透明の詩
岐
これは澄川明という一人の普通の人間によって紡がれ、露沢透という少女へ捧げられた愛の詩である。
どうしてこう、仕事というものに行くのは無駄な力が必要なのだろう。
そして、どうしてこう、スーツやネクタイは身体をじわじわと締め付けてくるのだろう。
何時も通りのそこかしこが罅割れた煉瓦道を歩きながら、澄川明は思う。履き慣れ過ぎて傷んだ革靴を履いた足を誰に命じられたわけでもなく、左右順番に動かす。意識してのことではなく、本人すら自覚のないままに体は前へ、彼の仕事場へと進んでいく。
残暑の厳しかった夏が終わり、鈍い冷たさを持った季節がゆっくりと平等に人々に訪れようとしていた。
空気に、かつて確かにあった熱さは既になく、刺々しい肌冷たさだけがただ不安を煽るようにそこにあった。
「先生、おはよう」
そんな彼の心境を知ってか知らずが、悪戯っぽく覗き込むように声をかけた少女は、彼の担任するクラスの生徒の一人である露沢透だった。
遮るもののない流水のような黒艶の髪と、小さな顔に誂えたように嵌る漆黒の瞳が特徴的な肌の白い少女である。そのままでも目を引くような黒髪が、学校指定の淵縫いのみが黒色で、他は真白い指定のセーラー服により、一層彼女が持つその陰影を色濃くはっきりと浮かび上がらせている。
「どうしたの、朝から暗い顔をして」
幼さを残すあどけない笑みを浮かべ、少女は澄川に問う。
内心に生まれた戸惑いを察せられぬようにと、目を細め、澄川は今日初めて他人に口を開いた。
「おはよう、何度も言うが、生まれつきなんだ。放っておいてくれ」
「ふふふ、そう言われたら、どうしようもない」
澄川が如何様な言葉を彼女に向けて放つかをまるで予測していたかのように、彼の言葉が発せられて間髪いれずに、少女は朗らかな空気を言葉とともに彼に与えていた。
心に生まれた隙を彼女は見逃すことなく捉え、澄川の顔を隣に並びながらもう一度下から覗き込んだ。
「先生はいつだって綺麗だよ」
抽象的なそして曖昧な言葉の投げかけだった。
「綺麗……か。そう思うのは君の気のせいだ、きっと」
「そうかな。まあ先生がそう思うなら、それでいいよ」
くすりと一つ微笑い、彼女は彼の隣を少し歩幅を広げて歩く。
どうしてこう、顔や身体のひとつひとつが作られたように綺麗なパーツを持っているのにこの少女はこうも人間臭く、人の心に温さと共に潜り込んでくるのだろうと澄川は未だに悪戯っぽい笑顔を自分に向ける少女の目を直視できずに思う。
そうこうしているうちにいつの間にか澄川の通う学校の校門付近まで澄川の体はたどり着いていた。
澄川が向かう白波高等学校は創設90年を迎える由緒正しき私立高等学校である。
創設時は女生徒のみの入学を認める、所謂女学校であったが、バブル崩壊の折、経営の右肩下がりと時代の流れに逆らえず、止むなく共学化を図った経緯があり、現在は男女の生徒比が4対6ほどになっているのが現状である。
創設者のこだわりで、白い学生服を制服と定め、近隣地域では淵のみが黒い白い学生服を見れば白波高等学校の生徒であると一目瞭然で、それは実際にこの学校へ通う生徒たちの一つの誇りともなっている。
なぜなら、この学校の偏差値や大学進学率は近隣の学校の比にならないほど高く、この高校に通う者の将来は在学中に余程のことがない限り約束されているも同然であるからである。スポーツ、芸術、文系、理系のそれぞれに誰もが知る私立大学への推薦枠が幾分か用意されていることも大きく、また地元の有名企業や旧華族の御曹司や令嬢もこの学校の在学生の多くを占めている。
当然この学校で教鞭を執る教師の質も高く、有名大学から多くの講師を招いている。そんな由緒正しく、将来が約束された生徒が集う学校に教育学部出とはいえ、お世辞にも一流大学とは言えない大学出身の澄川が臨時講師として採用されたのはひとえに彼の恩師のおかげである。
(恩師か、元気にしているんだろうか、先生)
澄川が教師になって既に半年が経過しているが、恩師には色んな意味で頭が上がらないし、向こうからしてみれば自分はいつまでも手のかかる生徒なのだろうなと澄川は校門と少し前を歩く透を同時に見ながら思う。
白波高等学校には他の高校にはあまりない不思議なことや独特なところが幾つかある。
その最たるものが今の目の前にある改札口である。
誰が言ったか言い得て妙だが、この学校の入口はこの正門以外になく、そして正門には駅でよく見かける改札機が合計で五機設置されている。切符の代わりに通すのは教職員と生徒全員に配られているプラスチック製のカードという違いはあるが、機械全般に疎く、興味もあまりない澄川には生徒たちが好んで使う改札口という名称はあまりに的確な名前だと考えていた。
(まるで、学校というよりは監獄の入口だな)
いつものように暗く心の中で苦笑してから、この半年ですっかり慣れた動作をこなし、カードを改札に通す。ピッという電子音と共に体を改札機の間に通し、向こう側に吐き出されたカードを引き抜いた。その際、脇にある電卓の画面のような液晶には、7:12という文字が浮かんでいた。
「ねえ、先生、この装置にIDカードを通すと全て記録が残っているって言うのってやっぱり本当なのかな」
いつの間にカードを通し終えたのか、少女が心底面白そうに澄川の横に並んで話を振ってきた。
「おいおい、入学式に配られる学校案内にもそう書いてあるだろう。それとも、分かっていて聞いているのか」
首を少し斜めにして、少女はさも可笑しそうに笑った。
「先生、案内に書いてあっても、真実かどうかなんて自分で確かめてみないと分からないものでしょう?」
「矛盾しているよ。ならここで僕がそうだと答えても結局は君の疑問は解消されないじゃないか」
「先生は私に嘘をつかないよ。だから自分の経験ではないけど、それは自分で確かめるよりも明らかなことだよ」
黒い瞳が一瞬だけすっと細まり、即答で少女はそう言った。
「どうしてそう言えるんだ」
「先生は先生だもの。それ以上の説明が必要に思えないな」
