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春空カノン  作者: 兎乃井メライ
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【第八楽章】 孤 独

 その日の夕飯は家族四人が揃った。

 めずらしくお父さんが早く帰ってきたのだ。

 フレックスタイムという制度が始まって、午後三時に上がれたらしい。お父さんの会社では過剰な残業をしないよう一ヶ月の労働時間を決めて、その枠内で稼動するために時々早帰りをして時間の調整をするんだそうだ。

「おかわりあるからねー」

 ほかほか湯気のたつカレー皿を、一人一人の前に置いていくママの声はいつもよりも明るい。

 お父さんは休日出勤が多い。だからこうして四人揃ってごはんが食べられるのは滅多にないことなのだ。

 今夜のメニューはカレーライスとポテトサラダ、とみそ汁。

 順番ではカレーは明日なんだけど、繰上げになったらしい。

「いただきます」

 全員の皿が揃ったところであたしは先にスプーンを取った。隣の聡太がぼそりとそれに続く。


 ――電車を降りた後、あたしたちはほとんど会話もなく縦に並んで帰って来た。

 ホームでの聡太の不可解な言葉があたしは気になって仕方なかった。

 でもすぐに混み合った電車に乗り込み、「どういう意味?」と聞くタイミングを失ってしまい疑問はそのままだ。

 聡太もその後は何も言わなかったから、今となってはもう掘り返せない。

 あれはどういう意味だったんだろう――。


「ねえ、どう? 今日のカレー」

 自分の椅子に座って、ママがいつものように向かいの聡太とあたしを交互に見た。

「いいんじゃない」と頷いてみせて、聡太はばくばくとカレーをかきこんでいる。あたしも素直に「おいしいよ」と答えた。

 ママのカレーは普通においしいと思う。

 薄いとか濃いとか水加減の差はあるけど、味は結局市販のルーだから間違いはない。時々さつま揚げが入っていたり豆腐が入っていたりとちょっと勘違いしてる気配もあるけど、標準には達しているんじゃないかな。そんなママのカレーライスを聡太は「ごった煮」と呼んでいる。

「よかった。今日はね、ルーの箱の裏に書いてある分量通りにやってみたのよ。いつもは適当なんだけどね。ほら“いい加減が良い加減”って言うじゃない? あら、ほんといつもよりもいいみたい。作り方くらい知ってるわよと思ってたけど、バカに出来ないわね」

 カレーを口に入れたママの顔がほころぶ。


 無邪気だなあ。

 そのオリジナリティ溢れる水加減やさじ加減で被害にあうことも、しょうがないような気がしてしまう。


「ほら、洋次さんも温かいうちに食べてよ」

 広げた新聞の向うに隠れているお父さんをママがつつく。「ん?」と白髪が混じり始めた頭をお父さんが上げる。そしてあたしたちを見回し、

「お、今日はカレーか」

 そんなとぼけたことを言って、新聞を四つに畳んでテーブルに置いた。

「もう、ごはんの時はやめてよね。夢中になって全然片付かないんだから。新聞なんて一つで十分なのに三つも四つも契約して」

 口調を尖らせながら、ママがビールの缶を持ち上げる。

 お父さんは新聞を読むのが好きだ。出かけない休日の午前中なんかは日当たりのいいリビングの窓の側に座って、スクラップ用の記事を見繕ったりしている。もともと口数の多い人ではなく、むしろ一人でのんびり趣味に没頭しているのがいいみたいだ。

「見比べるのも面白いんだよ。お、ありがとう」

 自分の持ったグラスにビールが注がれていくのを見て、お父さんがママにぺこりと頭を下げた。もうママはとっくの昔にホステスを辞めているのに、未だに客としての癖が抜けていなくて、お父さんは時々他人行儀にする。

「たまに家族全員揃った時くらい、皆で話をするもんよ。最近休日出勤多かったから久しぶりでしょ」

「ああ、そうだな……」ビールをあおりながら、お父さんがのんびりと相づちを打つ。そして聡太を見た。

「学校、どうだ聡太。もう慣れたか」

 ふいに訊かれて、聡太がカレーを食べる手を止めた。お父さんの質問はいつも間が変なのだ。

「うん、ぼちぼちね。クラスの奴らとも仲良くなってきたし」

 そう答えてまたカレーに戻る。今日の味はずいぶん気に入ったみたいだ。

「あ、そういえばクラス委員に選ばれた」

「え? なんで?」

 塩っ気の多いポテトサラダのきゅうりをつまみながら、あたしは思わず声を上げた。

「推薦で。その後多数決で勝手に決まった」

 おかわり、と聡太が皿を持ち上げた。受け取ってママが立ち上がる。

「引き受けたんだ。仕事多いよー、うちの学校のクラス委員。自動的にイベント委員も兼任だから、運動会とか文化祭とかこき使われるし。面倒くさがりのあんたがよく引き受けたね」

