錆
夏菜子は夏に生まれたから、そのように名付けられた。ちりちりと肌の表面が痛くなるような真夏日、股ぐらからぬるりと排出された彼女は、赤ん坊にしては少し低めのトーンで鳴いた。
そのとき、彼女の頭から指の先までが母親の血液で赤くぬらぬらと光っていて、だからきっと、夏菜子は彼女の怨嗟を股ぐらから吸い上げてしまった。彼女は、怨嗟にとてもよく反応する女の子になった。
彼女は怨嗟にとてもよく反応できた。怨嗟は草からも聞こえたし、雲からも聞こえた。土くれのはしにも、その名残を青黒いかたまりとして見て取ることができた。オーブン、洗濯機、しゃもじ。全てに粒子のようにまとわりつくのろいの便り。
誰かが送ったわけでもない、だが、誰かが送られたわけでもない、それら自身が発する意思。しわしわと空気が溶かされ、順に焼け落ちて朽ちていくような概念。それらを無為に引きちぎりながら歩く、夏菜子の母親なる生物。口をふわっと開けて吐き出す言葉。夏菜子の世界からひとたび、悪夢が消える。
さっと冷たい風が吹きつけたような爽快感、明滅する視界。やがて来る青黒い世界を吹き飛ばすように、光の中心、ざざざざと唸る濁音の中、彼女はいう。おかえり。おかえり。
遠くで枯葉が地面をこする気配がある。夏菜子は切れ長の目を細める。いつもだ、いつも。遠く、はるかこだまのように、赤ん坊の鳴き声が聞こえる。低いトーン、だみ声。包丁で、あなたの肉を裂きたい。深く、ぐちゃぐちゃに。裂いて潰せば、わたしは、怨恨から抜け出せる。