やはり即答で少女は言う。昔からこうだ。他の人間に対してはとても慎重で疑り深い癖に、どうしてかはよく分からないが、澄川の言うことややることは全面的に肯定するのだ。
「それで、本当にそうなの」
少女が猫のように擦り寄って目を見上げながら問うので、澄川は色んな思いのこもった息を一つ吐いて答えた。
「詳しいことは僕も知らないが、そういう記録は確かに警備会社が付けているようだよ」
「ふうん、やっぱりそうなんだね」
それで納得したのか、改札口のことをすっかり忘れたように、少女の目が改札口の先へと向かう。
澄川は少女の目の先を追い、自分の仕事場の社屋を見る。改札口を通り、学校の敷地内に入ってしばらくは桜の並木道が続き、その先の全部で三棟ある四角い建物が近づいて来ていた。その三棟の建物こそがこの高校の校舎であり、東から部活動などで使う特別校舎、三年生と教職員が使う中央校舎、そして一年生と二年生が使う生徒校舎とそれぞれの校舎にはこれまた誰が付けたかそういう通称がある。
時期をとうに過ぎた桜の並木道はまるで別の木のように澄川には見えた。春にはこの道は文字通り桜色に染まり、それは見事な吹雪を作り上げるものだが、今はあまりに寂しく侘しい。桜並木の両側のテニスコートやグラウンド、プールといった運動部のテリトリーでは、今日も飽きもせずに朝練を行う生徒たちがこんな早い時間にもちらほらと見えた。
まあ、もっとも僕は桜よりも梅の方が好きなのだけれどと誰に言うわけでもなく、澄川は思った。
今は痕跡すらない風景に考えを巡らせながら澄川は少女と共に決して長くはない並木道をゆっくりと歩いた。
おそらく数分しないうちに自分たちは目的地に着いてしまうだろうとあまりに当たり前の未来のことを澄川は思う。自然と顔の筋肉が強ばるのが分かる。今日の仕事のことを思うとやはり憂鬱な気分になるのは避けられない。胃が引き締まる感じを覚えたのもおそらくは気のせいではあるまい。
「ねえ、先生。明日は土曜日だよね」
その表情を横目に読み取ったのか、少女は澄川に言葉を選ぶように丁寧に呼びかけた。
「そうだな。朝ゆっくり寝られる素晴らしい一日だ」
今日のことを考えていた頭が切り替わる。
「ふふふっ、それ何だか先生らしいね」
「いや、社会人や学生のように時間に縛られて生きている人だったら誰でも思わないかな」
少女は右の人差し指を唇に当てて考え、少しその唇を歪め言う。
「うん、思うかも知れない。私も毎週ではないけど、ゆっくり寝られる朝が欲しい時はあるもの」
「そうだろう、うん、よかった。僕が異常なわけではないよね」
「ふふふっ、先生、異常であることに怯えなくていいんだよ」
少女の声が透き通った音になる。ああ、この声だと澄川は思う。澄川と彼女の付き合いは随分と長く、しかし言葉を交わしたことのある時間は短いが、彼女の声はたまに澄川の心を世界から強制的に隔離してしまう。端的に言ってこれは彼女の魅了であると澄川は自分の中で無理矢理に現象に名前を与えているが、ある種の魔法や術と言ってもいいのかも知れない。とにかく、この状態で聞こえる彼女の声は澄川の深い部分に何の構いもなく染み渡る。
「人間なんて皆どこかちょっとずつ異常で、変で、外れていて、正常なんかとは程遠い何かを持っていて、そういうものを抱えているからこそ生きているって言えるんだから」
何故、自分の方が長く生きているのにも関わらず、この少女にはどこか敵わないと思わされてしまうのだろうと、澄川は今の言葉が与えた襲い来る感情と思考の荒波の中で思う。どうして彼女の言葉はたまに自分の中の何かをここまで荒立たせてしまうのだろう。
息をするのも苦しいのを決して彼女には悟られぬよう、澄川は瞬きを意識的にゆっくりと黒縁の眼鏡をかけ直した。
「先生、透、おはよー」
澄川にとってその声は救いだった。
後ろから聞こえた声の方向に首だけを向ける。
透と同じく、自分の担任するクラスの琴塚あゆみが小走りでこちらに駆けてきていた。
「ひょっとしてお邪魔でしたかね、あゆみは」
透の髪の長さからすると幾分も短いミドルヘアを揺らして、冗談めかしてあゆみは言う。
「そんなことはないよ、あゆみが邪魔になることなんてあるわけない」
「透はいつも優しいなー」
背丈があまり変わらない二人が並ぶと、顔立ちは似ていないが、双子のようだと何故か澄川は思う。ともあれ、心底澄川はほっとしていた。自身の内面で蠢いたものはあゆみという第三者の登場で今回はあっさりと退散してくれていた。
「それにしても二人共いつもながら朝早いですね」
あゆみの言葉に一切悪びれなく透は答えた。
「私は授業中に寝ているからね」
「え、そうだったの?」
「おい」
思わず、突っ込んでしまった澄川にやはり普通の調子で透は言う。
「いや、先生の授業は起きてるよ」
「そういう問題じゃない。どおりで国語系以外の成績が上がらないわけだな」
「ははは、透は本当に理数科目が駄目だもんね」
「いやいや、総合順位は200人中194位だよ、授業中これだけ寝てるのに、まだ下に六人もいる」
「一切自慢にならんぞ。ちゃんと起きて授業を受けろ」
「何か先生、教師みたいなことを言うんだね」
首を引き、透は澄川に目を細くして言う。
「僕は教師だ。明らかにその日本語もおかしい。唯一の得意教科だろうに」
「いいんだよ。私は先生みたいに古典専門の教師になるもん」
拗ねた子供のように頬を膨らませて彼女は反論した。
顔が崩れているのに、なお可愛らしさが失われないのが今は少しだけ腹立たしいなと澄川は思った。
「そのためには他の教科もある程度は出来なきゃ無理だ」
呆れるように言い放った澄川にあゆみが続けた。
「ははは、透、本当は頭いいのにね」
「あゆみだって、社会とか暗記系の科目は苦手じゃないか」
不服そうに少し頬を膨らませて、透が言うのを見て、澄川は少し唇を上げて音を立てずに笑った。不覚にもその表情すら澄川は微笑ましいと思ってしまう。
「社会系は選択科目だから今受けてるうちのどれかがよければセンター試験はいいんです」
「む、それは卑怯じゃないかな。どうして学校の授業も選択式にしてくれないんだろ。そうしたら私の選択科目はずっと古典だけにしてゆっくり和歌が読めるのに」