「だから勝手に決められたんだって。しょうがないだろ。ま、部活とかやらないからいいけど」

 聡太の肩が溜め息で上下した。

「でもいいじゃない、頼りになる存在だって思われたってことでしょ」

 ピンクの縁取りのかまぼこが入った大盛りのカレーが聡太の前に置かれた。ほかほか立ち昇る湯気の向こうで、ママがうれしそうに笑う。

「面倒くさいけどね」あたしの方を見て肩をすくめ、聡太はカレーにスプーンを入れた。目が合った時に一瞬だけ冷めた表情を見たような気がした。

「みんな見る目あるじゃないの。まあ学年首位だもの、当然よね。頑張んなさいよ」

 ママの声のトーンがあがっていくのがわかる。

 クラス委員なんて、生徒からしたらただの雑用係、避けたい役職だ。でもママには興奮材料になるんだろう。

 皿の上の大きなじゃがいもをあたしはスプーンで二つに割った。


――あたしはあまりものの、防災委員。


「なんだ、部活入らないのか」

 二杯目のビールを注いでもらいながらお父さんが訊く。350mlのビールを二缶飲み干さないとお父さんの食事は始まらない。

「うん、集団で何かやるのって好きじゃないし。強制じゃないよね?」

上目遣いに振られて、「うん、まあ」とあたしは答えた。

「どうせ毎日帰ってきて部屋に寝転がってるだけなんだからやれば? サッカー部勧めたんだよ」

「ああ、学洋高はサッカーが強いんだったな。入ってみればいいじゃないか。父さんは高校生の時部活のかけもちしてたぞ。運動部とギター部と……そうだ透子と同じ合唱部でもいいんじゃないか? 聡太もピアノ弾くだろう」

なあ、とお父さんに同意を求められてあたしは思わず言葉につまった。薄暗くて重たい気持ちが下からじょじょに押しあがってくる。

「もうやらないのか。最近聞かないな」

「うん」

 はっきりと頷いて、聡太はグラスのウーロン茶を飲んだ。

「もともと聡太は透子の真似して始めただけだったものね。でもピアノは女の子の楽器っていう感じだもの、もういいでしょ。それよりサッカーの方がかっこいいわよ」

 みそ汁椀を片手にママが小さく首を横に振った。

 そこまでしなくてもいいのにと思うくらいママは嫌なものの話をする時は表情に出る。ほんと聡太みたいだ。

「昔はよく二人で連弾してたわよね。まったくよく飽きないもんだと思ったわよ。でも始めた頃は大変だったわよねー。聡ちゃんてば出来ないってわんわん泣いて」

「……そうだっけ?」

「泣いてた泣いてた。その度に先生がアメもらって止まるの」

 じろりと聡太が睨んでくる。あたしはわざと歯をみせて笑ってやった。

「でも途中で透子を抜いちゃったのよね、確か」

 明るい調子でママが言う。

「青いバイエルの時だっけ」


 鋭くて速い風のようなものがあたしの中を通り抜けた。

 口の中に入れたじゃがいもをあたしはぐっと噛みしめる。

「――透子、ウーロン茶飲む?」

 急に聡太が立ち上がった。――さりげなく、絶妙なタイミングで。冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出してきて、赤と青のラインのグラスに注ぐ。

「……ありがとう」

 もそもそするじゃがいもを飲み込んで、あたしは呟いた。透明で茶色い液体の表面に、天井の白い蛍光灯の明りが浮かんでいる。


――気づかれた?


 焦りに飲み込まれそうになったことに。

 なんで聡太はわかるの? あたしが手を差し伸べて欲しい時が。

 平気な顔をしているはずなのに。

 そして訴えてくる、何も言わずに――

 時々、時限爆弾のようなどきりとする言葉を、そっとあたしに渡して。


「聡ちゃん、“おねえちゃん”て呼びなさいって言ってるでしょ」

 急に母親の声になったママが聡太を咎めた。

「なんで?」

「透子の方が年上なんだから、呼び捨てなんてやめなさい」

「たったいっこ違いじゃん」

反抗的に聡太がママをじっと見据えた。

あ、空気が悪くなる。とっさにあたしは口を挟んだ。

「いいよ、ママ。あたし気にしてないし、今さらおねえちゃんなんて呼ばれたってキモイしさ」


「だめよ」


 鋭い否定にあたしは驚いた。

 ママは怖いくらいの真顔だった。

 この顔をあたしは知ってる。


 聡太が高校を決めた時と同じだ――。


 でもそれは一瞬で、はっとしたようにママは瞬きを繰り返した。

「いいじゃないか、好きにさせたら」

 ようやく箸を動かし始めたお父さんが、何をむきになってるんだとママをたしなめる。

「だって、なんか大人みたいなんだもの。まだ十五歳なのに」

 かわいくないじゃない、とママがむくれる。さっきの棘立った空気はもうなかった。

「オレは大人だよ、中身はずーっと」

 カレーが半分残った皿にスプーンを下ろしたまま、あたしはぼんやりとみんなの食事の音を聞いていた。

「ね、透子おねーちゃん」

 ほくそ笑みながら覗き込んできた聡太を、あたしは「ふざけんな」と押し戻した。

 笑いが乾く。

 さっきのママの凍りついたような顔が、頭の中から離れない。メリーゴーランドみたいにぐるぐるぐるぐる。

 あと少しママが我に返るのが遅れたら、あたしは泣き出していたかもしれなかった。


――なんて窮屈なんだろう。


 家族団欒て、こんなに疲れるものなんだろうか。

 あたしの内側から樹皮のようにぼろぼろと剥がれ落ちたものが、硬いおはじきに変わっていく。

 弾けない、おはじき。消せずに積み上がっていくだけの。

 それでもあたしは喉を渇かせたまま笑うんだ。



 まだ大丈夫、そんな風に思いながら。


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