったのは、たまさかであります。
わたしはこの出会いを迷惑な邂逅だと思っております。今でもそうです。
しかし息子は後年「運命的な出会い」だと称しました。
愛するものに出会った時にでもとっておけば良い甘い言葉で、息子はうっとりと男について語るのです。
息子は男ーー猿川に夢中になりました。
正確に申せば、猿川の提案してきた「うし鬼商会」のシステムにのめり込んでいったのでした。
どうにも変革というものは、ひとであっても、うし鬼であっても若者の方が抵抗なく受け入れられるようです。
猿川が我らに目をつけた理由はひとつ。
うし鬼の影を舐めるという習性です。
しかも継続的に舐めていくと、思いもよらない効果がでるというのでした。しかしこれらは全て後日あきらかになった事でございます。
では、話しを猿川との運命的であり、尚かつ迷惑このうえない邂逅の場面へと戻しましょう。
猿川は我らうし鬼に、まず家というべき土地を提供しようと告げました。
煉瓦で覆われた場所の裏手です。
雑木に囲まれた地面には、古びた井戸がありました。
我らにうってつけの湿り気をおびた大地です。しかし雑木の下には、ぼうぼうと伸びた草花が勢力を伸ばし、滅多矢鱈とひとは通りそうはありません。
「これでは影を舐められません」
仲間に橋渡しをする立場として、わたしは猿川に意見を致しました。
この時点で、我ら親子は猿川を信用していたわけではありませんでした。
ただ一緒にさらわれてきました同胞の立場を考えますと、まずはこの男の考えを知る必要があった為です。
猿川はわたしの抗議に、不敵な笑みを浮かべました。
「そこのところは大丈夫だ」
任せておけと胸をたたきます。
「お前等に上等の客を紹介してやれる」
わたしと息子が猿川の言うところの「客」に引き合わされましたのは、それから三日後の事でした。