ここって県有数の進学校なんだよなと澄川は独りごちた。
心底残念そうな透と、楽しそうにあははと脳天気に笑うあゆみを見て、澄川は眼鏡をもう一度上げ直し、深い溜息を吐いた。
そして、今日も一日が始まる。
症
いつだってそうだ。世の中は自分に厳しく出来ていると澄川は重い頭で思う。
朝のホームルームの一時間前に澄川は教頭の刻堂に直属の上司である岸川と共に呼び出され、個室で話をしていた。白髪交じりに神経質そうな銀縁の眼鏡を掛けた刻堂は、所謂仕事はできるが部下には細かい上司という典型である。
「それで、今度の試験でまた君のクラスの平均点が下がったのをどう考えとるんだね」
先日の自分のクラスの結果を見て、問い質す重い言葉に、澄川は真剣な表情を浮かべたまま硬い声を数秒置いて絞り出した。
「ひとえに、私の教育に対する熱意や努力の不足です。申し訳ございません」
「そういうことを言っとるんじゃないんだよ。正直、君の謝罪には全く切迫感を感じんね。羨ましいもんだね。どうして君のクラスのことで教頭の私が焦っておるんだろうね。君が焦って何とかするのが筋じゃないかね、ええ」
激昂し、責め立てる刻堂の言葉に、一体、僕の何が気に入らないのだろうと澄川は陰鬱な気分になる。
「おっしゃる通りでございます。鋭意精進いたします」
「私だってね、君を憎んでこんなことを朝から言っておるんじゃないんだ。全て君の将来や君に教えられる子供たちのことを思ってのことだよ」
「教頭、まあ、そのあたりで。後は私から」
「岸川君、君も君だ。ここまでになるまでにちゃんと対策は取ってきたんだろうね。ええ」
「それは教頭も知っての通りですよ。澄川君はまだ若いですし、ここでの生活に慣れてないのもありますから。ここはまあ、穏便に今後の成長を」
「まあいい。君らの学年だからな。来年は受験生の学年なんだ。ただでさえ、去年から国公立大への進学率が3%も落ちとるんだ。対策は後でしっかりと聞かせてもらうよ」
そこまで言って、刻堂は目の前に置かれていた湯呑のお茶を一口啜った。
澄川明はこの一連の上司たちの叱責の間、口では受け答えをしつつもぼんやりと自分の世界に入り込んでいた。
自分をこんなふうに追い込むこの世界はきっと間違っているのだ。
いつ頃からか彼の心の中にはそう思うもう一つの視点が意味もなく出来上がっていた。
自分は大人としておそらく成長できなかった子供なのだと、ただ澄川はそう思う。
そんな人間が教師として何かを生徒に教えているのは如何なものかとそうも思う。
だが、そんなもの一切自分には関係のない世界での話だ。自分はただそこに在り、決して自分で自分を捨てることはできないのだから。
ふんと、鼻を鳴らし、お茶を飲み終えた刻堂は湯呑もそのままに、部屋から出て行った。
スライド式の扉の閉まる音が止んでからしばらくして、岸川が口を開いた。
「いやあ、しかし、澄川君も災難だなあ、教頭先生、今日は特に機嫌が悪いみたいだ」
でっぷりと肥えた顎を摩りながら、岸川は澄川に柔和な笑みを浮かべた。
「私も何年か前まではよく叱られたり、注意を受けたりしたよ。流石に今は立場があるからか皆が見ている前では叱責されずに済んでるんだが、恥ずかしながら、二人きりになったときはいつもさっきの調子なんだ」
「はあ……」
「だから、気にするなとは言わないけれど、まあ、あれが教頭先生なりの優しさと思って受け入れることだよ。何、心配いらんさ。まだまだ君は教師になって二年半なんだよ。これからいくらでも自分は変えられるさ」
「はい、ありがとうございます」
自分を変えられるなど、冗談ではないと澄川はその言葉に異を心の中で唱えた。
今日もまた朝から叱責を受けてしまったいう強迫観念にも似た、恐怖や悲しみ、焦燥感などの感情が入り混じった陰鬱な気分で澄川は自分の頭が酷く鈍っていると感じた。
眠気に似た倦怠感も感じる。出来ることなら何もかも忘れてゆっくりと寝ていたい。だが、そんなことは出来ない。今から自分は一日の職務を遂行しなければならないのだから。
無意識に、体は部屋を出て、自分の机のある部屋に岸川と二人で向かう。
「まあ、頑張ってくれ。君には期待しているよ。相談ならいつでも乗るからね」
「はい、恐縮です。岸川先生。ありがとうございました」
そう答えて、澄川は吐き気を堪えるように右手を口に当てた。
貴方も僕のことを何も分かっていないくせに。そんなことが頭を過ぎり、途端に澄川は自分の内に篭もる黒い感情に気分が悪くなった。
岸川のことを気にしている余裕はなかったが、幸い澄川の様子には気づかずに、自分の席に戻ったようだった。
心が軋む音があるとすれば、それが澄川には聞こえているように感じた。
そう感じた時には既に彼の意識は違う場所に飛ばされていた。
澄川の精神世界では虐殺と呼ぶに相応しい行為がただふつふつと行われていた。
最初に鼻腔に火薬の匂いが飛び込んだ。日常的に嗅ぐ匂いではない。少なくともここ数年は澄川は嗅いだことのない匂いだったはずだ。花火や癇癪玉などで遊ぶことはもう思い出の中にしか存在しない。次に、ドライヤーを顔に直接受けたときの何倍もの熱さの熱風が澄川の顔を舐めつけた。ああ、炎だと澄川が認識した。今、彼にしか認識できない世界では、教頭と岸川が並んで十字架に磔にされ、目隠しをした状態で焼かれている。
「なあ、兄弟。お前の敵はこんなもんかい」
にやりと気味の悪い笑みを浮かべて澄川の精神世界の登場人物である“リョウ”が声をかけてくる。
「君か。今は次の授業の準備で忙しんだ。消えてくれないか」
澄川の言葉に“リョウ”は笑って答えた。
二人が燃える炎の熱が顔に張り付き、更に澄川は嫌な気分になった。
「つれねえな。お前が望めばこんな連中一瞬で塵に変えられるんだぜ。なぜそうしない」
「僕はそんなこと望んじゃいない」
そう言い放った澄川ににやりとやはり気味悪く唇を歪め、“リョウ”は言った。
「嘘だな」
「嘘だね」
そう、もう分かりきっていることなのだ。何といってもここは澄川の精神世界だ。彼の願ったことを“リョウ”が代わりに行っているに過ぎない。
