日本で最も危険な生物との闘い
「神よ、我に稽古を付けたまえ。」
次の夜も、愛洲移香斎が 期待に胸を膨らまし、
鵜戸神社の岩屋で参籠していると、鵜戸明神が現れた。
酒の入った瓢箪を渡す。
「ノウマク サマンダ ボダナン オン マリシ ソワカ」
神が摩利支天の真言を唱えると、どこからか
飛んできたものは、人間大になった。
オオスズメバチであった。
「さあっ、始めようか。」
今日も、楽しくてたまらないといった感じで
神は、促した。
もしかしたらこの神は、神にあるまじき
特殊な性癖があるかもしれないと思った。
彼は、内心、空を飛ぶものは初めてなので、
戸惑いを感じながら、オオスズメバチに青眼の構えをとった。
「できる。」
オオスズメバチは、彼との間合いを詰めつつ、
大顎を「カチカチ」と鳴らし、威嚇してきた。
先日のカマキリとも百足とも違う緊張感があった。
日本に生息するハチ類の中で最も強力な毒を持つことから、
「日本で最も危険な野生動物」と言われている。
時速40kmで飛び、一日に約100kmものの距離を
エサを求めて移動する。
今日は、彼をエサと決めているのが
ヒシヒシと伝わってくる。
刺されるだけで即死、毒は致死量に達する。
捕まったら最後、大きな顎で噛み砕かれ、
足で転がされて肉団子にされてしまう。
嫌でも緊張感は高まる、
「ほれ、早くせんと、この酒を全部飲んじゃうぞ。」
その言葉に一瞬気を奪われた瞬間、
オオスズメバチは襲ってきた。
スピードはたいしたことはない。なんなく、かわした。
最近、どんな相手とやらされるかもしれないので、
山に出かけ、目にする全ての動物を敵と想定し、秘かに
稽古を重ねていた。
今では、飛んでいる燕も斬る自信はあった。
しかし、人間大のオオスズメバチとなると、
どう対処すればよいか、見当がつかなかった。
次の攻撃が来た。これも、かわした。
彼は武術における重要な見切りも、格段に上達してきていた。
逃げてばかりでは駄目で、こちらから攻めようとは思うものの、
やはり毒針への恐怖心が邪魔をする。
「連荘でオナゴと遊びすぎて、力が出ないのかい。」
『えつ、何で知っているのですか。』驚愕した。
神は何でも御見通しの上、挑発しているのがわかった。
「毒なぞ、恐れるに足らず、百足にも毒はあったではないか。」
自分に喝を入れる。不思議と、心身が軽くなった気がする。
彼は、居合のように腰を落とし、身を低く構えた。
三度目、オオスズメバチが襲ってきた。
「飛べ。」 「飛ぶ。」
神の声と、彼の声が重なった。
彼は、オオスズメバチの頭上高く飛び上がり
羽根の付け根を打ち砕いた。
宙に、羽根が一枚舞った。
オオスズメバチは地に落ちた。
すかさず、その背中に馬乗りになると、
木刀を逆手に握り直し、大きく振りかぶり、
全体重を載せて、頭部と胸部のつなぎ目の
体節に突き入れた。
オオスズメバチの断末魔の悲鳴が聞こえた様な気がした。
オオスズメバチは、たちまち消えて行く。
「今日の酒も旨かった。明日も、頼む。」
神は彼にそれだけ言うと、瓢箪を投げ渡し、
いつものように消えて行った。
全身に、汗がどっと噴き出た。
肩で、大きな深呼吸をくり返した彼は、瓢箪に残っていた
酒をその場でラッパ飲みした。
ほんの一口しか残っていなかったが、とても旨く感じる。
勝利の美酒である。
『明日も、町に降りよう。美味いものを肴に酒を飲もう。
神に誉めてもらえるよう、女にも励もう。』
彼は精神面でも、確かに変わりつつあった。