どうやっても鼻に届く生き物が焼ける匂いに嫌悪感を抱きながら、澄川は口元に手を当てて自分の身の内を気味悪く這いずる何かに耐えた。
「アキラ、お前は優しすぎるんだよ。嫌なら嫌と相手にちゃんと言えばいい」
顔は笑っていたが、それは彼なりに心底から澄川を慮った言葉だと澄川は感じ取った。
「世の中はそんな単純に出来ていないんだよ。皆が嫌なことから目を背けて逃げ出してしまっては社会は回って行かないじゃないか」
震えたようにも聞こえる澄川の上擦った硬い言葉に、やれやれと諦めたように“リョウ”は頭を振った。
「そんな建前ばかり言ってるからこうなるんだよ、アキラ。いいから、お前はお前の好きにやってみろって、あの白髪のジジイも事なかれのデブもああいう目にあわせてやりたいほど鬱陶しく思っているんだろう」
顎でしゃくる先の刻堂と岸川はもうすっかり炎が回り、黒く焦げた部分が目立つようになっていた。絶叫は聞こえない。彼らの絶叫を聞きたくないから、その音を無意識に自分で消してしまったのだと澄川は思った。次第と、あれだけ臭っていた匂いが消えているのに澄川は気づき、手を下ろした。
自分は狂ってしまっているのだろうかと思い始めたところで、その考えを脇に追いやり、無理矢理澄川は口を開いた。
「もう行ってくれよ。リョウ、本当にこれ以上は、ちょっと気分が悪いんだ」
「そうかい、まあいい、では、またな」
一瞬で妄想が覚め、澄川はハッとして腕時計を見た。8:23の数字を確認し、朝のHRまであと10分もないことを知り、出席簿とボールペンを散らかった自分の机から持ち出した。
早く、自分は自分に与えられた仕事を行わなければならない。
それが社会で、そして自分の世界の法則なのだから。
先程まではあんなに物量や温度を持っていた何もかもが消え失せていた。あるのはただ現実という世界だけだ。そのことに一度だけ深い溜息を吐いて、存分に陰鬱な気分を味わうと、そこで総てを切り替えて、澄川は席を立った。
朝のホームルームが終わって、澄川は自分の担任クラスの1時限目をそのまま開始していた。右手にはチョーク、左手には教科書を持って、澄川は仕事を行っていた。
「さて、今日は源氏物語“若紫”の授業の二回目となりますが、今日は実際に教科書に載っている、垣間見の場面の訳を進める形で行います。皆、出しておいた和訳の宿題はやってきたと思いますので、僕が指名したら、順に一文ずつ和訳を答えて下さい」
誰に当てられるのかという緊張が目に見えて生徒達に走る。チョークを一度置き、澄川は眼鏡を上げて出席簿と座席表を手に取った、
「では、今日は、そうだな……。前の授業では確か宇野原さんが僕の質問に答えてくれていたね。……後ろの席の琴塚さん、最初の文から訳してもらえるかな」
澄川に言われて、古典の苦手な琴塚あゆみは自信なさげに目線を自分のノートに落とし、おずおすと口を開いた。
「ええっと、日もとても長くなって、退屈で、ゆ、夕暮れの深く霞んでる時に紛れて、あの小柴垣に出かける、のかな。う、うーん」
そこまで訳し、あゆみはシャープペンシルを握りながら頭を捻り、詰まってしまう。
「はい、ありがとう。最後の所が少し自信がなさそうだね。ところで、この一文の主語は誰だか分かるかな」
助け舟を出そうと澄川が口を挟む。
「え、えっとお、その……」
どうにも逆効果だったようで、あゆみは更に思考が詰まってしまったようだ。
「うん、まず、この場面は一体何の場面だったかを思い出してみることからだね。前の授業で概要は説明したが、この場面は主人公である源氏と若紫――後に彼の正妻となる紫上の子供時代のことだね、その二人の運命が初めて交差する場面だ。では、果たしてこの主観は誰になるのか。……はい、真神君」
「源氏ということになりますね」
突然の指名にも関わらず、優等生である真神築は澄川の狙い通りに、淀みなく答えた。
「その通り。つまりここでは、出かけるではなく、お出かけすると訳した方がいいね」
「ああー、そうなんだ」
澄川と真神のやり取りに、琴塚あゆみは納得するように、ノートにメモを取った。
「では、続きをそうだな……青島さん、訳して」
はいとあゆみの席の後ろに座る水泳部の青島海香が続きの文を訳し始めた。彼女も古典は得意な方なので、問題なく訳は進んでいく。
澄川の目線が、ふと窓際の席に移る。
窓際の一番後ろの席には、最初からまるで決まっていたかのように露沢透が座っている。
その瞳はまるで、一文字でも見逃してしまったら二度とはその文字を見られないかのように、あまりにも真剣に教科書に向けられている。
その姿を見て、澄川はそれが現実でないかのように思えてしまう。
教科書のページを捲る指も、好奇心旺盛に左右に動く猫のような瞳も、首を傾けるだけでさらさらと溢れる髪も、まるで澄川が自分で自分の理想の少女を作ったかのように感じられてしまうのだ。
なぜ、こんな何でもない動作の一つ一つに自分は心を、目を奪われてしまうのだろう。
澄川がそこまで考えると、青島の訳が終わった。
「先生、よかったですか?」
青島の声で、自失していた自分を戻す。今は仕事をしなければならない。
「ああ、大丈夫だ。よく訳せているよ」
澄川はそう言って、教科書に目を戻した。
「ありがとう、先生」
ボブカットの髪が一度揺れて、青島は教科書に再び目を落とした。
「いや、では、次のところは、柳瀬くん……は今日も休みか。では、次は……」
澄川は淡々と授業を続ける。それが仕事なのだからその行為は事務的で、機械的で、そして確実でなければならない。
自分にはミスは許されないのだ。
およそ千年前に書かれた若紫が現代で読み解かれていく。
この行為は仕事を超えて澄川の心に僅かばかりの安寧と癒しを与えるものだった。
現代では最早、異国の言葉以上に若者に馴染みのない古典や古語と称されるかつてそこにあって変貌し、失われたものを伝える職業こそ、澄川が憧れ、目指したものだった。そして、自分はその一端を確かに担い、社会貢献できている。そう、思え、感じられる瞬間だったから。例え、それが自己満足でも、まやかしでも。
生徒にとっては馴染みのない人物の一挙一足を事細かに探る時間が過ぎていった。どう思おうとも、どんな時間でも、時間はただ刻々と平等に過ぎる。ふと気がつけば、終業まで残り十分ほどになっていた。
澄川は、段々と集中力を失い、姿勢を崩したり、目を擦り始めた生徒たちをさっと見渡して、嘆息した。往々にして授業は眠くなるものだ。特に朝一番と、昼一番の授業はそういうものだ。
透だけは相変わらず、好奇心に富んだ瞳で今は澄川が板書している文字の一つ一つを自分のノートに書き記していた。
変わらない自分の職場の風景と仕事に対する僅かばかりの充足感を得て、澄川は次回の定期試験や受験に出題されそうなポイントなどをまとめて早口で説明すると、程なくして授業の終わりを告げる機械的な音が校内に響いた。澄川の時間はその音と共に終わった。無事に今日の必要な分の授業をやり終えたという微かな充足感が澄川の胸にゆっくりと広がる。
「今日は、これまで。号令」
学級委員である真神が声を上げ、生徒が一斉に立ち上がり、思い思いに一礼する。
「では、よしなに」
澄川は独特な挨拶をして教室をゆっくりと出て行った。
ざわざわと生徒たちが生み出す雑音が後ろから澄川に届く。
その音で、いつものように、授業を終えた時にあった充足感はあっさりと澄川の中から消えてしまっていた。
放課後になった。
太陽が傾き、世界はオレンジ色に染まり、一日が終わろうとしていた。
澄川は今日一日の報告書をただ黙々と自分の机で書いている。
ボールペンをただ走らせる時間が続く。
今日はこの後自分が顧問をしている文芸部に顔を出さなければいけない。
文芸部の部室には約束もしていないが、きっと彼女が待っている。
一秒でも早くこの面倒な作業を終わらせねばならないと分かっているのに、筆はあまりに進まない。
ああ、面倒だ。どうしてこの報告書は手書きでなければならないのか。それは決められたルールだからだと頭の中でぐるぐると思考が回っていく。
吐き気を催す前にようやくA4サイズのレポートを埋めきり、最後に自分の名前と印鑑を押して、提出用の赤色のクリアフォルダにそれを入れた。後は自分の学年の主任である岸川がこのフォルダを自分の机の上から持って行ってくれるだろう。
澄川にとって心の休まらない陰鬱な部屋を出る。
白い壁の廊下を茜色と山吹色とが染めている。
夕焼けの色は嫌いだ、と澄川は目を細めて思った。どうしてか悲しい気持ちになるから。そして、どこかに自分を連れ去ってしまいそうな不安感を煽るから。
廊下を歩き、階段を上る。部室が並ぶ特別棟の中の一室に澄川は半ば逃げ込むようにして辿り着いた。
ノックもせずにガチャリとノブを回す。
部屋の中にはいつものようにどこか儚げな少女が窓際に座って左手で頬杖をつきながら本を捲っている。
まるで、この場所と瞬間だけが、世界から切り離されているようだと澄川は思う。
「やあ、先生。いらっしゃい」
本から目を離さずに少女は澄川に言う。その横顔は妖艶で、儚く、魔性の色を放っている。
ページを捲る音だけが室内に響く。ここには他に何もない。ただ切り離された少女だけの空間があまりにはっきりと在った。
「どうしたの?随分無口じゃない」
口の中が乾いている、水が欲しいと澄川は思った。
「まあ、掛けてくださいな。何かお話しをしようじゃないですか」
にんまりと緩やかな笑みを浮かべた少女の表情を見て、ようやく澄川の意識が自分の体と連動し始めた。
少女の手が届かないぎりぎりの位置のパイプ椅子に澄川はゆっくりと腰掛け、横目で彼女を見た。
右手の細い人差し指と親指が少し日に焼けた本のページを更に一枚捲る。ただそれだけの行為なのに、どうしてこの少女が行うとこんなにも自分の心を乱すのだろう。吹き荒む嵐のような激情が朝と同じように自分を違う世界に連れて行かないように澄川は必死でその指から目を逸した。
その行動に澄川が感じたのは微小な破壊衝動とそっと野の花を愛でるような無償の慈しみだった。相反する心情の揺れ動きに酔いそうになりながら、澄川は自分を保った。
変化を望みながらもまだこの時間が続けばいいと思うのは一体どういうことなのかと澄川は思い、肺と脳に空気を送り込んだ。
数十秒の沈黙の後、静かにゆっくりと少女の本が閉じられた。二度の瞬きのあと、二つの黒真珠が赤に照らされ、澄川をすっと捉えた。
「今日の授業は面白かったよ。先生。あゆみはあまり興味が無かったかもしれないけれど」
話題を振られて、ようやく言葉や話し方を思い出せた澄川はゆっくりと返答した。口の中の乾きは無視をして、舌を動かす。
「そうか。若紫の巻は僕も結構好きな場面が多くてね。実は、今日の授業のところもそうなんだよ」
そう言うと、少女は我が意を得たとばかりに満面の笑みを浮かべた。
「垣間見のところは私も好きだよ。紫上と源氏の物語が始まるところだもの」
少女の頬が夕焼けに照らされ、赤く染まっていた。年相応の幼さと、女性の持つ色香の混じった可愛らしさが一層澄川の心を揺さぶる。その内心の動揺を出さないように、澄川は一瞬窓辺に目を向け、言葉を続けた。
「そう、結末はどうあれ、あそこが全ての始まりになるんだ」
澄川の言葉に指を交差させ、透は澄川にすっと顔を近づけた。
「結末か、ねえ、先生。紫上は果たして源氏に出会って幸福だったと思う」
夕日に赤く染まってさえ、尚色が分かる薄桃色の唇が花開き、疑問を提示した。
「それは難しい質問だね。きっと当人同士でしか分からないことじゃないかな」
自信なく、迷いきった澄川の回答に少女の目が幾分か細くなる。
「私は、彼女は幸福だったと思うよ」
まるで親しい友人のことを言うように、少女は澄川に告げた。一息吐いて澄川は眼鏡を一度指で上げた。
「どうして言い切れるんだい」
「だって出会わなかったら彼女は恋に落ちず、愛に悩まなかったと思うから」
澄川の疑問に間髪入れずに、少女は答える。それは澄川からすると随分と夢に溺れた意見だと思った。否定はしないが、到底それだけを聞いて納得は出来なかった澄川は口を開いた。
「些かロマンチックな考え方だね。それがどう幸福に繋がるんだい」
澄川の言葉に透は照れ臭そうにくすりと一度口だけで笑って言葉を紡いだ。
「先生、私はね、生きるってことは何かを愛するってことだと思うの。恋人であったり、家族であったり、思い出であったり、物語であったり、それは人や状況によって様々だろうけれど、とにかく生きるってことは何かを常に愛し続けることだと私は思う。もし、何も愛せなくなったら、それは死んでいることと同じことだとは思わない?」
聞いていて、ああ、何と純粋な意見なんだろうと澄川は呆れながらも少女に魅せられていた。少女の言葉には嘘や偽りは微塵もなく、それを心底から信じていて、他人にも同意してもらえると思っている。まるで尻の青い子供の考え方であり、それこそが澄川が心の底から世界に求め続けて、とうとう得られず、生きるために手放さなければならなかったものだった。
「そうじゃなくても、何かを愛していなくとも生きている人なんていくらでもいるだろう」
澄川は自分の心に泥のように溜まっていたものへと真水を数滴垂らされたかのように感じ、その感触があまりに今の自分に心地よかったから、あえて刃を仕込んだ言葉を選んだ。
「意地悪だね、先生。私の考えだと、その人たちはもう死んでいるんだよ」
「言い切ってしまっていいものだろうか、僕にはちょっと分からないな」
自分への死刑宣告を回避するかのように澄川は苦笑する。危うく、今自分は少女に殺されかけたのだと思うと、危機感と同時に不釣合いな安堵が澄川の心を占めていた。
「幸福に生きるって愛に溢れて生きるってことと同じようなことじゃないのかな」
「言い切りすぎだよ、そうじゃなくても人は生きているよ」
澄川は知っている。そんなものはなくても人はただ生きるだけなら何の問題もないことを。なぜなら、自分がそれは実践してしまっているのだから。だが、それをこの少女に言葉に出して語るわけにはいかない。これは自分で学び取り、悟るしかないものだと澄川は思うからだ。
「それは生物として心臓が動いているから生きてるとかそういうことじゃない。精神的な問題なんだよ。私が言いたいのは心が死んでしまえばそれは人間としての死ではないかということなんだ」
「君は頑固だね」
言いながら、澄川は思う。頑固になったのは自分自身で、少女の言っていることはあまりに尊く手の届かない遠い真実の一つでしかないのだと。そして、少女の言葉は一片たりとも間違っていないのだとも。
「先生は意地悪だね。ちょっとは可愛い生徒の肩を持ってくれてもいいじゃない」
「その言い方は卑怯じゃないかな」
唇の端だけを澄川は歪め、一度、眼鏡を上げる。
「いいんだよ、いつの時代も女は卑怯な方が魅力的じゃない」
「そして男はいつも泣かされると」
「分かってるじゃない」
鬼の首を獲ったように少女はくすりと笑った。勝ち誇ったような笑顔もまた澄川にとっては可愛らしく映った。
「そうだね。分かりたくもないが、三十年近く男をやっていると分かってくるんだよ」
少女の言葉を借りるなら、それこそ生物学的に、あるいは遺伝的にこれは決まっていることなのだろうなと澄川は自嘲気味に思った。
「話を戻すけど、だから、愛について生涯考える時間を持てた紫上は、そう、それはそれは幸福な人生だったんだろうと思うんだよ」
今の透にはそう映るだろう。だが、それは月日を重ねるほどに不幸なことだと思えてしまうものだということを、澄川は知っていた。
「それは君の意見だろう、紫上はそう思わなかったかもしれないよ。そもそも、なあ、君は愛について何を知っていると言うんだい」
「全て分かるよ、二十年近く女をやっていると分かってくるんだよ」
先程のお返しだと言わんばかりの少し刺のある言葉だった。
色恋に熱を感じなくなってしまったのは一体いつの頃からだったのだろうかと澄川はふと思い返してみる。だが、それを思い出すには至らなかった。では、初めから自分は冷めた人間だったのかもしれないとも思ったところで、心から口へ言葉が漏れた。
「そういうものか」
「そういうものだよ、先生」
即答する彼女の危うさが澄川にはとても不安だった。
「僕にはきっとよく分からないものだな」
「それはそれで幸福なことかもしれないね。恋も愛も知らず、難しく考えずに生きるって生物としてはある意味正常な状態かもしれないもの」
「悩むのは人間の特権だということかな」
「そうだね、そうとも言う」
では、自分はやはり正常なのだろうと思い、途端に言い知れぬ不安に手を握られた。澄川にとって、正常であることの不安は子供の頃から拭えない心的外傷の一つだった。
「そろそろ帰るよ、今日も先生との会話は楽しかった」
数拍の沈黙の後、開いていた本を閉じて少女が鈴が鳴るような声を上げた。その言葉には一切の嘘や偽りを感じなかった。
「僕も帰るよ。途中まで送ろうか」
「うん、一緒に帰ろう、先生」
ふと気づくと、夕闇が世界を侵食する時間だった。全てが闇に染まり、不安だけが支配する世界においてさえ、少女は美しかった。レースの布に透ける光のような暖かさと緩やかさが同居した存在の感触。澄川にとって、それが露沢透だった。
澄川はパイプ椅子をしまうと、ゆっくりと少女を振り返り、ドアを開けた。
ドアをくぐる一瞬に、少女の黒髪が影を引き寄せるようにさらりと何の抵抗もなく、一度に流れた。
暗闇が支配する世界で、ただ少女だけが眩しく、澄川にとっての希望だった。
澄川は夢を見た。幸福なはずなのに、どこか悲しく怖い。そんな夢だった。
初めはただ深い闇があるだけだった。
冷たく、何人も寄せ付けない拒絶のような刺々しい空気の闇だった。
夢の中であるという感覚はあった。しかし、それは余りに曖昧で、澄川には現実との線引きをどこでつければよいのか分からなかった。
不意に世界に光が生まれた。
「先生、川端康成って作家はとても先生に似た考え方に思えるんだけど、どうだろう?」
いつものように何の脈絡もなく少女は澄川に問う。
「ノーベル文学賞作家と僕を比べてるのは少し僕には恐れ多いことに思えるね」
その問いの深淵を覗き込まぬよう、澄川は当たり障りのない言葉を敢えて選んで答える。
「そういうことじゃないよ。人生哲学の問題」
唇だけで笑って少女は言葉を続けた。
少女の細い指が澄川のメガネにゆっくりと伸ばされた。
「それこそよく分からない。僕は人生に対してそんな哲学なんて高尚なもの持っていないよ」
そう澄川が言うと、今度は頬を少し緩めて少女は澄川の眼鏡を取り上げ、瞳をすっと覗き込んだ。
澄川の視界が歪むが、少女の顔だけが輪郭をはっきりと浮かばせて、やがて焦点が合う。
背景のない二人だけの世界で少女の瞳だけが澄川の目に映し出された。
「天邪鬼だなあ、先生は」
澄川は深すぎる黒い目にこれ以上何かを奪われないように目を逸らした。
「僕はそれほど川端康成の作品を読んでいないけれど、君は何を読んでそう思ったの?」
「いいや、何となく。私も雪国と伊豆の踊り子くらいしか読んでいないよ。両方ともとてもとても好きな作品だけれど」
澄川にとって、少女の言葉はいつだって謎と不思議な温かみに満ちていた。
「ますます分からなくなった。本当にどうしてそんなことを思ったんだい?」
「だから何となくだよ。いいんだよ、こういうものは何となくで。いつだって物語は後の世の人々が読んで、自分の何かを結びつけて感傷や感情や感動に浸るものなんだから」
「国語の教師を前にして何とも身も蓋もないいいようだけれど、まあ、君が感じるように読めば良いさ。それは決して悪いことじゃないと僕は思うよ」
少女の言葉の一つ一つが自分に染み渡るのを感じながら、尚も澄川はどこかに踏み止まるように言った。
少女の手から澄川のメガネはいつの間にか無くなっていた。
白い大きな楓のような掌が、澄川の顔に再びゆっくりと伸ばされてきた。
「先生の好きな物語は源氏物語なの?」
「そうだね、あれはとても好きだ」
それは、真実、澄川の心からの言葉だった。
白い指が澄川の両頬に振れ、心底嬉しそうに少女は小首を傾けて問う。
「どうしても普段の先生と源氏物語が結びつかないんだけれど、そのあたりどうなのかな」
「どこが好きかって話かい?とても難しいね。一言では言い表せそうにない」
そう言って、言葉を商売道具にしている者の返答ではないなと一瞬澄川は自嘲する。
「ふふふ、私は何となく分かるなあ。きっと先生はね、とてもとても優しくて愛に溢れているからきっとそういうものを描いた物語に惹かれてしまうんだよ」
その少女の発言で、澄川の心のどこかが壊れた音がしたが、その音を無視して自分の防波堤を作る言葉を探した。
少女の手から伝わってくる体温だけが今の澄川にとっての道標だった。
「君が何を見ているのかよく分からないけれど、僕は優しくもないし、愛に溢れてなんかいないよ」
それを受け入れてしまっては、自分は壊れてしまうのだからと澄川は思う。
「それは先生が世界や社会に合わせて自分を押し殺しているからだよ」
「大人ってのはそういうものなんだよ」
間髪入れすに澄川は自分の壁をさっと差し込んだ。
「それは痛みを知ってしまったから子供であることを否定しているに過ぎないよ」
「君はまだ子供だからね」
「そんなものの線引き、誰が決めたの?」
「決められなくても人は皆大人になるんだよ。望まれなくともね」
少女の言動の一つ一つがが澄川にはとても愛しく、そして怖かった。
「先生らしいね」
「僕らしいんじゃない。それが社会のルールさ」
澄川は、指から伝わる体温がほんの少しだけ冷たくなった気がした。
「そういうことにしておくよ」
そして少女はとても嬉しそうに綺麗に笑った。それは澄川にとって救いであり、希望であり、毒物であり、絶望だった。その笑顔をただただ愛おしいとだけ思えたなら、どれだけ自分は幸福であっただろうか。
「ねえ、先生。もう今日も終わりだね」
笑みが消えた少女の口から終わりを知らせる合図が発せられた。
少女の指が澄川の顔からゆっくりと離れて、やがてその温度を感じなくなった。
「そうだね。何とか今日も一日が終わったみたいだ」
安堵もなく、ただ明日が自分を待っているだけだと澄川は思った。
「先生は、今幸せ?」
彼女の唐突な質問に澄川は一度詰まったが、考えを巡らせて答えた。
「どうだろう、幸せって一体どんなことなのか、僕にはもう分からなくなってしまったよ」
「そう言うと思った。うん、先生らしいね」
ふと澄川は少女にその質問を返したくなった。
「君は今幸せなのかい?」
少女は一切悪意のない眼で澄川を一度見て、笑った。
「幸せだよ、もちろん。私はいつだって幸せで、幸せはいつだってそこにあるものだもの」
澄川の心にその言葉はあまりに透き通って響いた。
詠うように紡がれたその言葉が澄川の世界に溢れ、そしてゆっくりと消えていった。
「そうか。それは、うん、何よりもきっといいことだね」
澄川はそう明るい声で答えたつもりだったのに、言葉になった瞬間にそれは存在を否定するようにただ零れ落ち、過ぎ去っていった。
少女がその零れ落ちていった言葉を一つ一つ噛み締めるように、一度長く目を瞑った。
「先生の言葉はまるで詩のようにただそこにあるだけで私に何かを訴えてしまうね」
そんな力も意味も自分の紡ぐ言葉にはないと否定しようとして、澄川は口を噤んだ。それを言ってしまうのは少女と交わしてきた何か純粋なものを叩き壊してしまうような危うさを感じてしまったからだ。
「だから先生の言葉は一つ一つ、とても好きだよ。端的に言って、何でもないことなのにそれはとても愛おしい」
言い過ぎだと澄川は思ったが、それもまた言葉には出さなかった。
たまには言葉以外で語り合うのもいいだろう。今はこの自分たちが作り出した空気を、世界をただ愛するのもいい。
どれくらいそうしていたのか、澄川と少女は自分たちの言葉が作り出した世界の中で、ただ目を瞑ってその温かさを享受していた。
だが、やがて世界は終わりを迎える。
少女は輪郭を失い、世界から消え始めていた。
その存在のあまりの危うさと儚さが澄川の胸を締め付ける。
「今日も終わりだ。そろそろ、行くよ」
「うん、また明日だね、先生」
何でもないことのように少女の声に、今自分が感じている恐れは一切感じられなかった。
「ああ、では、よしなに」
少女の顔をもう一度見たいと思ったが、そこに少女はもういなかった。
後にはただ二人で作った世界の残滓のような温かみだけが澄川の指先や心の真芯の部分にだけ残っていた。
そして澄川は、一人、闇に落ちていく。
闇は変わらず冷たく、ただそこにあったが、澄川は満たされたような感触を心に抱き、深淵へと落ちていった。
そして、今日も一日が終わった。
証
眠り続ける澄川を見つめる二つの影があった。理解できない声だけが澄川の耳に届く。
「それで、彼は現実を認識出来ているんですか?」
知らない女の声。知っている煩わしい男の声。
「いや、現段階では一切出来ていないですね。ここが更生施設であるという認識もない。彼に都合の悪いものは何でも歪められて彼には見えているようです」
現実は自分で決めるもの。それは、自分しか観測できない。
「では、やはりここを今でも自分の職場と思っていると?」
自分の使命は、仕事をして社会に貢献すること。
「澄川君の症状は非常に難しいケースです。彼は普通に日常生活を行う上では食事も排泄も一人で出来ますし、仕事もできます。ただ認識だけが我々と違う」
認識はいつも合わさらない。
「刻堂先生の更生プログラムで治る見込みはあるんでしょうか?」
煩わしく、口うるさい上司。
「何とも言えません。先程も言いましたが、彼には現実のものが歪められて見えています。現状私のことも医師のことも全て同じ職場の教師だと彼は捉え、インターンの学生のことは生徒だと思っています」
雑音を生み出すだけの顧客。
「そんな……」
自分の世界だけの認識。他者を排除する王国。自分を守るための何か。
「白い制服というのを彼は自分の世界の職場の設定に組み込んでいますから服装での判断も難しいのでしょう。また、矛盾がある度に彼の脳は認識を自分の都合の良いように組み替えてしまいます。記憶の混在や、過去自分が経験したことを今の現実であるとしてしまうわけですね」
かつて自分が持っていたはずの、捨ててきてしまった多くのもの。
「まだ、時間はかかりそうですね」
無限に続く地獄の日々の猶予。
「ええ、焦ってはいけませんよ。彼の場合は治るにしろ治らないにしろ経過に莫大な時間がかかる。ここではそれが許されるだけの時間と設備がありますし」
終わらない自分の世界。
「そうですね。やはり、思い切ってこの白波更生施設に移って良かったです」
由緒正しく優秀な進学校に勤める自分。
「それは、どうも。・・・ああ、ところで、露澤透という方に心当たりはありますか?」
希望の象徴。
「いえ、ありません。その方が何か?」
そして、失ったものに対する畏怖。
「彼の世界にはよくその少女が出現しているようなんです。生徒の一人としてね。他にも生徒の名前は出てくるんですが、この名前だけが実在しない人物なんです」
熱と肉を持った狂気。
「私の……、知らない子ですね」
そして、愛の終着点。
「そうですか。まあ、しかし、彼の人生の中でどこかで出会っている子なのかもしれません。誰もがその人の一生のうちに出会った人間すべてを把握できているわけではありませんからね」
自己世界の形成。
「そうですね。長い間一番傍に居たと思っていましたが、それは私の思い込みなのかもしれませんね」
本当に自分が欲しかった絆。
「いや、まあ、それはないと思いたいのですが、何ともね。あと“リョウ”という名前もよく出てくるんですが、これは彼の半身のことだと我々は考えています。この名前の人物もおそらく知らないですよね?」
自己嫌悪の塊。滅びに対する美学。失われた幼児性。
「“リョウ”ですか?その方も私には心当たりがないのですが……」
それは身の内から生まれ、滅びるもの。
「ああ、やっぱりね。おそらくこれは、簡単な言葉遊びですよ。ほら彼の下の名前を漢字で二つに割って音読みしてみてください。ちなみに彼は自分の本名を今“アキラ”と思っていますよ」
自分の存在証明と命題。
「そういうことですか……」
自己肯定、自慰、ナルシズム。
「彼は自分の暴力的な部分やおかしな部分、嫌な部分をその半身に請け負わせているみたいです。二重人格とまではいきませんが自分にしか見えないお友達といったところですか」
吹き荒れる暴風雨の中に取り残されてしまっている。
「たまにそういうのが見える子供がいると聞いたことはありますが、大人になってもそういうことがあるんでしょうか?」
大人の定義。一体どこでご教授願えるのか。
「まあ、人間の内面の世界の話ですからね。多かれ少なかれ、正常と思われている人間でもある話ですよ。自問自答なんて言葉もありますが、あれも裏を返せば、その見えないお友達に話しかけてるようなものでしょうからね。人間の内面の世界なんて誰にも、それこそ自分自身にもうまく説明できないものなのかもしれません。彼を見ているとね、たまにそう思うんです」
固有の世界。自分を守る境界にして結界。
「そういうものでしょうか」
自己精神の独自の理想郷。あってはならない楽園。
「私がこんなことを言っていてはいけないのでしょうがね。ああ、そうそう、今日はもう彼の中で一日は終わっています。赤いファイルを提出してくれましたからね。これは絶対に平日やってくれています。読まれますか?内容以外は実に見事なレポートですよ。とても重度の精神疾患によって、現実が認識できていない人間の書く文章や文字とは思えない」
自分の信じる社会から外れてしまったベクトルの重み。
「いえ、昨日も読みましたので、今日はちょっと……」
理解不能。警戒信号。無用長物。
「ああ、失礼。そうですね、分かりました。回復を期待してしまうとやはり堪えますからね、これは」
期待への威圧感と自己への失望。
「そうですね……。すみません、仕事がありますので、今日はそろそろお暇します。良明のことをよろしくお願いします」
自分を確立させる自分に初めて与えられた言葉。
「ええ、お任せ下さい。貴方もゆっくりと休まれた方がいい。では、お送りしますよ」
それきり声は止んだ。
今の澄川にはその言葉の意味は一切脳に届かなかった。
そして、明日も澄川の一日は何事もなく、ただ続く。